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東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

今戸人形「叶 福助」 (江戸時代後期?)と大丸百貨店

2010-11-06 10:48:59 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010953 今戸焼の土人形の福助の型としては福助とお福の夫婦タイプよりも更に古い?と考えられるのが、この「叶 福助」です。この叶福助のルーツは現在の大丸百貨店の創業とも関わっているようです。

嘉永5年の丸〆猫(まるしめのねこ)の大流行に先がけて文化年間江戸市中で流行したようです。このことは街談文々 第壱話ー第五話の記録に残っています。

これは文化文政期(1804-1829年)の巷の話題を書き記したもので作者は石塚豊芥子、別名集古堂豊亭とも言った人だそうです。

第弐    叶福助起原
一 当春より叶福助と号(なずけ)し頭大きく背短く上下(裃)を着し
   たる姿を人形に作り、張子又は土にて作り一枚絵に摺出し、
   其外いろいろのものに準
(なぞ)らへ、尤(もて)あそぶ事大ニ流行す。 後には
   撫牛の如く蒲団に乗せ、祭る時は福徳ますとて小
(ちいさ)キ宮に
   入
(いれ)、願ふ事一ツ成就すれハ蒲団を仕立上ル事なり。 其根元なんと
   いふ出処を知らず、 唯愚夫愚婦の心ニも応せさる願立
   いたしけるこそうたてける。 其節の落首に
     とくし
(特祠)よりよひ事ばかりかさなりて
          心のままに叶福助

      

 叶福助伝ト小本出板
                    福助伝
一 ある人のいふ江都の士何某みやこ在勤のおり福介とい
  ふ小者
(ずさ)主人の出世を神にいのり、やがて
  昇進有りしとかや。 主人も誠忠を感じ、福介なきのち
  も深草なる土偶つくに、かの福助が形ちを製させ、いますが
  ごとく配前なせしといへり。 こと替りし物なれば夫より手遊
(てすさび)ニも
  商
(あきな)ふ時ハ斉の晏子に同じけれハ、人とけいする事も知らず。 衣
  服に眠子が紋ハあれど舞台の心いきおぼつかじ。 あたまは
  頼朝の異名をかふむりながら、人品つたなし。 朝比奈にハ髭
  なく梶原にでじまなし。 只大文字屋の昔を思ふのミ
  されど誠忠四方にひびきて、衆人尊敬して福助
  をいのるしるしあり。 嗚呼称すべし娼家の神棚に三
  平自慢のお福のめん、揚場の上にたつハ容人大
  明神の御使者なるかや

  あをげただ君子の
   徳や涼風の
    ふくハうちはの
      絵こそめてたき
       立川えんま師述
  右は 立川談洲楼焉馬翁の福助の賛なり因
(ちなみ)ニ爰に書ス

   戯文   叶福助親類書
一 高百千万石   本国 深草 福神組西宮夷三郎支配
             生国 今戸     叶福助
    拝領屋敷宿処当分手遊方
(てすさびかた)ニ住居仕る
一 毘沙門様御代、私父福寿延命小判改御役相勤候節
   へやずみ被罷出
(まかりだされ)、見習被仰付(おうせつけられ)文福元甲子年福寿
   金銀等銭沢山ニ罷成
(まかりなり)、願の通隠居被仰付(おうせつけられ)此旨於
   鶴亀の間
(まにおいて)、七福神御列座出世大黒天殿被仰渡(おおせわたされ)、直(ただち)
   御金蔵白鼠番被仰付
(おうせつけられ)、 当時金貸仕(つかまつり)
                      於多福女郎娘
                          妻 

   豊芥按(あんずる)ニ
   此叶福助の人形の起りハ新吉原京町弐丁目妓楼、 大文字屋
   市兵衛初メハ河原見世にて追々仕出し、京町弐丁目へ移り
   大娼家となりぬ。 此先祖至
(いたっ)て悋惜(りんせき)にて、日々の食物菜の物
   も下食
(げじき)(なる)ものを買置、夏の間ハ南瓜多く買置、秋迄も惣菜に
   ものしける由へ、近辺の者悪口ニ唱歌
(となえうた)を作り「ここに京町大文じ
   やの大かぼちゃ、其名ハ市兵衛と申まス、ほんに誠ニ猿まなこ
   ヨイハイナヨイハイナト」、 大きなる頭を張ぬき、是を冠り踊り歩行し、此唱
   歌大評判になり、大文字屋ハ寿々
(ますます)大繁昌せり
   此歌の手遊
(てすさび)に是ニもとづき、 大頭の人形に上下を着せ叶福助ト
   名号(なづけ)何まれ願ひを懸ケ、利益のある時ハ布団拵
(こしらえ)上る事なり
   又上の山方に頭大き成る男に柿色の上下を着せ、 年頃十二三叶福助ト云々
   見世物に出したり。 是等もあたま大キ由へ顔を晒して利分を得たり
   相良侯ハ撫牛を信して出世ありしとて世の人是をまなぶ。 叶
   福助も今に廃
(すた)ることなし

