このお雛様自体は今戸焼の土人形であるということではないと思うのですが、今戸焼周辺で作られた「浅草雛」という形式の人形とのつながりがあるのではないかと思うのでとりあげてみます。
この土雛もまた供箱で、「乾也雛」という箱書きと箱裏に「大正7年4月吉日」と記されています。月遅れの初節句に求められたものなのでしょう。
しかしどう見ても三浦乾也の作ではなく、乾也作の様式の雛、乾也風雛として作られたものではないかと考えています。
東京国立博物館には三浦乾也作の「土製室町雛」が収蔵されていますが、目がくらむ程の精緻な描き込みのある作品で画像の人形とは作品の密度が違います。しかし共通点を挙げるならば、団子のような丸い頭に独特の形の鼻、リアルさを離れた様式化されたフォルムといったらよいでしょうか?檜扇や笏の形も似た方向性です。
三浦乾也は今更ここで述べるまでもなく、幕末から明治にかけての奇才。江戸に生まれ、各地を巡って作陶に留まらず、伊達藩お抱えで軍艦まで設計したという人。ちょっとレオナルド・ダヴィンチのような人です。乾山焼きの5世乾山にも数えられる人ですが、晩年向島に窯を開きさまざまな名品を世に遺しています。笄や緒締めの「乾也珠」は庶民にも人気があったとか、言問団子の都鳥の皿なども遺してしますが、一代のアーティストであり、近辺の今戸焼や隅田川焼の職人とは一線を画す存在であったはずです。しかし職人さんたちとの交流は十分あったことと思います。
さて、乾也作の雛、乾也風の雛の形状が今戸近辺で作られていたと思われる「浅草雛」にも共通するところがあります。残念ながら「浅草雛」そのものは手持ちにないのでご紹介できませんが、団子状の頭に様式化されたフォルム、檜扇や笏の形に描かれる模様など似ていると思います。以前、郷土玩具関係の会に所属していた折、今戸人形のお詳しい大家の方にお訊ねしたところ、「次郎左衛門雛」を意識したものだろう」というお答えでしたが、「次郎左衛門雛」にも似ています。またこれまでご紹介した「一文雛」もまた団子状の頭で女雛の袖と袴の形状も似ていると思います。千葉県の「芝原人形」のお雛様にも団子頭のものがあり、こうした浅草雛を意識したものではないかと考えています。
幕末から明治にかけて福島親之という木彫や画をする人が浅草にいたそうで、その人もまた、木彫の「浅草雛」を作ったといいますし、「浅草雛」は単に浅草で鬻がれた雛人形全般ではなくて、ひとつの様式なのではないかと思います。
「浅草雛」もまた、そのうちに是非手がけてみたいお雛様です。