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東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

乾也雛と浅草雛

2011-03-05 13:28:41 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010004 このお雛様自体は今戸焼の土人形であるということではないと思うのですが、今戸焼周辺で作られた「浅草雛」という形式の人形とのつながりがあるのではないかと思うのでとりあげてみます。

この土雛もまた供箱で、「乾也雛」という箱書きと箱裏に「大正7年4月吉日」と記されています。月遅れの初節句に求められたものなのでしょう。

しかしどう見ても三浦乾也の作ではなく、乾也作の様式の雛、乾也風雛として作られたものではないかと考えています。

東京国立博物館には三浦乾也作の「土製室町雛」が収蔵されていますが、目がくらむ程の精緻な描き込みのある作品で画像の人形とは作品の密度が違います。しかし共通点を挙げるならば、団子のような丸い頭に独特の形の鼻、リアルさを離れた様式化されたフォルムといったらよいでしょうか?檜扇や笏の形も似た方向性です。

三浦乾也は今更ここで述べるまでもなく、幕末から明治にかけての奇才。江戸に生まれ、各地を巡って作陶に留まらず、伊達藩お抱えで軍艦まで設計したという人。ちょっとレオナルド・ダヴィンチのような人です。乾山焼きの5世乾山にも数えられる人ですが、晩年向島に窯を開きさまざまな名品を世に遺しています。笄や緒締めの「乾也珠」は庶民にも人気があったとか、言問団子の都鳥の皿なども遺してしますが、一代のアーティストであり、近辺の今戸焼や隅田川焼の職人とは一線を画す存在であったはずです。しかし職人さんたちとの交流は十分あったことと思います。

さて、乾也作の雛、乾也風の雛の形状が今戸近辺で作られていたと思われる「浅草雛」にも共通するところがあります。残念ながら「浅草雛」そのものは手持ちにないのでご紹介できませんが、団子状の頭に様式化されたフォルム、檜扇や笏の形に描かれる模様など似ていると思います。以前、郷土玩具関係の会に所属していた折、今戸人形のお詳しい大家の方にお訊ねしたところ、「次郎左衛門雛」を意識したものだろう」というお答えでしたが、「次郎左衛門雛」にも似ています。またこれまでご紹介した「一文雛」もまた団子状の頭で女雛の袖と袴の形状も似ていると思います。千葉県の「芝原人形」のお雛様にも団子頭のものがあり、こうした浅草雛を意識したものではないかと考えています。

幕末から明治にかけて福島親之という木彫や画をする人が浅草にいたそうで、その人もまた、木彫の「浅草雛」を作ったといいますし、「浅草雛」は単に浅草で鬻がれた雛人形全般ではなくて、ひとつの様式なのではないかと思います。

「浅草雛」もまた、そのうちに是非手がけてみたいお雛様です。


今戸人形「一文雛と五人囃子」

2011-03-05 12:30:38 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010003 このお人形や台、敷台一式全ては桐箱に納められており、「江戸時代 一文雛」という墨書きがあります。

これは後に懐古的に作られたものではないかと思いますが、江戸時代に今戸焼周辺で作られた実物に即した土人形で、この様子から江戸時代の一文雛の面影を偲ぶことができるのではないかと思っています。裏付けはありませんが、西澤笛畝あたりの時代の再現品でしょうか?

彩色はすべて顔料。襟元に使われている鉛丹は変色してしまっていますが、もともとは朱色に近い発色だったことでしょう。

女雛の裳には3つの姫小松が描かれています。


今戸人形「一文雛」

2011-03-05 12:21:18 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010001 画像の小さな土人形のお雛様は、今戸焼周辺で作れれたものか、後になって実物に即して懐古的に作られたものなのか、ちょっとわかりません。

しかし女雛のうち掛け部分に塗られたワイン色に見える部分が顔料ではなく、キハダと蘇芳を煮だしてブレンドして塗った色に見えます。蘇芳の汁に対してキハダの汁の割合が少なめであれば、このような色調を出すことができると思います。

もし後の時代に懐古的に作られたとすれば、明治の終わりから昭和戦前くらいだとして、わざわざ植物の煮出しをしたかどうかというのが疑問に思えるのです。この人形は焼かれておらず、かなり脆い感じです。女雛の裳部分には姫小松は描かれていません。