以上は江戸市中での流行を綴ったもので、実は京、大阪での叶福助の流行が江戸に移入された後に江戸バージョンの話の内容にすげ替えらえたのではないでしょうか?新吉原京町弐丁目妓楼、 大文字屋 市兵衛とあるのはオリジナルの話では現在の大丸百貨店の前身の大文字屋の創業者・大文字屋 下村彦右衛門の物語だったようです。 

大丸百貨店創業にのついては大丸百貨店のHP

大丸の歴史は、1717年(享保2年)、京都伏見の古着商の家に生まれた下村彦右衛門正啓が、伏見に呉服店「大文字屋」を開いたことに始まる。この時、正啓は、店のしるしとして○に大の文字が入った商標を採用した。○は天下を表し、大は人と一を組み合わせたものとして、このしるしは天下一の商人になろうという心意気を示したものであると大丸では伝えられている。「大文字屋」の人気は上々で、9年後の1726年(享保11年)には大阪の心斎橋に2号店を出店、続いてその2年後、1728年には名古屋に出店した。この名古屋店で初めて、商標にちなんだ「大丸屋」という屋号を使用している。名古屋店出店の翌年、1729年、大阪、名古屋の繁栄に呼応して京都に仕入れ店を設置、仕入れ担当者を常駐させ、問屋などの仲介を廃して直接仕入れを行うようになった。今でいうところの本部集中仕入れ、セントラル・バイイングである。そして1743年(寛保3年)、江戸の大伝馬町(現在の日本橋小伝馬町付近)に江戸店を開店した。進出計画は、開店の7年前である1736年(元文元年)から開始され、開店5年前の1738年(元文3年)に、正啓は江戸の同業者を訪ね、取引を約束して京呉服を送った。その荷物のなかに、○に大文字の商標を白く染め抜いた萌黄地の派手な風呂敷が何枚も同梱されていた。大きく便利な風呂敷だったため、取引先の使用人たちはこの風呂敷を頻繁に背負って歩き、やがて江戸の町々で大丸屋の名前が知られるようになった。こうして大丸屋江戸店開店は江戸中で大きな評判になった。

とあります。この下村彦右衛門という人は背が低く頭が大きかったそうで、福助人形のモデルになった人だと言われています。また、最初に店を出した京都・伏見こそは、今戸人形の母胎となった伏見人形の生産地で、たくさんの福助の人形の型が残されています。

画像の今戸の「叶 福助」もまた、伏見人形の型から抜き型されたものと考えられます。また江戸での「叶 福助」の流行は、「大丸屋」の江戸での開店に伴って、意図的に仕組まれたものではなかったかと想像することもできそうです。江戸での開店から文化年間までは50数年間以上の開きがあるのですが、本家の伏見人形の福助もまた、「大文字屋」の創業に合わせてすぐに流行したものとは限らず、「大丸屋」の繁盛に便乗して流行したものとも想像でき、また京、大阪での福助の流行から遅れて江戸に流入した訳ですから、じわじわと世間に浸透していったことを想像すれば、どうでしょうか? 販売促進の手法として途中から導入されたとか、、、?

もういちど街談文々 第壱話ー第五話の記録に戻りますが、頭大き成る男に柿色の上下を着せという表現から、当時の今戸の「叶 福助」の人形は裃が柿色=べんがらの顔料で塗られていたのではないかと想像できます。このことは、江戸時代からの老舗人形問屋である浅草橋の吉徳さんに残されている天保年間の人形玩具の配色手本帳に描かれている福助の裃がべんがらに指定されていることに通じていると思いますし、実際残っている今戸焼の福助がそう塗られている事実とも符牒が合って面白いと思います。両耳のところに穴が空けてあり、麻の繊維の髪が植えつけてあります。これは伏見人形からの模倣でしょう。今戸人形に限らす、各地の伏見系の土人形の福助には、こうした工夫がよく見られます。また、眼点の位置、つまり目線が下向きに描かれているのは、神棚にお祀りした場合、下から拝む人の目線と合わせることを意図しているものだと思います。

更に空想を巡らせば、丸〆猫の「丸に〆」というのは、大丸屋の「丸に大」との因果関係があったのかな?ということにもつながるのかどうか?

