GWを利用して、ぶらり旅に出ました。今回の行き先は愛知・知多半島。
愛知は今まで足を運ばなかった地。神戸からの移動時間を考えても2時間ほどで到着する近さ。休みのなかなか取れない我が身ですので、目的地までできるだけ短時間で身を置けることが大切。知多半島を訪れる理由はこんなところにありました。
そして、行くからには良い温泉に身を沈めたい。源泉かけ流しを探すとありました。南知多町内海温泉・魚友。加温もなしですから申し分なし。
5月4日に神戸を発ち、昼には名古屋に。味噌カツ、きしめん、名古屋コーチンを少量ずつ、昼食としていただき、名鉄に乗車し、知多へ向かいました。
最初に降り立ったのは半田市。知多半島の中央部東側にあり、人口・12万人。全くの予備知識もなく街へ繰り出すと、大勢の方が背にリックを背負い歩いています。JR東海の企画したさわやかウォークの参加者が半田の街を闊歩していました。その行程と真反対に歩き出すと、JR半田駅が目に入りました。この駅の跨線橋は明治43(1910)年に完成した日本最古のもの。ちょうど1世紀、百歳の雄姿はお見事です。
駅前から東に足を向けると、見覚えのあるマークを付けたビルがそびえています。食品メーカーのミツカンです。本社ビルの横にある、博物館「酢の里」は漆黒の蔵の中に酢に関する多くの智恵を抱えていました。調味料として食するばかりで、酢のことなど全くの無知な私にとって、棚からぼた餅の情報を得ることが出来ました。酢は酒粕から作られていること、ミツカンは江戸すしに着眼して酢を作り始めたこと、ミツカンは非上場で200年を超える企業、8代続く中埜(なかの)又左衛門により発展してきたことなど教えられることは多くありました。
見学を終え、一歩足を踏み出すと、ミツカンの蔵が半田運河に並んでいます。運河には鯉のぼりが泳ぎ、皐月の風情を漂わしていました。
半田運河を北上すると、国盛・酒の文化館に到着。国盛ブランドを持つ酒蔵の正式名は中埜酒造株式会社。またしても中埜。半田の産業は中埜氏が牛耳っているんではないかと興味を抱き、入館。約二百年を経た土蔵漆喰造りの蔵には、酒造りの智恵がぎっしり詰まっていました。そして、利き酒コーナーでちょっぴり桜色になり、歩を進めました。
半田の街を巡っていると同盟書林という名の書店に出くわしました。残念ながらGWはお休みでした。
黙々と歩くこと15分。半田赤レンガ建物へ到達しました。明治31年に建設された赤レンガのビルは「丸三麦酒株式会社」の「カブトビール」の醸造工場でした。丸三麦酒醸造所の創業者であるミツカン4代目中埜又左衛門。ここにも登場の中埜氏。戦禍にも耐えた建物は赤レンガを2重、3重にも組む床、そして5重の複壁により、極めて素晴らしい断熱のしくみがあり、中に入ると冷房が効いているのではないかという気分にさせられます。こんなところに英知が注ぎ込まれているのですね。
蔵のまち・半田から離れ、半田市の郊外にある新美南吉記念館にはタクシーを利用して行きました。
「ごんぎつね」「おじいちゃんのランプ」「手袋を買いに」「でんでんむしのかなしみ」など童話の名作を生みだした新美南吉。生家のある半田市岩滑(やなべ)に建つ記念館は周辺の田園風景に調和した半地下式で、芝生で覆われた波打つような屋根にはかわいい薄紫のお花が咲き誇っていました。中学校時代から童謡、童話を創作し始めた南吉の生涯と作品群を閲覧した最後に、同じ岩滑出身の教育哲学者・森信三先生のコーナーもあり、偶然の出会いに驚きました。「人生二度なし」の思いを新たにしました。
半田の観光を終え、宿泊先のある南知多町内海へ名鉄に揺られて、また歩き疲れて睡魔にも揺られて、夕刻の時を漂いました。泉温50.2℃の南知多温泉・友の湯(ナトリウム、塩化物温泉)に身を委ね、日頃の疲れを癒すには申し分のない湯でした。広い露天風呂は伊勢湾に面しており、その眺望も抜群で、落陽にも身体を温められる気分に浸れます。当日は雲と黄砂で夕陽は拝めることができず終いでした。
夕食も魚三昧、そして知多牛に箸が迷うほど。至福の食となりました。
次の日は知多半島の最南端の漁港・師崎へ行くためにバスの人になりました。大勢の人が貝を探す潮干狩りの海を横目に見ながら、バスは先へ先へと進みます。岬は観光地として多くの見るところが多いのですが、この港から海上に篠島、日間賀島が高速船で30分圏内にあり、この2島が知多半島の先端部になるのか、知多半島の岬・羽豆(はず)岬は通過点になってしまっており、ちょっぴり閑散とした感がありました。ウバメガシに覆われた鎮守の森を持つ羽豆神社に詣で、旅の安全を祈願しました。
漁港の町には魚を干している風景に遭遇します。ここではタコでした。
タコは多幸とも読め、知多の旅も無事終わることが出来ました。