今戸人形「一文雛」(尾張屋春吉翁 作)

2011-03-02 21:07:32 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010127 最後の生粋の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

「一文人形」と呼ばれる小さな人形が今戸周辺で作られていたという話は有名ですが、鐚銭一文で鬻がれていたので手間を省いた簡素な人形だったそうです。そういう中にお雛様もあったのでしょう。

春吉翁作のこのお雛様は、昔を思い出して型を起して作られたものでしょう。

一文雛とはいいながら、模様の描き込みは手が込んでいます。女雛の檜扇部分の松竹梅や背面の裳への姫小松の描き込みなど骨が折れそうです。また、付属の台の繧繝風の縞も手間がかかっています。

もっと昔の一文雛は、もっと簡素な描彩だったのでは、と思えますが、一文雛の面影を偲ぶ貴重な作例と考えられると思います。

なお、春吉翁はこの雛に付属する五人囃子の人形も遺されています。


今戸人形「裃雛」(尾張屋春吉翁 作)

2011-03-01 23:54:12 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010125 最後の生粋の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。これらは、明治の終わりに今戸人形の需要が低下したため、人形作りをやめ、箱庭細工師となられた後、関東大震災の後に掘り出した型を使って人形製作を再開されてからの作です。

しかし、今戸焼の代表的なお雛様である裃雛の配色についても、群青を主とした配色や砂子(真鍮粉)をふりかける装飾など、天保年間以来のやり方を墨朱されていることがわかります。

明治出来の裃雛の赤部分にはスカーレット染料が使われているのに対し、春吉翁がお使いになっている朱色はむしろ天保年間の発色に近いものではないかと想像していますがどうでしょうか?(男雛の顔を肌色に塗っている点については不明ですが、、。)

また、春吉翁は色違いの手の込んだ彩色も遺されています。裃部分に松竹梅の模様を描き込んだり、女雛のうち掛けに桜の模様を描き込むなど骨の折れる描彩です。こうした裃雛の絵付けは春吉翁の工夫によるものなのか、あるいはこうしたものも作られていたのかはわかりませんが、模様のパターン自体はそれ以前の今戸人形に部分的に散見できるものです。

P1010126


今戸人形「裃雛」(明治時代)

2011-03-01 23:29:32 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010124 今戸焼の土人形のお雛様の中で、最もポピュラーであったと思われる裃雛。画像の人形のような群青色をふんだんに使った配色のものは、天保年間から登場しているのではないかと思いますが、天保年間には赤部分に鉛丹や朱色を塗っていたのではないかと思います。画像一枚目の人形たちの赤はスカーレット染料で塗られているので、明治に入ってから、或いはスカーレット染料は幕末には使われていた、という意見も耳にしたことがあるので、維新より少し前には導入されていたかと考えることもできるかもしれません。

いずれにしてもスカーレット染料の歴史を調べた上で改めて判断すべきかもしれません。画像にはありませんが、スカーレット染料の赤以外にも洋紅顔料を使っているものもみられます。2枚目の画像の一対は裃やうち掛け部分はバイオレットの染料、着物部分は洋紅顔料で塗られています。

江戸後期の裃雛に比べると、型も崩れてきていますし、彫りも甘くなっています。しかしどちらかというと、このような人形こそいかにも大量生産されていた今戸人形という感じがしませんでしょうか?

群青の上には砂子(真鍮粉)が撒かれています。墨で襟の線を描いたものと、群青を胡粉で薄めた水色を置いたものと襟元の表現が二通りみられます。

それぞれの人形の面描きを比べてみると、さまざまな筆致の違いがわかります。今戸の土人形生産では全工程をひとりの人間が行う場合もあったかもしれませんが、成形、素焼きまでを行う「木地屋」と問屋を介して、手内職で絵付けを行う人達との分業体制もあったようですから(落語「骨の賽」(今戸の狐)にもその様子が出てきます。)面描きの癖の違いがあっても当然のようです。

裃雛には大小いろいろな大きさも見られますし、女雛の髪型の異なるもの(中央に見られるような)もあり、またバリエーションとして団扇を持っているものなども出土品には見られます。

また動物を擬人化した座り姿の人形類などは、これらの裃雛をもとに頭を作り替えてできた原型も少なくないのではないかと想像しているのですがどうでしょうか?

