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東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

尾張屋春吉翁・今戸焼土人形作り風景②

2011-01-20 01:00:20 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010010 最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のご生前の姿の一葉です。

今から20年ほど前に金澤家の写真原版から複写させていただいた画像のひとつです。金澤家の方から改めてブログへの掲載のお許しを得てご紹介させていただきます。

撮影時期は昭和10年代でしょうか?土人形の素焼きに描彩されているところの様子です。翁が手に持って色つけされているのは「招き猫の火入れ」です。描彩の手順としては墨を入れるのは最後のほうです。また干し板の上には後ろ右から「河童の火入れ」「洋傘姉さん」「金太郎」、その手前の列右から「羽子板持ち娘(大)」「子抱き(大)」「天神(大)」、またその手前の列右から「鉄砲狐」「羽織狐」「丸〆猫」「子守狐」、最前列に「口入狐(裃)」と「狐拳の狐」が並んで見えます。

翁の前の火鉢には五徳の上にすりこぎのようなものが入ったどんぶりが乗っていて、横には片手鍋のようなものが見えます。膠容器か何かでしょうか。

火鉢の縁や周りには胡粉や泥絵具のようなものが飛び散って見えます。

筆立ては陶製のように見えます。さまざまな面相筆、彩色筆に混ざって腰の短い毛先の平な筆も見えます。これは溶かした絵具ではなく、人形の顔部分などに粉の朱色を摺り込んでぼかしを入れる「ぼかし刷毛」か真鍮粉を上から蒔くときに使う刷毛ではないかと思います。後ろに見える白っぽい柄入りの火鉢は今戸焼のものではないような、、。

春吉翁は6代目乾山を名乗った浦野乾哉(繁吉)と親交があり、その弟子であったバーナード・リーチにも焼き物ひととおりの面倒をみていたという話を聞きました。リーチが千葉県我孫子に築窯する以前の本所の時代のことのようです。我孫子の窯の写真を観ると、今戸の窯の影響がみられるという話を聞きますが、そうだとすれば、師匠の乾哉氏からの影響は当然のこと、春吉翁からの影響もあったものかと想像することもできそうです。

春吉翁の娘さんの「はなさん」は若いころ美人で「今戸小町」と呼ばれて有名だったそうですが、「はなさん」と乾哉氏の長女「ナミさん」(尾形ナミ・乾女)とはいとこ同士で2人でよく遊んでいたというお話を伺いました。

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山田徳兵衛 箸「人形百話」からへ→


今戸人形「相撲の毛人形」(明治時代?)

2011-01-12 21:24:58 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011261 画像の毛人形(毛たたき人形とも)について、今戸人形とすることには賛否あることかとも思いますが、今戸焼の周辺で作られていたものであるかと思うので今戸人形の仲間としてとりあげたいと思います。

画像の人形には素焼きされているものと焼かれていない生土のものとがあります。今戸の土人形は今戸焼から生まれたもので素焼きした木地に泥絵具等で絵付けしたものですが、実際に残っているものの中には素焼きされていないものもあり、手間を省いたものや窯を持っていなかった人が作ったのではないかと思われるものもあります。聞くところによると、窯を持っていなくても七輪で焼いたというケースもあったそうです。更に干しただけで全く焼かないで絵付けしたケースもあったようです。

そんな訳で、人形に限っていえば、焼かれていない今戸人形も実在し、その周辺の一文人形やこの毛人形などの際物と今戸人形との厳密な境界線をひくかどうかは人によって見解が異なることでしょう。少なくても隅田川の周辺の土で作られていることは共通しています。

画像の毛人形には肝心の毛が失われているのでピーンとこないかもしれませんが、嘗てはシュロの毛の袴を履いていたと思われます。2枚目の画像の山本松谷(明治3年~昭和40年)による明治の子供遊びの石版画をご覧いただけば、どのような形状でどうやって遊んだかはおわかりいただけると思います。人形たちを立てた台面あるいは床面をトントンと叩いて戦わせ、倒れなかったほうの勝ち、あるいは紙などの土俵の上で取り組ませて勝負をします。画像のような力士や行司の姿の相撲の他、剣士姿や桃太郎と家来の姿のものもありました。

