西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

孫子(まごこ)は優しいよ

2007-05-13 | 言語・字・言語遊戯
前に「まごはやさしいよ」というブログは書いたことがある。http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/1d7bd966ce7ae32b5a8cbc632fcd6724
その話を、家政学会の懇親会で大羽和子先生(前名古屋女子大学長、現・中部大学教授、名古屋大学農学部卒)としていて、そういえば「米」が入っていないと言うことになり、表題のように「孫子(まごこ)は優しいよ」になった。家森幸男先生に会ったら「改訂版」を伝えよう。
ま・・豆類、 ご・・胡麻  こ・・米  わ・・若布、海藻類  や・・野菜 
さ・・魚  し・・椎茸、茸類  い・・芋  よ・・ヨーグルト

江戸時代の美濃平野部の特徴

2007-05-13 | 訪問場所・調査地
今度の家政学会は、美濃の中心のまちである岐阜で行われたので、講演で岐阜市立女子短大学長の松田之利さんの「江戸時代の美濃」という話を聞いた。ある意味では現在の美濃(岐阜県南部)を理解するベースの一つであろう。松田さんは1941年生まれで私と同年、長野市出身、東京教育大学で近世史を専攻、岐阜大学に長年勤められ最近、現職。夕べの家政学会の懇親会でお聞きすると奥さんは奈良女子大学の地理学出身とのことで「地歴夫婦」である。
で、松田さんの講演で私の脳裏に引っかかった要点を記す。まず初っ端に「皆さんは金華山の頂上のお城を見上げて、岐阜は城下町と思うかもしれないが、あれは織田信長時代にあったものの「復元」で、江戸時代は廃城、岐阜町は尾張徳川家の(飛び)所領で商工業の町・川湊のあった町、城下町と言えば、南の加納であった」と言われ、そうなのか、と思った。(最近、まとめて三人の岐阜高校出身者を知り、彼らの会話に良く加納が出て来ていたが、さっぱり土地勘がなかった。松田さんの話を聞き、帰りにJR岐阜駅で南に「加納口」、北に「長良口」と書いてあり、良く分かった。)私自身、長く岐阜は私の郷里の金沢と同じく城下町と思っていた。ところで尾張藩、加納藩といった言い方は明治以降の言い方で、江戸時代は「○○家所領」と言っていたとのことだ。そこで,「家老」「家臣」と言うとのことだ。関連で「家政」は、従って「○○家のまつりごと」ということではないか、というのが松田さんの解釈である。さて、次に言われたのは、木曽三川、木曽川、長良川そして揖斐川は江戸時代にも絶えず洪水で流路を変え、入り乱れて流れていたため、住む場所を確保するため住民自ら築いた堤防で中の集落を守った。それを「輪中(わじゅう)」と言う。そういう小単位のまとまりのよい集落が美濃平野部の特徴となり、現在でも例えば外来の岐阜県知事などは「地域全体のまとまりが悪い」と言うが、これが伝統と松田さんは言う。そういう輪中の開発を率先して行った百姓は地侍の系譜を引く「頭百姓」と言われ、それなりの格と文化を持っていたという。長屋門、白壁、羽織袴、詩歌や武芸等で、武士的色合いも持つ。工業では木綿、絹ともあり、美濃焼きは瀬戸物と一線を画していた、と言う。(そういえば、美濃紙というのもあるな、と思った)最後に印象に残った美濃の特徴は、東西文化の混在地域ということだ。「しちや」と「ひちや」、「名主と庄屋」、(うどん汁の濃いと薄い・・これは的場輝佳さんの研究)等々という。で、これらが現在までも「残っており」、いなか的まち、実質的豊かさを持っているが、固有性がやや希薄では、と言われた。さて、現代の「美濃人」はどう言われるだろうか。
(写真は、松田之利さん)
木曽三川の覚え方:http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/8566fe66e89c28b28f3b91632921b0b4

