南島原駅(旧島原湊駅)は、1913年、島原鉄道が諌早ー島原間の全線開通に合わせ、終着駅及び機関庫として開設されました。
この地は白水川の河口で、その堆積物と島原大変の眉山崩壊によってできた島や入り江で成り立っていました。
ここを鉄道の基地とするには広大な用地が必要となり、近くの島や権現山(今の霊丘公園)から土砂を運び埋め立てることになりました。
難工事のすえ、一町あまりの用地が確保され駅舎をはじめ、白水川には鉄橋を架けて、現在の鉄道基地が完成しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/05/2649857303b03c5ef8552eb91f94454d.jpg)
右奥に機関庫。
駅舎は70坪あまりの洋館平屋建てで、中央には切り妻型の玄関を設けたモダンな建物として注目を浴びました。
その後、1922年の口之津鉄道開業により島原の南の玄関口としてさらに栄え、加津佐駅まで開通すると1日6本の列車が南目へ往復しました。
1952年には1日約1000人の人が利用し、手狭になった駅舎は2階建てに改築されました。
このように島原半島の鉄道の拠点として、島原の歴史を見守ってきた駅舎も米寿(八十八歳)を過ぎ、老朽化が見られました。
保存か解体かの検討がなされましたが、長崎県と島原市の支援のもと改修工事が完成し、歴史的な建造物として保存されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/db/9d72a2c2d8fd3fa5da140340c881a7a2.jpg)
この地は白水川の河口で、その堆積物と島原大変の眉山崩壊によってできた島や入り江で成り立っていました。
ここを鉄道の基地とするには広大な用地が必要となり、近くの島や権現山(今の霊丘公園)から土砂を運び埋め立てることになりました。
難工事のすえ、一町あまりの用地が確保され駅舎をはじめ、白水川には鉄橋を架けて、現在の鉄道基地が完成しました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/05/2649857303b03c5ef8552eb91f94454d.jpg)
右奥に機関庫。
駅舎は70坪あまりの洋館平屋建てで、中央には切り妻型の玄関を設けたモダンな建物として注目を浴びました。
その後、1922年の口之津鉄道開業により島原の南の玄関口としてさらに栄え、加津佐駅まで開通すると1日6本の列車が南目へ往復しました。
1952年には1日約1000人の人が利用し、手狭になった駅舎は2階建てに改築されました。
このように島原半島の鉄道の拠点として、島原の歴史を見守ってきた駅舎も米寿(八十八歳)を過ぎ、老朽化が見られました。
保存か解体かの検討がなされましたが、長崎県と島原市の支援のもと改修工事が完成し、歴史的な建造物として保存されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/db/9d72a2c2d8fd3fa5da140340c881a7a2.jpg)
![人気ブログランキングへ](http://image.with2.net/img/banner/banner_22.gif)