P1010002


今戸人形「裃雛」(江戸時代後期)

2011-03-01 22:09:52 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010121 今日から3月。上巳の節句、雛祭り目前です。

今戸焼の土人形の中にもお雛様は色々な種類が作られていたと思われます。一文雛、古今風の雛、浅草雛、そしてそれに付随する三人官女や五人囃子、随臣もあったようです。しかし、今戸焼のお雛様で最もポピュラーであったと考えられるのが、この裃雛です。

都内の近世遺跡からの出土の量、伝世品の数を見ても膨大で、今戸焼で作られた人形の種類の中でも、稲荷の狐、恵比寿大黒と並んでベストスリーに並ぶものではないかとさえ考えられます。

裃雛は下総地方へ大量に鬻がれたことから別名「下総雛」とも土製の裃という意味で「ドガミシモ」とも呼ばれていたようです。人形の一大産地である埼玉県鴻巣では着付けの裃雛が大量に生産されていたのに対して、土の裃で「ドガミシモ」でしょうか?女雛は「今戸のあねさま」とも呼ばれていたようです。

伝世の裃雛としてよく知られているのは、群青色と洋紅またはスカーレット染料の2色で塗り分けられた配色のもので、天保年間以降明治中頃まで作られていたものが多いですが、画像のように植物のキハダと蘇芳(すおう)を煮出した汁によって塗られたものも存在します。

群青色(プルシャンブルー)が土人形に使用されるようになったのは、浅草橋にある老舗の人形問屋「吉徳」さんに遺されている天保年間の人形・玩具の配色見本の中に見出せるので、天保頃からかと考えられますが、画像のように植物の煮出し汁を使った彩色は、それより古いやり方ではないかと考えられます。しかし、新しい顔料が渡ってきたとしても、或る日一斉に全ての絵付け師たちが同じように彩色を一新するとは考えられないので、過渡期には植物染料で絵付けする人と新しい顔料を使う人とが共存する時期もあったことでしょう。

画像のお雛様はサイズが揃っていないので、本来の一対ではありませんが、植物染料の使い方、配色など時代としては同じくらいのものでしょう。キハダ汁の使い方を見ると、汁を塗って黄色く発色させたままの部分とその上から砂子(真鍮粉)を散らして変化をつけている部分と区別しています。

2体とも面描きの筆の穂先や、額の生え際のタッチが鋭く、丁寧です。また、顔の地肌を研ぎ出し(膠を多目に混ぜた胡粉地を乾いた紅絹布などでつややかに磨き出す)てあるなど、かなり手の込んだものなので、今戸焼の土人形の中でも、高級志向の仕上げのものと、普及品とのランクがあったのではないかと思いますがどうでしょうか?

港区三田の牧野家墓所から出土したという裃雛がありますが、その手の込んだ面描きに画像の人形も似ているような感じがします。

裃雛の女雛がその昔「今戸のあねさま」としていかにポピュラーだったかを示す「地口ゑ手本」があります。お時間ありましたら、どうぞ。

「地口ゑ手本から①」へ→


今戸人形「豆まき?狐」(明治時代)

2011-02-03 18:28:57 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010071_2 今日2月3日は節分。各地の神社仏閣では節分会の豆まきが行われたことでしょう。家の近所のお寺でも行われていたようです。

節分に由来するという今戸焼の土人形があると読んだこともなければ聞いたこともないのですが、それらしき姿に思われる人形が手元にあるのでご紹介したいと思います。

裃姿の狐が枡を手にしています。枡の中身ははっきりしないので、豆なのかわかりませんがどうでしょうか。お稲荷さまは豊穣の神様でもあるのでお米かと考えられないこともないのですが、右手を枡に添えているのは、これから撒くポーズに見えます。

この人形は「ぴいぴい」(鞴笛)の仕様にできていて鞴部分のパーツがなくなってしまったものです。「ぴいぴい」として作られた人形の種類は膨大ですが、多くは普通の土人形仕様のものから転用された型だったりするので、これも元は普通の人形が存在したのでしょうか。

