当店では、板宿子ども論語塾を毎月第2日曜日朝9時から30分間開催しています。板宿の子どもたちだけでなく、大人の人たちも、2500年前の孔子の教えを学んでいます。25世紀も経てるのに、全く古びれずに誰もがその実践をするべく励んでいます。
論語は儒教の始まりであり、中国では漢代に国の中心的な教えとなり、科挙制度ででは四書五経を教科書として勉学、その後、儒教は朱子学が明~清代に政治規範を占め、日本でも江戸時代、徳川幕府は朱子学を取り入れていたと、学校教育では教えられました。
しかし、本書を読んで、驚きの事実を知りました。それは、論語と儒教は違うということ。孔子は「論語」で人生論、処世術を説きました。しかし、漢代に、孟子と荀子による儒教を国家運営の教学、支配体制の道具として公認し、「論語」とは関係なく、その権威づけのために、「孔子の名声を悪用」することになりました。そして、五経(詩経、書経、礼教、易経、春秋)をその経典としました。さらに、明では、政治イデオロギーに新儒教の朱子学が採用されるが、これは、「『情』と『人欲』(特に性欲)をいかにコントロールするか」に主眼が置かれ、知的エリートには朱子学を、一般庶民には「礼教」を押し付けました。
日本の江戸時代の伊藤仁斎は、論語は人間性の「愛の原理」が底流にあるのに対し、朱子学は「以理殺人(理〔天理〕を持って人を殺す)」ように、論語と朱子学が決定的に違うことを訴えました。日本では朱子学を批判する陽明学など、朱子学からの離脱が起こりましたが、中国、そして、朝鮮では朱子学がそのまま支配し続けたことが、その後の歴史を物語っているかもしれません。
論語と儒教の違いを確認できたことは、板宿子ども論語塾でも大きく活用できることでしょう。
『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか 日本と中韓「道徳格差」の核心』(石平著、PHP新書、本体価格900円)
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