毛人形は京都のほかよそにもあったようです。人形本体が土ではなくて、練り物や張り子のものもあったようです。十数年前、北京の街中で、京劇の姿の毛たたき人形が売られているのを目にしました。

2007_0101_000000p1011266


今戸人形「不知火関・大」(尾張屋春吉翁 作)

2011-01-10 01:19:04 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011263 最後の生粋の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による今戸焼の土人形です。

大相撲初場所が始まりましたので、とりあげてみました。全国各地に相撲力士をかたどった人形や玩具がいろいろとあったようですが、かつての江戸東京にも例に洩れずいくつかの素材(土・木・紙・おがくず)や形のものが作られていたようです。

伝世品や都内の近世遺跡からの出土品の中にはいくつか力士を題材にした土人形をみることができます。

この「不知火関」の人形などその中で特に知られたものではないでしょうか。

今戸人形の中では比較的大きなものの部類に入るのではないかと思います。

不知火諾右衛門は実在した肥後生れの力士(1801~1854)で8代の横綱だったそうです。しかし現在もみられる土俵入りの「不知火型」はその弟子である11代横綱・不知火光右衛門から始まったということです。

この人形は見るからに、元は伏見人形の力士の人形から型抜きされたできたものと考えられますが、配色や面描きなどいかにも今戸人形といった感じです。面描きの筆の走りが素晴らしいと思います。春吉翁は明治の終わりに一旦今戸人形の製作を中断され、関東大震災の後また製作をはじめられたそうで、この人形も再開後のものですが、型自体は昔から今戸で使われていたもののようです。春吉翁による他の人形への配色からみても、春吉翁以前のこの型の人形への配色は顔料の成分が異なったいるかもしれませんが、こうしたものだったのではないかと思います。ちなみに春吉翁は化粧まわしの朱色と群青色の部分の配色が逆転している彩色も残しておられます。

「不知火関」の人形には、この型よりもふたまわり小さなものもあります。

大・小いずれも髷の元結の部分には胡粉で×を入れてあります。

「不知火関・小」の画像はこちらをご覧ください。


今戸人形「高砂」(明治時代?)

2011-01-03 23:03:39 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011245 今戸焼、あるいは今戸周辺の土人形だと思います。

今日まで三賀日なので、人形でお正月にふさわしい題材のものをとりあげてみたいと思いました。

今戸の土人形としては「獅子頭」や「角兵衛」「亀抱き」「羽子板持ち」などもお正月にふさわしいかと思うのですが、奥にしまい込んでしまっているので、すぐに出せるこの人形にしました。

高さ7センチくらいの小さなもので、際物的性格の強いもののように思います。

おそらく板の台座に貼りつけてあったか、経木でできた箱に貼りつけてあったか、或いは旧式の東京の破魔弓のパーツであったか、そういうものではないかと思っています。

高砂の人形は全国の土人形の産地にいろいろと分布していたように思いますが、題材としてそんなに面白い造形、描彩のものは少ないのではないでしょうか?この人形もその例に洩れす、地味な感じがします。しかし小さい割には塗り分けや描き込みの手が混んだものではないかと思います。

今戸人形の場合、素焼きの木地を作る家と絵付けする家では必ずしも同じではなく、間に問屋などが入って分業体制に仕上げられたということも少なくなかったようで、内職で絵付けをするのは、落語「骨の賽」(今戸の狐)の中にも出てきます。この人形もそういう背景の中で作られたと想像することもできるかと思います。


今戸人形にもあった「玉兎」

2010-12-18 20:52:11 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011116_2 はじめにおことわりしておきますが、画像の「玉兎」の土人形は今戸焼の土人形ではないと思います。

どうしてここでとりあげるかといいますと、近世遺跡からの出土品の中には確か「玉兎」は存在しているはずです。どこかで観ました。

但し、出土品ですから、描彩が残っているはずもなく、ひょっとするとどこかに伝世しているのかもしれませんが、私はしっかりと確認していません。

画像の人形は伏見かその系統のものでしょうか?かなり大きくて10センチくらいの高さがあります。この人形以外にも、もっと小振りの玉兎も観たことがあります。御殿玩具からの影響でしょうか、背面に植物、特に吉祥的なものを描くことが多いのではないでしょうか?

