西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

大学教員の職名

2007-05-27 | 時論、雑感
この4月から、大学教員の職名が変わった。教授、講師は変わらないが、今までの助教授(Assistant Professor)が准教授(Associate Professor)となった。助手のうち、教育できる人材を助教(じょきょうResearch Associate)、純粋に教授等のお手伝い人材を助手(Assistant)とすることになった。
で、教授にも色々の役割、名称が出てきた。今日、平安女学院大学の山岡理事長に、立命館大学の例を聞いた。曰く、特任教授(国公立大学等の第一職場から退職した教授を採用する場合、フルタイムで来てもらわなくても良い場合、例えば週3日の出勤、講義の時は、特任ー特別任用ー教授とする)、特命教授(学長からの特命事項を遂行する教授)、特別招聘教授(有名教授、有名知識人を特別に招く場合の教授)等である。私は、この4月から(専任)教授から特任教授に移行した。

平安女学院大学後援会総会、懇談会、懇親会に参加、生活福祉学部のこと

2007-05-27 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
本日、日曜日、平安女学院大学の学生保護者で組織する後援会の総会、懇談会、懇親会が高槻キャンパスであって参加した。総会は、筋書き通り運ばれて終わった。新役員が選出された。その後に懇談会と称して大学の教学部長から教学の全体について、学生部長から課外活動と就職活動の概要の説明があった。就職活動については、より詳しくキャリアサポート課の職員からパワー・ポイントを使って説明があり、参加した教員にも「へーそういうことまでやっているんだ」との認識を植えつけたと思う。その後、食堂でサンドイッチ、ケーキ、珈琲など嗜みながら保護者と教員の懇親がはかられた。主に保護者と担任教員との交流だったが、私は隣に座られた生活福祉学部の保育コースに今年入学した母親と話しをした。お母さんが言うには、最近、娘さんは帰宅して大学での講義の様子を話してくれる。これは高校時代なかったこと、国民投票法に関連して憲法9条の話しを聞いた、自分も投票する場合、しっかり考えないと・・・、食品には色々体に害になる添加物も含まれるので注意が必要・・・などと言うので「へー」と思っているとのことだ。
このことを、後で山岡景一郎学長と生活福祉学部の諸先生との来年度に向けての募集についての話し合いの時、皆に紹介して「学生の背後の保護者に向けても話しをしている積りで講義すべし、私の持論」と言ったら、山岡学長(国際観光学部教授併任)が「先だって、国際観光学部の1回生に京都キャンパス隣の御所を案内したら、その話を親に説明した学生がいた」と紹介していただいた。とにかく共通科目でも専門科目でも「教養厚く教えると、学生だけでなく親にも影響を与え、回りまわって学生募集に効いてくる」と思った。

母に教わったこと

2007-05-27 | 金沢の思い出
今朝、ラジオで「お便り特集ー母に教わったこと」を1時間近くやっていて、感動することしきりである。皆、お母さんの一言や後姿を長く記憶して人生の糧にしているのだなあ、と思った。じゃ、自分の場合はどうかな、と考えてみたが、何か言葉として思い出すか、というと一寸思い出さない。優しくにこにこして私や妹に接していた印象ばかりである。ただ、私や妹のために「身を粉」にして働いていた後姿には、今でも頭が下がる。色々な事情で父と別れた母は、正に女手一つで、我々兄妹を育て上げたと言ってよい。自宅で近所の人を相手に昭和20年代の終わり頃に洋裁学校をはじめ、私が京都の大学に来た頃に寺町で、大々的に「高等文化服装学院」を始めて、いわば金沢中から生徒を集めていた。お蔭で私も「遊学」出来たと言ってよい。その働きすぎがたたったのか、私が大学2回生から3回生になる春休み1962年の3月に帰省した時に、母は肺炎で44歳の若き命を閉じた。その後、祖母と妹が協力して10年ほど服装学院を続けた。私は亡くなった母と祖母(84歳まで生きた)そして妹(夫婦は金沢の生家を継ぐ)に永久に頭が上がらないのである。
関連、父のこと:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/0941aba2c428c96c1f019812dcbc918b