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「三畳小屋」の伝言 陸軍大将 今村均の戦後

2015-05-06 13:22:19 | 

 戦時中の日本軍の行動について、内外を含め良く言わない言質が多い中、慈悲深い、ホンマものの陸軍大将がおられました。今村均氏です。

 裁判官の父の子である彼の幼少期の悩みは夜尿症でした。9歳まで症状は残っていたらしいのですが、小学校で宿泊遠足があった折、この悩みを担任の先生に打ち明けると、先生は横に寝てくれ、数時間おきに起こしてくれて、便所に連れて行ってくれました。先生の思いやりは信頼感に変わり、彼が軍で生きる上での大きな指標になったはずです。

 1941年12月に太平洋戦争が勃発し、彼はジャワ方面軍(第16軍)司令官として、オランダが支配していたインドネシアを解放し、現地人を大切にする融和政策やオランダ人の自由も認めました。この時、流刑にされていた、のちのインドネシア大統領のスカルノも自由になり、独立後に訪日した折には、今村氏に面会しています。

 これを甘い政策と断じ、大本営から圧制への転換を勧告されても、首を縦に振らず、1942年にラバウル方面軍(第8軍)司令官に左遷されました。南太平洋は米軍との激しい戦いが始まり、ガダルカナル島は「餓島」と呼ばれるほど、日本からの補給路も経たれた悪条件の戦地で、日本軍は破れました。この状況を鑑みた今村は、米軍の上陸や空襲に対して、高さ2メートル、長さ450キロ(東京・神戸間の距離)の地下要塞を構築、また軍事訓練もきびきびと行い、自ら鍬をもって、食糧自給生産も行いました。この様子を見たマッカーサーはラバウルを無視し、サイパン、グアム、沖縄へ攻撃の矛先を変えました。

 1945年終戦を迎え、ラバウルの北にあるマヌス島収容所に入れられた今村は巣鴨拘置所へ移送されるが、翌年、ラバウル戦犯収容所に移り、自決を図るも未遂に終わりました。最高指揮官の一人として職責を全うしなかった、また、連合軍に日本侵攻の防衛線を破られたことを悔いての行動でした。1947年、オーストラリア軍の軍事裁判で禁固10年の判決を、そして、1948年、オランダの軍事裁判では無実判決となり、1950年に巣鴨へ移送されるが、GHQマッカーサー元帥に三度の直訴の手紙を送り、マヌス島へ戻りました。マッカサーが「真の武士道の人」と称したらしい。

 マヌスでは自分の部下と共に、日本に戻ってからの生活を考えて、青空教室のラバウル大学を開設、みんなが自信のある教科を教え合い、また食料も自給しました。しかし、冤罪で死刑になる部下に対して、彼は深い悔恨を帯び、1954年に釈放されるも、自宅庭に三畳の小屋を作り、ほとんどをそこで暮らしました。自主幽閉です。彼は、戦争の実態、戦犯で死んでいった部下のこと、その最期の在り様を日本国民や後世に伝える、そして、残された遺族や部下たちの面倒を見るために、印税はすべて拠出しました。この二点が彼の戦後の使命になったわけです。

 『正しく生きる基準になっていたのがウソをつかないで生きる』

であり、

 『武将は戦術・戦略の研究と、将に将たる徳の修養のいずれも欠いてはならぬもの』

という生きる姿を我々も学ばなければなりません。文言を諳んじれるほど読み込んだ、彼の座右の書は「聖書」と「歎異抄」でした。

『「三畳小屋」の伝言 陸軍大将 今村均の戦後』(朝野富三著、新風書房、本体価格1,500円)

 

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