 

 

 

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幕末?の古写真から

2010-11-05 18:44:58 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010961 幕末?あるいは明治のごくはじめの古い写真。

古道具屋さんの情景のようですが、実際の風景ではなく、セットの中で演出されたもののようです。

気になるのは左の赤子に授乳しているお母さんのすぐ後ろの棚の上から二段目。正しくこれは落語にも登場する今戸焼の土人形の福助とお福です。その右側のふたつは何だかわからないのですが、、、。

お母さんのすぐ脇にあるコンロも気になります。


今戸人形「福助とお福」(明治時代)

2010-11-04 15:29:57 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010948 落語「今戸焼」に登場する「今戸の福助」はこういうタイプではないか?と思われる今戸の土人形の画像です。都内の近世遺跡からも様々な型のものが出土していますが、変わり型は別として、「叶福助」と画像のような「夫婦」の2タイプが代表的なのではないかと思います。

もちろん「夫婦」タイプでも頭が極端に大きなものや持ち物の異なるもの、大小などの違いがあり、木地を作る人と絵付けする人も様々あったようで配色も微妙に違っています。

浅草橋にある江戸時代から人形問屋である吉徳さんには天保年間の人形玩具の配色手本が残されており、こうした「夫婦」の配色も描かれています。それによれば、福助の裃はべんがらに砂子をちらし、着物は群青。お福の打掛を群青に着物を鉛丹か朱、角隠しは鉛丹か朱を胡粉で薄めた桃色などの指定があり、今戸焼屋さんから木地を仕入れた問屋さんが手本をもとに別の人に絵付けを任せていたことが想像できます。

画像の人形は朱色部分が洋紅のような新しい顔料になっていますが、配色としては、手本のものとほぼ同じだと思います。

同じような型の人形でも大小色々なものや、配色の違うものがあり、色を変えることによって売れ行きを考えていたのではないかとも考えられないでしょうか?

ちなみに真ん中の列の右端の福助さんは、「福助足袋」商標のお辞儀の福助さんに一歩近づいたような前かがみ、頭が更に大きくなったようなモデリングですが、造りをみると今戸焼です。

2007_0101_000000p1010949

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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落語 「今戸焼」より

2010-11-04 14:39:07 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010946 以前、落語「今戸の狐」について採り上げましたが、もうひとつの演目である「今戸焼」についても触れてみたいと思います。

落語そのものについては、ただ笑って聴いているだけの私ですので、うんちくを披露するだけの知識もありません。話に登場する言葉の端だけについてだけ触れます。

この演目は八代目三笑亭可楽師匠所演のCDを聞いたのみですが、さらさらと実に淡々と噺されていますね。

タイトルの「今戸焼」は噺のサゲの「今戸焼の福助」に由来するばかりなのですが、そのひとことで通用するだけ、今戸の福助というものが聴き手に周知されていたのですね。それだけ身近なものとして知られていたのでしょう。

「役者の福助」は成駒屋・中村歌右衛門家の大切な名跡である「中村福助」です。歌右衛門家では福助の名跡を空けてはいけない、と言われているそうなので、5代目歌右衛門(4代目福助として明治の劇界で絶大な人気を得た)以来常に名跡を継いでいる人があったようです。 歌右衛門家では児太郎→福助→芝翫→歌右衛門という順繰りに襲名していきます。では噺に登場するのはどの福助さんか?

この噺には「吉右衛門」「宗十郎」という名前も出てきます。播磨屋・初代中村吉右衛門紀伊国屋・沢村宗十郎です。吉右衛門は六代目尾上菊五郎とともに下谷二長町の市村座で人気をあげた人なので時代は大正以降です。この時代の沢村宗十郎は帝国劇場の専属として売っていた7代目と考えられます。この人は今戸にあった料亭「有明楼」を経営していたことでも知られています。この七代目宗十郎が亡くなるのは昭和24年なので、大正~昭和24年の間の中村福助さん。2人います。

先年お亡くなりになられた6代目中村歌右衛門さんも昭和8年に福助を襲名されていますが、まだ年少でした。そのお兄さんの「慶ちゃん福助」と呼ばれて美貌で人気のあった5代目中村福助(本名を慶次郎といった)こそが、この噺に出てくる「役者の福助」でしょう。現在の中村芝翫さんのお父上です。

今戸焼の土人形の福助ですが、いろいろな種類がありました。「叶福助」という人形もあったのですが、一番ポピュラーだったのではないかと思われるのが、画像のようなお福さんと夫婦の福助さんです。長年神棚にお祀りされていたのでしょう。煤けて色や絵付けがわかりません。この夫婦のタイプは両手を膝に置いたポーズのものもあります。画像の福助さんは扇、お福さんは宝珠を手にしています。

落語の「今戸焼」はYouTubeに八代目三笑亭可楽師匠所演の映像があります。まだご覧になられていない方はどうぞ。

YouTubeへ→  今戸焼で検索してください。

2007_0101_000000p1010944


今戸系人形?「王子稲荷土狐」

2010-11-02 22:24:57 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010941 王子の狐といえば、竹串で動く紙からくりのおもちゃが有名ですが、戦前まではこのような「王子」の文字の彫りのある土の狐もあったのですね。以前静岡のIさんからいただきました。