今戸焼の古い人形の中にも、御殿玩具からの影響を受けていると思われる例は少なからずあるので、今戸の玉兎にもそうしたことがあった可能性を想定して、画像の人形からイメージしているわけです。

画像の人形の背面に描かれている植物はおそらく「繭玉」か「金のなる木」ではないかと思います。どちらとも願いの意味合いは共通するところがありますね。

そんなわけで、これこそ伝世の「今戸の玉兎」を確認できるまでは当座ではありますが、この画像の玉兎からイメージしたいと思います。2007_0101_000000p1011117

情報をお持ちの方がいらっしゃいましたらご教示ください。


今戸人形「餅つき兎」(尾張屋春吉翁 作)

2010-12-17 02:42:58 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011107 最後の生粋の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

兎が餅を搗いているというイメージは昔からポピュラーなもので、各地の土人形にもよくある構想ですが、江戸市中においては、兎のイメージとともに物売りの「かんかち団子売り」(景勝団子)の風俗をだぶってイメージしていた人が少なくはなかったのではないかと思います。その証拠に歌舞伎でもごく稀に上演される変化舞踊の「玉兎」などは、その影響下に初演されたとかどこかで読んだことがあるように記憶しています。

このお人形は春吉翁の創作なのか、それ以前から伝わっていたものなのかはわかりません。

近世遺跡からの出土品の中には、この人形のように、手前に臼があって正面を向いた兎が杵を持っている構図のものはあります。しかしプロポーションが異なります。

春吉翁の彩色を観ると、耳と眼の赤と袖なしの朱色とで赤みの色でも使い分けていることはもとより、同じ黄色っぽい部分でも杵は顔料、臼はイエローの染料とで使い分けています。臼はイエローの染料の上からスカーレットの染料で木目を描き加えています。手が混んでいます。

今戸焼の人形の中には座ったポーズの餅つき兎の型もあり、そっちのほうが有名かもしれません。しかし、こういう立ち姿のものもあったわけです。


今戸人形「子抱き兎」(尾張屋春吉翁 作)

2010-12-07 10:05:20 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011091_2 最後の生粋の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

来年の干支は兎ですので、気が早いかもしれませんがご紹介します。

近世遺跡からの出土品を含め、今戸焼の土人形の中にも兎の人形がいくつか作られていたことが確認できます。なかでも最も知られているのが「月見兎」の人形です。昔遊女たちが身重にならないよう「無事月のものを見るように」という願いを込めて買い求めたという話は有名なのですが、この話の出典がどこにあるのかということがはっきりしません。どちらかといえばこのようにネガティブな方向への祈いよりも兎は繁殖力が強いことから、多産→豊饒へのイメージであることのほうが一般的なのではないでしょうか?

この「子抱き兎」は春吉翁一代の創作による型であると聞いていますが、信仰的な背景があるかどうかわかりませんが、おめでたいイメージの人形ではないかと思うのです。昔の今戸焼には「子抱き~」「親子~」という種類の人形があります。親兎が子兎の蚤を捕っているというのがユーモラスですね。

画像の親兎の袖なしの地色は朱色ですが群青色に塗られたものもあります。また目玉焼きのような花柄のパターンは他の人形にも描かれることの多いもので、明治時代のお福さんにも散見できます。春吉翁による兎の顔の配色は独特で、耳と目の赤色は別の配色になっていることが多いです。耳はスカーレット染料でごく薄く塗り、眼は濃いスカーレット染料か赤の顔料を置いてから眼点を入れるというやり方です。耳も目もまとめて同じ色に塗れば手間も省けるのですが、そこに手間をかけるところに春吉翁のこだわりがあったのではないかと思うのです。

余談になりますが、明治時代には今からみると不思議な大流行がありました。「おもとの栽培」と「兎の飼育」です。あまりの流行に、投資的な動きまであったそうです。「兎の飼育」の流行に便乗して様々な兎グッズまで登場したようで、絵草紙屋の店先には「兎絵」という錦絵のジャンルが幅を利かせたらしいのです。当時の今戸焼の人形にも、そうした流行の背景があったのかもしれません。

今戸人形「月見兎」(尾張屋春吉翁 作)についてはこちらをご覧ください。


今戸人形「お大尽見立ての大黒様」(明治時代?)

