事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

日本映画と戦後の神話Ⅳ~幻の映画

2008-09-08 | 本と雑誌

Mishima_bw 「幻の脚本」はこちら

 幻の企画、といえば三島由紀夫。夫人を中心とした遺族が映画化を徹底して拒否したものだから、多くの企画がつぶれ、ポール・シュレイダーの「MISHIMA」は日本公開すらされなかった(のちにビデオで観たら、緒形拳扮する三島の決起がクールに描かれていてなかなか)。それがなんと…

(「春の雪」)この華麗なるメロドラマは、1970年代よりしばしば舞台で演じられてきたが、これまで一度もスクリーンに掛けられることがなかった。フランシス・コッポラをはじめとする、世界の名だたる監督が名乗りをあげたが、そのたびに版権管理者に拒絶されてきた。文化大革命のさなかに『金閣寺』の翻訳を隠れ読んだという体験をもつ陳凱歌は、舞台を辛亥革命に移して映画化したいと強い抱負を抱いていたが、彼もまたにべもなく追い返された。

……でもなぜか新人監督の行定勲(「世界の中心で、愛をさけぶ」)がいとも簡単に(そのように見える)東宝で映画化されることになったのは確かに不可思議だ。コッポラはともかく、陳凱歌の「金閣寺」も観たかったなあ。生前のレスリー・チャンとコン・リーのコンビで実現していたら、ハリウッドで不調だった陳の来歴は、だいぶ違ったものになっていたのではないか?

次回は「三浦くんのお母さん」。

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日本映画と戦後の神話Ⅲ~幻の脚本

2008-09-08 | 本と雑誌

D0084710 「寅さん登場」はこちら
四方田犬彦による寅さん論はつづく。

「だが『男はつらいよ』は最初からこうした微温的なユートピアを舞台としていたわけではない。切通理作によれば、シリーズの第三作にあたる『フーテンの寅』(山田洋次脚本、森崎東監督)には、森崎によるまったく別の脚本が本来は予定されており、それが会社の意向によって最終的に山田の脚本に変更されて製作がなされたという。廃棄された森崎版脚本では、寅さんは香具師仲間とのいざこざが原因で指を詰めろと脅迫され、結婚の約束までしていた女性を置き去りにして逃げ出す。彼は懐に手を入れ、匕首を握る素振りを見せたり、人をこれまで三人殺してきたなどと大法螺を吹いたりする。森崎はこうして、寅さんが潜在的に抱え込んでいる反市民社会的な行動様式と世界観、さらに暴力との近隣性を浮き彫りにしようとしている。」

 実現していたらさぞや面白い寅さんになったであろう。しかし国民映画としての寅さんは、命脈をその時点で絶たれたはずだ。インテリ層からは徹底的に無視され(評価したのは日共系の評論家だけだった)、観客の支持だけがたよりだった寅さんシリーズが、作品的にも高評価を得るようになったのは70年代後半になってからではないだろうか(浅丘ルリ子演ずるリリーが出る回と、太地喜和子の『寅次郎夕焼け小焼け』はわたしも大好きだった。授業さぼって高校時代に見ましたよ)。山田洋次の企みは、現実にはありえない設定上で(だって葛飾柴又がマジであんなふうであるはずがない)現実にはありえないドラマを徹底してつくりこむことだったはずだ。山田ワールドにおいて車寅次郎は暴力の匂いを消し去り、ほのかな恋情にのみ生きる男となっている。そんなフーテンの寅を、不満はあったかもしれないが渥美清は誠実に演じ続け、そして愛されながら逝った。

4103671041  四方田犬彦は、60年代末の喧噪を「ハイスクール1968」(新潮文庫)で活写しているが、この時期の映画界で無視できないのがATG(アートシアターギルド)。わたしの世代にとっては、インディーズ系映画といえばこの会社が製作したものだった。

「1968年から一貫して制作代表を務めてきた葛井欣士郎は、こうして失意のうちにATGを去ることになった。彼は大江健三郎の最高傑作である長篇『万延元年のフットボール』を吉田喜重に撮らせる準備をしていたが、残念ながらそれは実現できずに終わった。」

……かーっ!観たかったな吉田の「万延元年」。「戒厳令」のような政治映画になっていたら素敵だったのに。世に幻の企画は数々あれど、これはほんとうに惜しい企画だ。

次回は「幻の映画」を。

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日本映画と戦後の神話Ⅱ~寅さん登場

2008-09-08 | 本と雑誌

「おはなはん」篇はこちら

“神話に彩られていない八月十五日”とはどんなものだったのか。四方田の著作によれば……

「その日の正午から放送された天皇裕仁の朗読はわずか4分37秒であり、聴衆者にほとんど理解されなかった。その直後に放送局の職員が解説し、再度ゆっくりと朗読がなされ、さらにそれに解説が加わって、全体で放送は37分30秒の時間を要した。こうした事実を踏まえてみると、聞き取りがたい玉音放送を聴いた国民がただちに日本の敗戦を知って深い衝撃を受けるという光景は、ありえないものであったと判明する。」

 それでは、玉音放送を聴いて皇居前で涙ぐむ人たちをとらえた報道写真はいったい何だったのか。終戦の事実を前もって知っていた新聞社は、前日に予定稿を準備し、“たまたま”皇居前を通行中の一般人に宮城礼拝の姿勢をとってもらった、つまりはやらせ写真だったのだ。昭和20年8月15日の前も後も、日本のメディアの体質と、日本人の読解能力の低さに大きな差がなかったことがこれで理解できる。玉音放送への驚きは、その内容よりも“天皇の肉声”がスピーカーから流れ出たことの方が大きかったのだ

