天佑寺の境内にあります。
写真のように場所は見つけたのですが、扉が閉められており、恐れ多くて中まで入りませんでした。(施錠の有無も確認していません。)
「諌早家初代龍造寺家晴から十八代家興(いえおき)までの歴代領主の墓碑十八基、正・側室や子息の墓25基、家臣の墓30基、一族の墓4基、雑塔56基、石碑5基、六地蔵石幢4基、石室2基、住職の墓42基、石燈籠177基、弥勒四十九院形式の石柵27基があります。(よく数えたなあ〜。)
1613年から1913年までに作られた墓碑群です。
墓石は異形五輪塔とも称すべきもので、火輪の四隅が突出し宝篋印塔との折衷的様相を示すような形をしています。
初代から3代までの墓碑後方の小さな墓は、領主に殉死した家臣達のものです。領主の墓碑を囲む石棚は、「弥勒四十九院」造りと呼ばれる形式で、弥勒菩薩の住む兜率天(とそつてん)にある内院では中央は弥勒菩薩の宝殿、その四方に各十二院あると言われています。この宝殿を墓石としたのは、死後兜率天に生まれることを願って造られたものであろうと考えられます。
幕藩時代の墓地形式をよく残しており、昭和五十二年に県文化財に指定されました。」(諫早市教育委員会)
写真のように場所は見つけたのですが、扉が閉められており、恐れ多くて中まで入りませんでした。(施錠の有無も確認していません。)
「諌早家初代龍造寺家晴から十八代家興(いえおき)までの歴代領主の墓碑十八基、正・側室や子息の墓25基、家臣の墓30基、一族の墓4基、雑塔56基、石碑5基、六地蔵石幢4基、石室2基、住職の墓42基、石燈籠177基、弥勒四十九院形式の石柵27基があります。(よく数えたなあ〜。)
1613年から1913年までに作られた墓碑群です。
墓石は異形五輪塔とも称すべきもので、火輪の四隅が突出し宝篋印塔との折衷的様相を示すような形をしています。
初代から3代までの墓碑後方の小さな墓は、領主に殉死した家臣達のものです。領主の墓碑を囲む石棚は、「弥勒四十九院」造りと呼ばれる形式で、弥勒菩薩の住む兜率天(とそつてん)にある内院では中央は弥勒菩薩の宝殿、その四方に各十二院あると言われています。この宝殿を墓石としたのは、死後兜率天に生まれることを願って造られたものであろうと考えられます。
幕藩時代の墓地形式をよく残しており、昭和五十二年に県文化財に指定されました。」(諫早市教育委員会)