「ぴいぴい」については改めてご紹介したいと思います。


今戸人形「経木箱入りの天神」(明治時代)

2011-01-27 00:19:03 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010052 今戸焼の土人形の中にはこのような形で商品化されたものもあったのですね。

やり方としては以前とりあげた「枡入りの恵比寿大黒」と同じ傾向で、多くは一枚の抜き型による片面だけの人形か、2枚型でも奥行きの浅い人形を箱に貼りつけるなどして固定してあります。

ガラス板の縁を黄色く染めた紙でカバーして手を怪我しないようにしてあり、上の一辺だけ箱に固定して蝶番のような役目をさせています。

画像では中央に両手で笏を持った型の天神様、両脇に狛犬が鎮座する構図になっています。

経木の箱の底、つまり天神様の背後には緑色に染められた紙が貼りつけて色どりを添えています。ボロボロになっているのでわかりませんが、何か摺られていたのでしょうか?

ガラス板には内側から梅鉢紋のある赤い幕が描かれています。人形同様に膠溶きの胡粉と泥絵具で描かれているので、時間を経て剥離しています。現代ならばアクリル絵の具やペンキなどあるので定着をしっかりとできるでしょうが、当時としては精一杯の装飾だったのでしょう。

一枚目の画像の天神様の両側には狛犬が鎮座していますが、随臣が左右に置かれるバージョンもあったようです。というのも、箱から外れてしまったような人形も残っているからです。また随臣にも複数のパターンがあったようです。椅像になっているものや足を前に突き出しているのもあります。

こうした経木の箱に固定させるパターンは天神様以外にも恵比寿大黒や招き狐、などもあったようです。

今戸人形といっても、経木、紙。ガラスなど異なる素材を組み合わせてできているので、全て今戸焼屋さんが作ったのではなく、人形の木地を作る人、絵付けをする人、箱を作る人、ガラスに紙を貼る人、という風に、分業体制で仕上げられたのではないでしょうか?最終的にパーツを組み合わせるのは際物屋さんあたりではなかったでしょうか?

明治時代のことですから、ガラスの蓋つきということで高級感を出そうという意識があったのではないかと想像しています。

今戸人形「枡入りの恵比寿大黒」→

P1010054


今戸人形 「天神・小」 (尾張屋春吉翁 作)

2011-01-25 12:16:31 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010049 最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

春吉翁がお作りになった天神様は大・中・小の3つのサイズがあったと聞いています。これは一番小さなサイズです。

裏面には四角の中に「尾兼」という彫はありません。

顔などを肌色に塗っているのが他の天神様と異なります。おそらくその時々の絵具で塗ったとも考えられます。明治時代の出来の他の作者による天神様もみたことがありますが、このように肌色で塗った例はあることはあります。

この人形と全く同じ型でとても細かい描彩を施した人形もあります。売れ行きを考えて、他の作者が手間や工夫をしたものかもしれません。

春吉翁による天神様の大・中・小を並べて撮影してみました。サイズやその他の違いを比べてみてください。

P1010050


今戸人形 「天神・中」 (尾張屋春吉翁 作)

2011-01-25 12:07:33 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010048 最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

春吉翁がお作りになった天神様は大・中・小の3つのサイズがあったと聞いています。これは中間のサイズです。

裏面には四角の中に「尾兼」という彫はありませんが、この型が出土品も含め一番多く見られるものだと思います。

両袖の張りが「大」のサイズの型のものよりやさしいですね。抜き型した際にへたってしまったものでしょうか?

配色は「大」同様に天保年間以来の配色を墨守したものだと思います。

大部分の墨の黒地の黄色の縞模様もそうです。


今戸人形 「天神・大」(尾張屋春吉翁 作)

2011-01-25 11:58:36 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010047 最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた今戸焼の土人形です。