有坂与太郎箸「郷土玩具大成・東京篇」(昭和10年)にも写真と僅かな解説がありますが、今戸町内の産ではない、ということです。地元王子で作られているとも明記していません。一応焼きは入っていますが、大きさの割に手取りが重いです。しかし、土色は今戸の土にも似ています。型の構図は「浅草太郎稲荷」の狐に似ていますが、もっと大型な割には形がぼやけているので、結果的には今戸焼の狐を駆逐してしまった磁器製の向かい狐から型どりしたものではないかと思うのですが、、。ということで型自体はそんなに古いものではないかもしれません。

王子は今戸から隅田川を遡った上流ですし、また山谷堀の水も遡れば石神井川から来ているので地理的には土の成分が全く違うということはないと思います。

王子の飛鳥山では土器投げが盛んであったという話、隅田川上流の小台、宮城、堀船、豊島辺りにも瓦の製造が行われていたようですし、手すさびに作ることは可能だったでしょう。

ついでに「御府内備考」という地誌に王子辺りに16名もの土風炉師がいた(「今戸焼陶説考」・益井邦夫) とか、、?ええー本当に?という感じがしますが、そうだとすれば、王子辺りの産でも今戸焼の範疇に入るのかもしれません。

画像の狐に戻って、これが王子の産であるとは明記されていないのですが、こうしたものを遠くで作らせ送らせるほどの仕入れをするとは考えられないです。

そんな訳で、今戸系人形?としました。このほかに今戸産の鉄砲狐も王子に並んでいたのでしょうか。


今戸人形 「浅草太郎稲荷狐」

2010-10-29 10:58:35 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010880 現在の台東区入谷2丁目(旧光月町)。言問通りと金美館通りの間、区立大正小学校(まだあるかどうか?)の近くに浅草太郎稲荷が鎮座しています。

小林清親による明治の風景画にも描かれています。また樋口一葉の「たけくらべ」にも出てきたように思います。

ここはもともと九州柳川藩立花家の下屋敷だったところです。上屋敷は春日通り沿いの東上野のところにあり、現在、ここ浅草太郎稲荷と東上野の太郎稲荷とふたつあります。

このお屋敷の中にお祀りされていたお稲荷様が疱瘡に霊験あらたかという噂が江戸中に広まり、流行神のひとつになりました。本来お武家さまのお屋敷の中を一般町人の出入りはできないところを、鑑札を与え、制限付きの出入りができるようになった、またそのことで藩の収入の足しにもなっていたとのことです。 維新後に描かれた清親による風景はお屋敷の隆盛のあともなく人少ないものさびしい景色ですが、地元に限らす、広い地域からの参詣があったのでしょう。

画像の今戸焼の狐ですが、詳しい作者や年代はわかりません。ただ言えることは、台座に塗られている赤は明治中期以降のものであろうということです。震災前くらいまではあったのでしょうか?有坂与太郎の著作には現役のものとして述べられていないと思います。武井武雄の「日本郷土玩具・東の部」でも過去のものとして記述されていたように思います。

現在の浅草太郎稲荷へお詣りすると瀬戸もの製のお稲荷さんが奉納されています。

 

 

 

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今戸人形「狐 馬」(尾張屋春吉翁 作) ※★(検索 今戸焼 干支 馬)

2010-10-22 09:25:59 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010784 最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による今戸焼の土人形です。

この人形は手が込んでいて、馬と狐それぞれを別々に型抜きして成形してから組み合わせてできています。馬の部分だけ単体で仕上げた人形もあります。

春吉翁作の狐の人形の面描きですが、狐拳・子守狐・口入稲荷狐・羽織狐・三方狐・鉄砲狐の極く一部は鼻と口を描き分けていますが、鉄砲狐そしてこの狐馬は一点で省略しています。狸の人形と共通していますね。これはどんな意味があるのでしょうか?

狐馬の人形は都内の近世遺跡のあちらこちらからかなり出土しており、人気のある人形だったのではないでしょうか?また、作者も複数いたのかもしれません。

「狐馬」という言葉の意味ですが、、、

狐馬」とは、「狐に馬」もしくは「馬に狐」を略したことわざ。そのことわざは「馬の背に狐を乗せたよう」もしくは「狐の背に馬を乗せたよう」を略したもの。狐が馬に乗っているところから「落ち着きがないこと。言うことが当てにならず、信用できないこと」。狐が馬を化かして背に乗っているのか、もしくは狐がたぶらかされて馬の背に乗っているのか。すまして、でも居心地悪く馬の背に乗る狐。前を向いて、しかし不安に狐を乗せる馬。はたから見るとふらふらしていて危なっかしいけれど、何やら滑稽でもある。(以上はよそのページから引用させてもらいました。)