2010-12-02 00:18:30 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011044 鼠にかじられているところもありますが、今戸焼の土人形の大黒様のバリエーションを見て頂こうと思います。こうした郷土人形を蒐集されている方の多くは状態をとても気にされることが多いかと思います。実際に痛ましい姿のお人形をお見せするのもどうか、、とも思うのですが、状態のよい人形に越したことはありませんが、私の場合最低限モデリングが把握できるということが目的でもあるのでご容赦願います。

この大黒様はお大尽の姿に見立ててあり、着流しに紋付といういで立ちです。千両箱?に肘をかけたその手首から先は手に宝珠を手にしていて、2枚の割型から抜き出した本体に別付けされています。

おおまかにいうと、今戸の土人形には2枚の割型で抜いたスタンダードなものから捻りとか小捻り(しょうねん)と呼ばれた型と手捻りとを併用した作りの人形まで成形方法に幅があり、この大黒様などその中間的なものではないかと思います。こうした作りの福禄寿の今戸人形を持っていますが、こちらのほうは「見立て」の姿ではありません。二福神として大黒様と対となるべき恵比寿様も「見立て」姿で存在していたのかどうか、、、。

顔の描彩も繊細かつ手が混んでいて、二重瞼まで描かれています。

頭巾の紫色はバイオレットの染料を濃い目に塗った色のようです。


今戸人形「恵比寿大黒」(江戸時代後期?)

2010-11-24 22:43:29 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011043 画像の恵比寿大黒は今戸焼の土人形としてはかなり大きな部類に入るものではないでしょうか?

大きさの割には手取りがそんなに重くないので肉薄にできているのかもしれません。

このように白眼と黒眼を描き分けた鯨型の眼を描いた人形が今戸の一部にあります。恵比寿大黒以外にも布袋様をはじめとして七福神などあったのではないでしょうか?

いかにも今戸の人形らしい群青色は使われておらず、恵比寿様の足部分の水灰色などベロ藍に胡粉を混ぜた色のようです。袖の臙脂色も古風な色なので江戸時代後期から明治の極くはじめくらいのものではないかと思うのですが、、。群青色は天保年間辺りから使われたと聞いているので、配色としてはそれより古いやり方なのだと思います。しかし、絵付けをした人の好みや、たまたまあり合わせの色ということも考えられるので、断定はむずかしいと思います。

表情がちょっとグロテスクな感じがします。

 

 

 

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今戸人形「枡入りの恵比寿大黒」

2010-11-22 21:11:06 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011021 二の酉も過ぎ、11月も終盤。いよいよ歳の瀬に向かっています。

そろそろ各地で歳の市が開かれる季節です。

浅草の観音様裏手で開かれる「ガサ市」や多くの人出でにぎわう「羽子板市」、世田谷のボロ市などを含め、いろいろな市が開かれますが、新年を前に、臼や杵、笊や箕などの調理器具、神棚やお神酒の徳利、〆縄などの飾りに混ざって、必ず恵比寿大黒の二福神や七福神のお姿が並ぶ光景に出会います。

これら福神の姿は、一刀彫風の木彫のものや真鍮や唐金製のもの、張り子製やセルロイド製もありますが、今戸焼で作られたものもかなり出回っていたようです。その種類は大小はじめどれだけの数があったのか数えきれないほどです。今戸焼の人形の中でたくさん作られたものとしては稲荷の鉄砲狐や裃雛と並んでベスト3に入るものではないでしょうか?

その多くは、まがいの金泥(真鍮粉)一色で塗られたもので、神棚に長年お祀りされて真っ黒になってしまったものが多いので、見た目が地味ですがモデリングや彫など比べてみるといろいろなバリエーションの幅があり面白いと思います。そのすべてをご紹介するのは種類が多すぎて不可能ですが、そのいくつかをご紹介したいと思います。

「枡入りの恵比寿大黒」。この形式の飾りは現在でも材質を変えて作られているものではないでしょうか?セルロイド製の恵比寿大黒になっているものは時々見かけられるような気がします。昔は今戸焼のものが多かったかと思います。半面のお姿の木地を今戸焼屋さんから仕入れ、色塗りして枡に貼りつけて販売するのは際物屋さんの仕事だったのではないでしょうか?恵比寿大黒の背後に見える小判の山積みもまたよく見られた型です。

