教育費篇はこちら。
「日本は随分内向きな単一民族といいますか」
「日教組の子供なんて成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低い」
「ごね得というか、戦後教育が悪かったと思う。自分さえよければ、という風潮の中で、なかなか空港拡張ができなかった」
……この中山前国土交通大臣の発言が、“失言”などではないことはみんな気づいている。失言というのは、認識が甘いか知識が足りないからうっかり口にするってことでしょう?鹿児島ラサール~東大法学部~大蔵省と、絵に描いたようなエリートコースを歩んだこの男に、アイヌや成田闘争の知識がなかったはずはないし、もし本当に認識が甘かったのだとすれば政治家として最初から失格なのである。
要するに彼は言いたくて言いたくてたまらなかったのだ。自分の本音を。
だって誰も聴いてくれなかったから。
大蔵省で同期だった奥さん(中山恭子)の言うことはいちいちマスコミがとりあげるのに、なんで俺の発言はみんな無視するんだ、と内心ムカムカきてもいたのだろう。だから閣僚になって“取捨選択されたメディア”である大新聞の記者たちとの懇談という、自分にとっては待ちに待った場で本音が炸裂したわけだ。
ここまでなら、わたしもそんなに怒りはしなかった。ちっちぇー、とは思ったが。自民党の、特に国家主義者が多い町村派の人なんだからこりゃしょうがないとまで。
問題はそのあとだ。エリートとしての彼が期待し、論議をまきおこしてくれるはずだった、彼と同じようにエリートである大新聞の記者たちは、計算違いにもその後「これはさすがにまずくね?」と談合し、紙面は中山批判一色となった。あわてふためいた彼は路線を転換する。日教組批判のオンパレードだ。つまり、プライドの高い彼は、失言によって地位を失ったのではなく、自らの信条に“殉じた”形にもっていくことにしたのだろう。迷惑なのは日教組の方。この、一種の抱きつき心中は、体のいいテロみたいなものである。極右テロ。冷静な判断力を失った中山は、まわりの迷惑もかえりみず、閣僚じゃなきゃ何言ってもいいんだろ、とばかりに辞任の翌朝(つまり今日)、みのもんたの番組で日教組批判をくりかえしたとか。まさか「自分さえよければ」なんて考えたわけじゃないですわね?
とりあえず言っておこう。まもなく総選挙を迎えるこの時期に麻生が組閣したこのメンバーで、やるべきことは選挙だけなのだ。それなのにこんなザマ。いやしかし凄いな、この緊張感の無さは。
よかったね中山さん。今じゃみんながあなたの発言に注目している。でも「学力テストは日教組と成績の相関について調査するためのもの」って学テの矮小化は文科省を激怒させたろうし(全国の教職員が怒りまくってるぜ)、なりふりかまわない姿勢は自民党内でのあなたの地位を思いきり下げたことだろう。もしも激励してくれるとしたらそれはネット右翼ぐらいのものだ。彼らには“都合”という概念がないしね。
日教組の一員であるわたしは、迷惑ではあるけれど自公政権の崩壊への直接の引き金をわざわざひいてくれたことに、ちょっと感謝もしている。どうか、ご自愛を。この調子でぜひとも長生きしてください。わたしは、本気で願っている。