とあり、皮肉なモチーフで江戸っ子好みだったのかもしれません。春吉翁によるこの人形でもまた配色といい、筆の穂先の美しい面描きといい洒落たものだと思います。

本来今戸焼の土人形に限らず、全国の土人形の産地では「十二支」の干支ものを揃えて作るとか、縁起ものとして干支の人形をひととおり集めるとうことはそれほど盛んではなかったのではないかと思います。そのためどこの産地にも十二支が揃っているということでもなく、今戸の古典にもそれらしいものは確認できません。「狐もの」のくくりとしては今戸の狐のバリエーションは多く、春吉翁以前の時代にはより多くの種類があったという近世遺跡からの出土品の例が少なくありません。しかし、今戸の古典的な馬の人形に限ればいくつもあり干支の馬として拾えば、多いかもしれません。この「狐馬」はその代表的なものと言ってよいほど昔からポピュラーなもののひとつだったと思われます。

 この記事はだいぶ以前にアップしたものですが、急ブログサイトの閉鎖と引っ越しなどにより埋もれていたものを虫干しのためサイドアップしたものです。

 

 

 

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今戸人形?「柾木稲荷狐? 他」(加野 とく 作?)

2010-10-22 05:05:48 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010881 画像の狐の土人形については確固とした裏付けもなく、100パーセントの自信がないので、タイトルにも???をつけました。

最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の他に、実際には戦前まで今戸で代々今戸人形製作に当たってきた作者が2人いたことが記録されており、「鈴木 たつ」とならんで旧・浅草区今戸町3丁目にいたといわれる「加野 とく」についても触れてみたいと思います。

有坂与太郎による戦前の記述に出てくるのですが、この人たちの生年等詳しくは記録されていませんでした。

別に戦前の「郷土風景」という雑誌のバックナンバーの中に「昭和8年5月号・第2玩具号」というのがあり、その中で山崎荻風という人が「今戸人形」という記事を書いています。この中で尾張屋・金澤春吉翁に関する内容とともに「此外鉄砲狐を作る加野トクといふ、文久元年生れの今年七十三才のお婆さんが居る。同じく狐を作る鈴木タツさんと云ふ若いおかみさん。此外には玩具を作る人は一人も居ないのです。それでも狐だけは、流石に信仰物だけに中止した事は無く今日に至ったので、今でも二軒で一ヶ月平均二千五百位は作られる、おとく婆さんは一日四十個は作られないと云って居る。此年で型から仕上げまで一人でぼつ々こしらえて居る。此人達の家も昔は人形を作って居たのです。寒紅の牛や玉姫稲荷の入口狐(ママ)は鈴木で作って居る。土は四ツ木、又は亀有方面から買ふので、現在では十貫目六十銭位、燃料は松槇を用いる事は云ふまでもないが、おとく婆さんは七輪釜で炭で焼いて居る。明治の末期におみよさんと云ふ狐の型抜きの達者な女があって、一日に千個以上も型を抜いたと云ふので仇名を馬車馬と云はれた當事の話から、現在の製作数は百分の一だと云って居る。・・・・・鉄砲狐の販路は赤坂の豊川稲荷、浅草の被官稲荷、王子の稲荷等が主で、型は昔は土型を用いたが今は石膏型ばかりです。」と記されています。

もう一度有坂与太郎による著述に戻ると、「土直事するがや惣三郎が利助の亡後、その妻を娶り、佐野屋と号し娘に業を伝へてゐる事(鉄砲狐専業)」とか「現在の(狐の)生産者は今戸に土直の末葉、佐野屋加野トクと、あぶ惣の後裔鈴木たつ、向島に井上了斎(ママ)と由縁のある福田重太郎の三人を数へるのみである事は、これらの需要が如何に低減されてゐるかゞ判るであらう。」(以上郷土玩具大成・第一巻東京篇 昭和10年より)とあり、加野とくが文久元年生れ」で「佐野屋」という屋号であったこと、父が、「土直事するがや惣三郎」であることがわかります。

しかし前記の鈴木 たつもまたあぶ惣の末裔とあるので、どうなっているのでしょうか?さっぱりわかりません。

しかし昭和8年の時点で今戸町内で人形を作っていたのは尾張屋・金澤春吉翁と鈴木 たつと加野 とくの3人のみしかいなかったこと。昭和10年の時点で奉納狐を作っていたのが、向島の福田重太郎と今戸では鈴木 たつと加野 とくの2人と尾張屋春吉翁(実際作っていた)の合計4人ということになるわけですね。

加野 とくが作っていた狐の種類については、上記の有坂与太郎の著作からだと昭和10年時点で、鉄砲狐、深川区常盤町所在・柾木稲荷の狐、下谷区上野公園五条天神社境内所在・花園稲荷金狐と記されています。