枡は本物の枡のこともあるのでしょうが、画像のものは底板はほとんど経木のように薄い板でできていていかにも際物といった感じです。枡のところどころに「福」「寶」「壽」などのめでた尽くしの焼き印が押されています。面白いと思うのは、恵比寿大黒は青口の真鍮粉で塗られ、後ろの小判の山は黄土色にきら(雲母)を混ぜたような顔料で塗り分けれれていることです。こうした塗り分けのきまりが一定してあったのかそれともその時々で流動的だったのでしょうか。

 

こうした半面の恵比寿大黒には赤や群青などの顔料で塗られたものも見かけます。

枡と恵比寿大黒との取り合わせは「枡々繁盛」→「ますます繁盛」という語呂合わせの願いを込めたものでしょう。枡の内側対角線に仕切りをいれたものもあり、枡を半分に仕切って「半枡」→「繁盛」と念入りなのも見られます。

P1010453

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今戸人形「おかめ女郎」(尾張屋春吉翁 作)

2010-11-20 13:09:57 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1011020 最後の生粋の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

このお人形もまた大変手の込んだ作りでおかめ本体の割型からの抜き出しが面倒な形のように見えます。更に、頭髪に見られる簪は針金を使ってこしらえたもので、素焼き前に本体に挿しこんだものではないでしょうか。

当然素焼きのときには他の人形とぶつかったりしないよう、細心の注意で焼かれたものではないでしょうか。こうした細工は昔の箱庭細工や捻りの人形にも共通するやり方だと思います。

このお人形の型は春吉翁一代の創作によるものだと聞いています。春吉翁は明治の中頃、今戸の土人形の需要が減り、売れ行きが芳しくなくなってから箱庭細工の製作に転じていらっしゃったので、技術的にはこのように手の込んだ細工もできたのではないかと思われます。

このおかめさんなど髷の頭を結っていて、「おかめ」といわれない限り、「お福さん」と呼ばれても不思議ではありません。こんなことからも、「おかめ」と「お福」の違いを考えるとよくわからなくなってしまいます。


今戸人形「おかめの立ち姿」(江戸時代後期?)

2010-11-17 23:18:30 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010954 画像のお人形は少し時代が遡った今戸焼の土人形だと思います。

というのも群青色が使われていないので、配色としては群青色は使われるようになった天保年間のものより前の配色と考えてよいかと思います。

しかし、お人形の配色にはその時どきにある絵具の都合で左右されることもあるかもしれないので群青が使われていないからといってまだ群青色のなかった時代のものだと断定もできないような気がします。

このお人形の型は他の土人形産地にも見られるものではないでしょうか?

眼点はもとの持ち主がいたずらで描き加えたものではないかと思います。もともと一筆の眼だったような。実物の顔をいじる勇気がないので下手くそですが、画像をいじってみました。

2007_0101_000000p1010954a


今戸人形「猫抱きおかめ」(尾張屋春吉翁 作)

2010-11-17 22:53:08 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010942 画像は最後の生粋の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

このお人形を「猫抱きお福」と呼んでいる人もあるので気になっているのですが、頭髪は髷を結っているのです。しかしモヤモヤのほうはまだすっきりしていないので、人形そのものについて書いてみたいと思います。

このお人形はおかめ(お福?)の本体と猫を別々の型で抜き出して、ふたつのパーツを貼り合わせて作られています。また尾張屋さんの作で同じポーズでいて抱いているのが猫ではなくて大きな松茸のものも存在します。

松茸抱きであれば、いかにも花柳界好みで、お酉さまや歳の市で鬻がれていそうな気もしますが、実際のところどうであったかはわかりません。

この今戸焼の猫抱きの人形と同じ構図のものが名古屋でも作られていたようですが、有坂与太郎によると、今戸からの影響を受けて作られたような事が書かれていたと思います。

しかしまた、この尾張屋さんのお人形よりひとまわり大きな同じ構図のものも存在していて、伏見人形だというのを聞いたことがあります。とすれば、この型は伏見人形がオリジナルでそれからの抜き型で今戸で作られていたということなのでしょうか。