鵜匠・山下純司さんを訪ねて(2)物事をつながりで理解

2007-05-13 | 訪問場所・調査地
鵜飼が長続きするには、それを成り立たせている要素もまた長く成り立っていなければならない、ということだ。例えば、鵜舟であるが、もうこれをつくる舟大工は見つからない、と言う。まさかモーターボートにする訳にはいくまい。これからは自分でやるしかない、とのこと。それで現在のものをなるべく長く使うために今朝も息子さんが手入れをしていたのだ。次に海鵜、これはなんとかなるようだ。川に鮎が少なくなれば、6艘で年間157日も「営業」できなくなる。で、私は「ああそうだ」と思いだして、長良川河口堰の「効果」を聞いてみた。現在、河口堰の両側に小さい川が魚道として作られているようだが、もっと別の方法もあるのでは・・、と言う。鮎が少なくなったのは、その遡上の問題もあるが、更に水の質が鮎生息にそぐわなくなってきた、と言う。山の樹木の様相が戦後の人工造林で変わってきて山から流れ出る水の質も変わってきたようだ。中庭の池の水は長良川の伏流水とのことだ。このように鮎の問題は川の下流の海から上流の山まで「つなげて」総合的に理解しないといけない、と言っているようだった。篝火の松も脂の入ったものを得ようと思うと、生育条件の悪い海岸地帯の松とかやせ山の松とかでないといけないが、そういう松は11月以降に伐採の要があると言う。脂が樹木内にたまる季節と言う。
これを聞いていると、鵜飼一点で理解するのでなく、上下左右のつながりを線、面として理解し、つながりを維持し豊かにする行動を取らなければ、大事な一点も守れない時代なのだとつくづく思う。
山下さんは、河川管理当局も最近は住民の意見を聞くようになったのは良い、と言っていたが、果たしてそのシステムは実質化しつつあるのだろうか。

鵜匠・山下純司さんを訪ねて(1)

2007-05-13 | 訪問場所・調査地
今日は、昨日、長良川国際会議場で鵜を見せながら話をされた鵜匠・山下純司さん宅を訪ねてみたくなった。「鵜と人との語らい 鵜の庵 鵜」という鵜づくめの喫茶店をされていて庭に鵜小屋を作って25羽も飼っておられると聞いたからである。バスで長良橋を渡り、次のバス停の「鵜飼屋」で下りて、通りを地下道で渡り、長良川右岸の長良中鵜飼という町に入る。そこには岐阜の鵜匠6人のうち5人までも住んでいる。もう一人は少し上流に住んでいるようだ。山下さんの家はすぐ見つかったが、今日は喫茶店は「休み」と知り、がっかり。まあ10時前だし、10時になったらぶっつけ本番で「訪問ミニ調査」をしてみようと決心し、一旦、時間つぶしに長良川岸まで出てみた。そこには、鵜飼舟5艘がつながれている。その一艘で若者が作業を終え、岸に上がってきたので「おはよう、鵜飼の舟ですね」と声をかけてみた。若者は「そうですよ」と答えたので、勘で「鵜匠の跡取ですか」と聞いた。「そうです」と言う。「実は、昨日、国際会議場で鵜匠の山下純司さんのお話を聞いたのですが・・」と言いかけると「それは僕の親父です。今日は喫茶店は休みですが鵜小屋の掃除をするので鵜は全部、一旦庭に出すので見れますよ」と連れて行ってもらう幸運にぶつかった。「小さい頃から鵜舟に乗っているのですか」「いや、本式には大学出てからで、学生時代は小遣い欲しさに乗っていた」というやりとり、ちょうど庭先まで来た時、中から当主の山下さんが顔を出されたので昨日からの経緯を話すと「どうぞ」と言って木戸を開けてくれた。色々な話を聞き、色々観察もさせてもらった。途中から、やはり家政学会に来ておられた文化女子大の二人の先生も木戸を覗いていて招じ入れられ、一緒に話を聞いた。山下さんの家は、本宅との一階に喫茶店を設けているが今日は「休み」、第二、第四日曜は休みと言う。庭の真ん中にに鵜が泳げる池があり、その向こう(長良川上流側)に鵜小屋が並んでいる。その並びに篝火(かがり火)に使う松の薪のストック場、さらに色々な鵜飼にまつわる歴史や過去の道具、模型を展示している私設鵜飼博物館のようなものがあり、池のこちら側、即ち木戸から入ってすぐ左手にお話を聞いた休憩小屋があった。(続く)(写真は、鵜匠の装束、モデルは山下純司さん)