2007_0101_000000p1010883 白黒写真があって、柾木稲荷の狐については「これは狐が跼居しているだけで、台を設けてゐない。些か大形である。」花園稲荷金狐については「鉄砲狐の型を其儘縮小したもので、金色、初午に出される」とあります。

画像の狐ですが、うしろの2対は面描きが白黒写真とちょっと違うようなのですが、柾木稲荷の狐ではないかと思います。手前の「向かい狐」の一対は記述にも白黒写真にもありませんが白黒写真の柾木稲荷の狐の面描きとよく似ているので、加野 とく作のものではないかと思っているのですがどうでしょうか?今戸以外のよその地域の狐については皆目わからず、案外これが他所の狐であるという可能性も無きにしもあらずという感じも否定できません。富山だとか関西方面だとか、、。ご存じの方いらっしゃいませんか?作りとしては今戸っぽいと思うのですが勇み足?

画像の柾木稲荷の狐?と思われる狐ですが、胡粉地の上にきら(雲母粉)を塗ってあります。また手足の辺りに朱か丹の摺り込みが見られます。天保年間の人形玩具の配色手本には、猫など白地の動物の今戸人形の手足や人物を含め眼の周りなどにも朱や丹の摺り込みの指示があるものがあり、符合するように思われます。

上記の花園稲荷金狐については今戸人形のカテゴリーの「落語 今戸の狐から」という記事の画像にそれらしきものがありますので、お時間ありましたらご覧ください。

 

 

 

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今戸人形「口入稲荷のおはらごもり」(鈴木 たつ 作?)

2010-10-20 01:05:28 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010878_2 高さ3センチほどの小さな狐の土人形です。

戦前の有坂与太郎の著作によれば、「例年初午の際に口入稲荷から授与されるもので、婦女子が帯上げ等に入れて所持すると子供を授かる」と言われていたそうです。

作者は今戸、長昌寺前の「鈴木 きん」や娘の「鈴木 たつ」であると述べられています。

母の作なのか娘の作なのかわかりません。感触的に「寒紅の丑」に似ていませんか?

戦後は授与をやっていないのではないでしょうか?

趣味家の発案で戦後一時的に授与を復活したことがあるようなことを聞いたことはあるのですが、、。


今戸人形「口入稲荷狐・羽織狐」(鈴木 たつ 作)

2010-10-15 02:27:55 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010806 最後の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)以外にも戦前までは、代々今戸人形師の系譜をひく土人形作者の名前が辛うじて記録されています。旧浅草区今戸3丁目にいた、「鈴木 たつ」と「加野 とく」の2人です。

そのひとりが画像の人形の作者「鈴木 たつ」です。

有坂与太郎の著作に、今戸人形の全盛期であった嘉永年間の今戸人形の作者の地図(今戸町内の分布図)が掲載されています。(出典については定かに示されていない。)この中には上記、尾張屋・金澤春吉翁の養父である尾張屋・金澤兼吉翁の名がある他、「土直」こと「するがや惣三郎」という名前があります。また「あぶ惣」(虻惣)という屋号も記録されており、同じ家であるかのような記述があります。

この「あぶ惣」の末裔で後継者が「鈴木 たつ」であると述べられています。この人は今戸の長昌寺のそばに住み、芋屋渡世の傍らに「寒紅の丑」「貯金玉」「鉄砲狐」「口入稲荷狐と羽織狐」を作っていたとあり、特にこの「口入稲荷狐と羽織狐」それと「寒紅の丑」の作者として知られていたようです。この人の母親は「鈴木 きん」といい、同所で同様な人形を作っており、その妹が明治43年頃向島区寺島町に移った「江川 しん」で、「しん」が木地を作り、「きん」が彩色した、という内容が書かれていますが、その娘の「たつ」の場合どうだったのでしょう。

「芋屋渡世」とあるのは、生芋の卸し販売なのか焼き芋屋なのか、、、。仮に焼き芋屋だったならば、火を使う仕事なので、小さな人形の木地を焼くくらいのことは可能だと思います。雑器などの生活器物ではないので、ごく低温の甘い焼きであっても構わないのではないか、と勝手に想像しているのですが、、、。

この一家について詳しく記録されているものが少なく、今となっては知る手掛りもありません。今から20年ほど前、今戸町内で戦前から炭屋を営んでおられたお爺さんに昔の今戸焼屋さんについてお話を伺ったことがありましたが、「鈴木 たつ」についてはわかりませんでした。また、長昌寺付近の自治会の方にも戦前のことを伺いましたが、「芋屋」についてもわかりませんでした。

時既に遅かった上、この辺りは橋場の一部を除いて、ほとんど戦争で被災し、その後転出、転入のあった土地なので戦前の事でさえ難しいです。また、昭和戦前の記憶がある世代の男性だと、出征されて夭折されているケースもこの辺りでは多かったようです。清川の玉姫稲荷神社の神主様(おそらくご先代)にも伺ったのですが、わからないとの事でした。