今戸焼の土人形の中には近世からの出土品を含めて大小かなりの種類の天神様がみられます。画像の人形よりもっと大きなものも昔はあったようです。

春吉翁がお作りになった天神様は大・中・小の3つのサイズがあったと聞いています。これが一番大きなサイズです。

裏面には四角の中に「尾兼」という彫があり、春吉翁の父・兼吉翁による原型だったと思われます。

金色に塗られた鍔部分に穴が空いているので、竹や木でできた柄を指して飾ったのかもしれません。

朱色、群青、緑青、台の墨などの配色は天保年間以来の配色を墨守しているようです。浅草橋にある創業300年の人形の老舗である吉徳さんに伝えられている天保年間の人形玩具の配色手本「玩具聚図」に描かれている天神様の配色指定とほぼ同じです。錦絵、おもちゃ絵などに描かれている天神様もほぼこのような配色です。

こうしたところに伝承が受け継がれているところはすごいですね。


今戸人形「寒紅の丑」(尾張屋春吉翁 作)

2011-01-23 08:03:54 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010029 この紅丑は最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)によるものです。画像の黒塗りと一緒に金塗りのも作られたようです。

但し、そんなにたくさん作られなかったのかあまり観たことがありません。大抵鈴木たつの牛のほうが圧倒的に多く残っているという印象があります。

はっきりとはわかりませんが、春吉翁の場合は復古作としてごく一部の趣味家向けに作られたということなのか?

型は鈴木型よりもいくぶん大きく、肉付きがよい感じです。口もとに水色を置いているのも異なります。この型と同じで古そうなものや色のとれてしまったものは観たことがないので、鈴木たつの紅丑のように、小間物屋の配りものとして大量に作られていたものではないのではないか?、、そのように思っているのですが実際どうだったのでしょう。

今戸焼には他に鬼門除けの臥牛を尾張屋さんが作っていたのと、古くは牛の午前(牛島神社)で授与していた牛(戦後の白井孝一家でお作りになられている新型とは異なる形のもの)があったようです。


今戸人形「寒紅の丑」(鈴木 たつ 作他)

2011-01-23 07:46:47 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010027 底冷えのする厳しい寒さの毎日です。暦では昨日1月22日が今年の「寒の土用の丑」の日のようです。

ものの本には「寒の土用の丑」に作られた紅には口中の荒れや女性の病に薬効があるとして重用されていたとか、、。またこの日には紅を商う小間物屋は画像のような今戸焼で作られた牛の姿をおまけとして配ったということです。

昭和のはじめの有坂与太郎の著作には、作者は今戸・長昌寺前の「鈴木たつ」であると書かれています。たつの母親の「鈴木きん」もまたこれを作っていた、またたつの姉の「江川しん」(川向の向島に住んでいた)は専ら木地を作っていたとも書かれています。昭和のはじめまではまだこの一族によって生産され、供給していたのは向島の「小町紅本舗」であったとか。現在浅草に「小町ヘアー」というお店がありますが、もしかすると「小町紅」と関係のあるお店なのでしょうか。まだ聞きにいったことがないのでわかりません。

牛には黒塗りと金塗りと2種類あり、配られた際、どのような区別がされていたのか、または2つ対で配られたのかなど不明な点があります。何か参考になる本などありましたらご教示いただけると幸いです。一時はこれらのような牛は古物としてかなり見かけたものですが、最近ではあまりそうした機会も少なくなってしまったような気がします。当時としてかなり出回っていたものだったような気がします。

上記の有坂与太郎の著作によれば、磁器の固焼き製の牛が登場してから、昔ながらの土の牛が駆逐されてしまったようなのです。ひとつ疑問なのは、紅丑の習慣は明治から遡ることはない、と記されているのに、都内の近世遺跡からの出土品の中には色のとれてしまった同じような牛がみられることです。

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三島神社の鉄砲狐

2011-01-21 18:01:05 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

P1010020 折角金杉通りへ入ってきたので、ついでに三島神社へお参りに行ってきました。

上野に勤めていた20年前、ここの境内のお稲荷さまに当時としても珍しい鼻の尖った昔風の鉄砲狐がずらりと奉納されていたのを思い出したからです。

行ってみるとまだまだ並んでいました。中にはま新しそうな、現在の今戸の鉄砲狐が加わっていました。一緒に並んでいるので、その形の違いがはっきりします。

当時ここの宮司さんにお聞きしたのですが、これらの古い鉄砲狐は浅草通りの神具の「みす平」さんから納められていたという話でした。今ではもう取り扱いはないかと思いますが、、、。

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