おわかりの方がしらしたらお教えいただきたく思っています。

 

 

 

 

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今戸人形「おかめ立ち姿」(尾張屋春吉翁 作)とおかめとお福の謎

2010-11-17 22:15:58 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010952 画像は最後の生粋の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による今戸焼の土人形です。

裲襠をまとって褄をとった立ち姿です。

今年はお酉さまの「とりのまち」は二の酉までで、三の酉はないようです。ということはこの冬は火事が少ないということになりますか?安穏な冬だといいですね。

お酉さまの熊手といえば「おかめ」の面がつきもの。尾張屋さんの懐古談によれば、「とりのまち」や歳の市などに向けて、昔は恵比寿大黒の土人形のほか、「金松」という不真面目なものを作って出していた、とありますが、この実物を私はまだ確認していません。花柳界などの客寄せの縁起物だということから、おそらくちょっと卑猥な姿のものであったろうという想像はできるのですが、、、。

今戸焼のおかめといえば一番にイメージされるのが「火入れ」だと思います。これは以前とりあげました。お酉さまと直接関係があるかどうかは別として。

今戸焼に限らす、「おかめ」といわれる人形と「お福」とよばれる人形が存在します。どちらも下膨れの顔に低い鼻で愛嬌のあるお顔です。そのキャラクターの違いについて気になっています。

漠然とした私の先入観でいうと、おかめ(阿亀・お亀とも)はおさげの髪型で、官女のような袴姿をしていることが多い?おかめは御神楽などに「ひょっとこ」と一緒に登場する。「おかめそば」や「おかめ納豆」「おかめ笹」「おかめインコ」がある。

「お福」は髷を結っている。角隠しをしているのもある。羽織や裲襠をまとった姿というイメージ。福助と一緒のカップルというイメージ。京都の生八橋のキャラクターになっている。伊勢の福餅のパッケージには「おかめ」のお面が描かれているのが不思議???。

念のため辞書をひもといてみると、「おかめ」も「お福」も「お多福」の意味と出てくる。wikipediaには

おかめ(お亀、阿亀)は鼻が低く頬が丸く張り出した女性の顔、あるいはその仮面。頬の張り出した形が瓶に似ているから名付けられたとされる。おたふく(お多福)ともいう。

面は里神楽などで道化役の女性として使われることもあり男性の面であるひょっとこと対に用いられることも多い。 またお多福ともいうように福が多いということから縁起がよいとされ浅草などの酉の市の熊手の飾りなどに使われるようになった。

本来古代においては太った福々しい体躯の女性は災厄の魔よけになると信じられ、ある種の「美人」を意味したとされる。だが上記縁起物での「売れ残り」の意味、あるいは時代とともにかわる美意識の変化とともに不美人をさす蔑称としても使われるようになった。

滑稽な面の起源は日本神話の女性アメノウズメといわれているが、おかめの名は室町時代巫女の名前からという説もある。お多福は前記の福が多いという説と頬が丸くふくらんだ様から魚の河豚が元という説もある。

京都の千本釈迦堂(大報恩寺)には本堂を建てた大工の棟梁を助けたうえ命を絶った妻のおかめの伝説がある。そのため京都で棟上げ式を行うときおかめの面を御幣に付ける習慣がある。

建築土木の現場では、土や砂利、コンクリートなどを掻き寄せたり、敷き均すための用具。「鋤簾」のことを阿亀と称して呼ぶ。

とあります。「おかめ」と「お福」の違いについては辞書の上ではだいたい同じということなのでしょうか。でもまだ釈然としないものが、、、。そんなわけでモヤモヤとしているところです。

 

 

 

 

 

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今戸人形「福助とお福」(尾張屋春吉翁 作)

2010-11-09 01:44:42 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010951 最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

夫婦一対ですが福助さんが裃姿でなくて紋付袴姿です。伏見人形の中にはこうした姿のものもあるかと思いますが、今戸にもあったのですね。

お福の配色は赤部分の顔料が新しいかもしれませんが、天保年間の配色手本と大差はありません。このように伝承されていたということがすごいと思います。

面描きの筆さばきも素晴らしいです。

 

 

 

 

 

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