仮に、地元で生れ育ったとしても、土の狐ひとつに関心がない限り、どこの誰が作っていたか、などと気にかけないほうが自然で当然なのかもしれません。

画像の狐の話に戻ります。「鈴木 たつ」による羽織狐ですが尾張屋さんの型とは微妙にモデリングが異なります。これが「あぶ惣型」というものでしょうか?股引きから爪先にかけて真っ黒に塗られていますが、草履の部分は前に出ぱっています。ちょっとロンドンブーツのようにも見えてしまうのですが、、。

羽織狐の近世遺跡からの出土例は意外と多くないのですが、一点、豊島区染井の遺跡から出土したものを記憶しています。そして、その出土品のモデリングは、この「あぶ惣型?」のによく似ていたと思います。

 

 

 

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今戸人形「口入稲荷狐・羽織狐」 (尾張屋春吉翁 作)

2010-10-13 21:51:18 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010783_2 最後の今戸人形師といわれた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた土人形たちです。

右の2体が「口入稲荷」の裃狐と女狐、、通称「口入狐」、左の立ち姿のが「羽織狐」です。

言わずもがなの事ですが、口入稲荷は清川にある「玉姫稲荷神社」の境内に鎮座する社で、元禄14年、新吉原の廓内に高田屋七兵衛という口入所があって、家内に稲荷の社が鎮座されていたが、霊感に基づき同社を現在の地に移したため、それから口入の呼称がおこったとか、、。

また、羽織狐は玉姫稲荷の土蔵裏から狐の像が発掘され、それに倣って作られたもので、これは祈願する時にその使いとして用いられるが、念願の叶った時には裃を着けて額を持った狐を奉納するきまりであると、有坂与太郎の戦前の記述にあります。

また、ある説には、現在吉原神社に合祀されている九郎助稲荷の荒廃するに及んで、羽織狐も口入稲荷から授与されるようになったのだといわれるが、憶測の域を出ない、、とあります。

羽織狐の姿は遊び人のようで、左手を羽織の中でげんこつに構えていざという喧嘩に備えているポーズで、このポーズを「やぞう」と呼ぶところから、この狐を「やぞう」と呼ぶ人もあったようです。

尾張屋さん作のこの人形をはじめて見るまで知らなかったのですが、草履を履いているのですね。鼻緒を描かれているのです。草履の先がしっかりと出っ張って造形されています。知らなかった頃は裸足なのだと思っていました。

「口入狐」の画像の女狐が両手を前に正座していますが、これとは別に宝珠を抱いているのもあります。

 

 

 

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今戸人形 「子抱き(小)」 (尾張屋春吉翁 作)

2010-10-11 03:39:24 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010785 最後の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた土人形です。

戦前の有坂与太郎の著作では「子抱き(小)」と表記されている人形です。「子抱き(大)」とは型が異なります。

この型は明らかに京都・伏見人形からの型どりで、そのもととなったと思われる伝世の伏見人形がありますし、現在でも伏見人形の窯元「丹嘉」さんで作られています。

伏見の人形よりもふたまわり以上小さく、彫りも甘くなっていますが、今戸での土人形製作が、伏見人形からの型どりから発展しているという一例と見てよいかと思います。

春吉翁によるこの人形の配色ですが、着物の部分が青灰色といったらよいのか、微妙な色合いです。姉さん被りの部分のように単純に群青色に胡粉の白を混ぜた色ではありません。藍色が混ざっているのか、幾分黄色みや黒みを感じられる色だと思います。

今戸人形の典型的な配色というと、一般的に群青に朱(または丹)あるいは染料のスカーレットを主に塗られている、というイメージがありますが、これらは天保あたりからの色遣いだと考えられます。群青色が舶来の新色として入ってきたのが、その頃らしいのです。

春吉翁の養父である尾張屋兼吉翁(天保4年?~大正8年)が人形を製作された時代が群青の導入された以降の時代でしょう。しかし人形によっては、群青以外の青の発色で変化をつけることもあったのかもしれません。

春吉翁作のこの「子抱き(小)」の人形も着物部分に生の群青で塗られたものがあるのでしょうか?

