上山公園の散策は終わりましたが、まだ諫早市内をうろついています。
とりあえず、朝車を停めた駐車場まで戻る途中に天佑寺というお寺さんがあるので寄ってみます。(表紙写真)
この天佑寺には諫早市の文化財がいくつかあります。
その中の一つ「島原の乱戦没者追悼碑」です。
昭和54年4月1日に諫早市から指定された有形文化財です。
「寛永十四年(1637年)、天草大江村で重税・キリシタン弾圧に対する一揆がおこりました。一揆は島原半島に飛び火し、天草四郎時貞を総大将とする四万の軍勢が原城に立てこもりました(島原の乱)。
時の諌早領主三代諌早茂敬(しげひろ)は2000人の手勢を率いて出陣しましたが、乱での戦いは熾烈をきわめ、諌早勢にも死者92名・負傷者296名の多くの犠牲者が出ました。
この追悼碑は、乱の鎮圧後、三十三回忌の寛文十二年(1672年)に、犠牲者の霊を祀るために建立されました。石造り三段の基壇の上に、高さ2.45m・幅0.96mの石碑を載せ、総高3.37mとなっています。
この碑には、戦死した武士67名・又者(家来の家来)14名・百姓11名・計92名の氏名が刻まれています。
島原の乱の史料として貴重であることから、市の文化財に指定されました。」(諫早市教育委員会)
まさか諫早市散策に来て、島原半島由来の物に出会うとは思ってもみませんでした。
とりあえず、朝車を停めた駐車場まで戻る途中に天佑寺というお寺さんがあるので寄ってみます。(表紙写真)
この天佑寺には諫早市の文化財がいくつかあります。
その中の一つ「島原の乱戦没者追悼碑」です。
昭和54年4月1日に諫早市から指定された有形文化財です。
「寛永十四年(1637年)、天草大江村で重税・キリシタン弾圧に対する一揆がおこりました。一揆は島原半島に飛び火し、天草四郎時貞を総大将とする四万の軍勢が原城に立てこもりました(島原の乱)。
時の諌早領主三代諌早茂敬(しげひろ)は2000人の手勢を率いて出陣しましたが、乱での戦いは熾烈をきわめ、諌早勢にも死者92名・負傷者296名の多くの犠牲者が出ました。
この追悼碑は、乱の鎮圧後、三十三回忌の寛文十二年(1672年)に、犠牲者の霊を祀るために建立されました。石造り三段の基壇の上に、高さ2.45m・幅0.96mの石碑を載せ、総高3.37mとなっています。
この碑には、戦死した武士67名・又者(家来の家来)14名・百姓11名・計92名の氏名が刻まれています。
島原の乱の史料として貴重であることから、市の文化財に指定されました。」(諫早市教育委員会)
まさか諫早市散策に来て、島原半島由来の物に出会うとは思ってもみませんでした。