以前、このブログの「今戸人形」のカテゴリーで「浅草と深草」(8月)という記事で、伏見人形と今戸人形の「子抱き」を並べた画像を貼りつけていますので、よかったらご覧ください。

 

 

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今戸人形 「子抱き(大)」 (尾張屋春吉翁 作)

2010-10-11 02:23:56 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010782_2 最後の今戸人形師と言われた尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作りになられた土人形です。今戸人形の中でもよく知られた型です。また春吉翁作の人形の中でも比較的大きな部類に入るものではないかと思います。

背面の帯部分に四角い枠の中に「尾兼」という印があり、型としては春吉翁の養父である尾張屋5代目・金澤兼吉翁(天保4年?~大正8年・76歳)が起した型なのだと思われます。

「子抱き(大)」という名称は、有坂与太郎による著作に表記されているとおりで、(大)に対し(小)とある人形はこの型とは別の形です。

赤子に乳を与えている構図の人形であることは共通しています。

土人形で似た構想のものは、他の地方にもあるようで、山姥と金時になっていたり、マリア様に見立ててあるものもあるようです。

この尾張屋さんの人形は純全たる風俗スケッチという感じです。お母さんは既婚だから眉を落としていて、ほほ笑んだ口には鉄漿(おはぐろ)の黒が覗いて見えます。

子守狐同様、このお人形もまた母性豊かな表情ですばらしいと思います。

戦前で途絶えてしまった人形ですが、戦後になって、途絶えてしまった今戸人形を惜しみ、当時の郷土人形の愛好家がそれまで人形製作をしていなかった白井孝一さんに人形作りをすすめたのを機に、現在に至っているのはみなさん御存じのとおりです。この「子抱き」(大)については当時の愛好家のおひとり、湯島で飾職をしていた袴田穣さんがご自分が大切にされていた今戸人形を戦時中湯島天神下にあった防空壕の中に油紙に包んでおいたものが湿気でやられて色がとれてしまったものを白井に提供された型どりを促したのがきっかけだそうです。現在ではそういった経緯が忘れ去られ、白井さんでは背面の「尾兼」の刻印を消して「今戸焼」という刻印を入れて作っていらっしゃいますが、本来尾張屋さんの人形の型であった事実を風化させたくありません。

 

 

 

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今戸人形 「親子狸」 (尾張屋春吉翁 作)

2010-10-07 12:17:59 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010755 最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による土人形です。

秋葉原駅のすぐそば、神田川をはさんだ対岸に柳森神社というお社があります。現・神田須田町。

神田お玉ヶ池に住んでいた親子狸を祀ったもので、お玉ヶ池はもともと別のところにあったそうです。

「この付近一帯には、徳川初期まで「お玉ヶ池」という高大な池があったらしい。桜の名所だったことから、当初は「桜ヶ池」と呼ばれ、池畔に茶屋が建っていた。「お玉」というのは、この茶屋にいた看板娘の名前で、「江戸名所図会」によると、あるとき「人がらも品形もおなじさまなる男二人」が彼女に心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じてしまった。亡骸は池の畔に葬られ、そんな伝説から名がついたという。現在その由縁の「お玉稲荷」が岩本町2-5に都の旧跡に指定され残っている。」(以上他のHPより引用させてもらいました。)

柳森神社は「お玉ヶ池」一帯が開けてから現在地へ移ったものだとか、、。神社からは親子一対の小狸を授与していて、明治24・25年頃に遡るそうです。親狸は「壽」、子狸は「福」を授けんという霊夢によって創りはじめられたとか。

現在でも画像の尾張屋春吉翁の作と同じ大きさ、形のお狸さまが授与されているのではないでしょうか。(神社の方にお訊ねしたところ、現在のお狸さまは日暮里のほうで作られているのではないか、、とのお話でした。)以前、私も神社で授与していただきましたが、お狸さまと一緒にキャンディー一袋を授かりました。聞けば、お狸さまは甘い物が好きで、お供えして心願するのだそうです。

春吉翁によるこの人形は親狸の背面に「福壽」という彫りがあります。画像のはお腹のところが黄色い染料で塗られていますが、黄色い顔料で塗られているのもあります。

 

 

 

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今戸人形 「客寄せ狸」 (尾張屋春吉翁 作)

2010-10-03 21:47:31 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

2007_0101_000000p1010748 今戸人形には狸の土人形もいくつかあったようです。近世遺跡からの出土品の中にも狸のバリエーションがみられます。

画像は最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)による「客寄せ狸」の土人形。

狸は多くは、両手、または片手で腹鼓みを打っているのや、通い帳を片手に持っている構図のがポピュラーなような気がしますが、この狸はちょっと皮肉。片手で腹鼓を打ちながら、鼓を打っているのです。

「客寄せ」という命名。この形とどう関係があるのかはわかりません。お客商売で店先に置いておくと客寄せになるということでしょうが、、。語呂合わせで「たぬき」は「他抜き」に通じ、勝負に勝つという縁起かつぎがあるようです。

ふたつとも春吉翁による同じ型の土人形ですが、だいたいの配色は同じながら、腹の部分の黄色には一方に顔料、また一方に染料が使われています。襟の部分の緑色のも観たことがあります。

また鼓に調べの紐を描いたり描かなかったりしているようです。

 

 

 

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