敗戦から60年以上たち、報道に何度も裏切られてきたにもかかわらず、わたしたちはまだまだ『ニュース』を盲信しているではないか。そんな姿勢を、四方田の冷徹な考察は痛感させてくれる。

Atsumi01 戦後の最大の(トリック)スターが裕仁であったように、映画界で光り輝いたのは渥美清。小林信彦の「おかしな男」の号でもふれたように、寅さんと同一化して考えられがちだが、彼はなかなかにシニカルな人間だった。

「渥美は個人的には、むしろ『刑事コロンボ』のピーター・フォークのように、知的洞察力に満ちた道化役の探偵を演じてみたいという野心をもっていたが、結果的に寅さんを長きにわたって引き受けることになった。」

……確かに面白そうだ。渥美のコロンボ。彼の切望は「八つ墓村」の金田一耕助役でかなえられるが、しかし歴然とミスキャストだったのは残念。寅さんに関してはもうひとつエピソードを。“幻の脚本”が存在したというのだ。以下次号「幻の脚本」につづく。

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日本映画と戦後の神話Ⅰ~おはなはん

2008-09-08 | 本と雑誌

4000242547 “映画史家”四方田犬彦の著作は、これまで「観覧車」「心は転がる石のように」「原節子」などでとりあげてきた。映画史を通して日本を大づかみにする作業が有効であることを常に思い知らせてくれる。この「日本映画と戦後の神話」(岩波書店刊)においても、戦後の映画が『神話を物語る以上に、神話を提出しつづけてきた』証拠を、数多くのエピソードとともに読者に提供しているのだ。いくつか紹介してみよう。

「戦後、日本人は長らく八月十五日を『終戦記念日』としてきたが、天皇裕仁がポツダム宣言を受諾する『聖断』を行い、それがスイスとスウェーデン政府を経由して連合国に伝えられたのは八月十日である。八月十三日にはすでにアメリカ人は、UP通信が流した日本降伏のニュースに沸きあがっていた。この日、東京上空ではアメリカ機がすでにビラを散布しており、少なからぬ市民が情報統制の目を潜って最新情報に接していた。(略)では、なぜ日本人はかくも八月十五日に固執してきたのか。奇しくもそれは、死者たちが一時的に現世に戻ってくる期間であるお盆の中日に相当している。それは民俗学的にいうならば『忌み日』であって、死者の魂を鎮めることを通して日本的論理が確認される日でもあった……」

 占領下の日本では、八月十五日になっても終戦や玉音放送が報じられることはほとんどなかったのだそうだ。ではなぜわたしたちは、季語のように終戦を、あの日を中心に考えるのだろう。戦後生まれの人間ですら『蝉しぐれ』『小学校の校庭』『ラジオから流れる天皇の声』を“記憶”しているのはなぜだ?
 その答は、かなり人為的なものだったようだ。

「いわゆる『八月ジャーナリズム』が盛行するようになったのは、1955年以降のことだ。この年、朝日新聞が『終戦十周年』をグラビア見開きで特集した。丸山真男が、帝国主義を旗印とした世界最後進国が八月十五日を境として、民主主義の最先進国に生まれ変わったと説いて『八月革命』を主張し、これを契機として進歩的知識人による八月十五日の神話化が推し進められることとなった。(略)あとはステレオタイプの映像が大量生産されることになった。1966年に大人気を博した『おはなはん』をはじめとして、NHK連続テレビ小説はかならずといってよいほど、この夏の日に日本人が受けた衝撃に言及することになった。」

Ohanahan この、ドラマ的映像で刷り込まれた終戦の日だが、実際はどうだったのだろう。以下次号「寅さん登場」につづく。

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「天空の城ラピュタ」宮崎駿監督

2008-09-08 | 事務職員部報

建築中の新教育会館の名前が決定。『大手門パルズ』だそうだ。ある筋から聞いたのでさっそく某支部の学習会の前日の飲みで披露すると
「パルズ……なんか、宮崎駿の映画になかったっけ」
「?」
「ほら、シータとかパズーとか出てくるやつ」
「ああ、ラピュタだな。」
「ラストでさあ、二人が手を重ねて呪文をとなえるじゃないか」
「あー『バルス』……ってそんなもん連想するのお前しかいないぞ!」
「そんな言葉すぐに思い出す部長ってのもどうかと思う!」

「天空の城ラピュタ」は、「ルパン三世/カリオストロの城」とともに、巨匠になってしまう前の宮崎駿らしい冒険活劇。女盗賊ドーラを吹き替えた初井言栄は名演だった。
 宮崎駿の息子はなんと遊佐町出身の女性と結婚している。わたしがそこの学校にいたときの生徒だった。で、同僚の奥さんが彼女の同級生で、宮崎家の披露宴に出席して花笠音頭を踊ってきたそうだ。
「てことは新郎の父親だから宮崎駿も出席してたわけだね」
「らしいです」
「どんな人だって言ってた?」
「あー宮崎駿だなあ、ってだけ」
使えねー情報ですみません。で、その新郎が監督するのがジブリの新作「ゲド戦記」なのである。期待しよう。

06年1月30日付事務職員部報「LIVE」より。
結局宮崎駿は「ゲド戦記」を徹底して黙殺した。そしてお返しとばかりに息子をモデルにした「崖の上のポニョ」を完成させる。なかなかむずかしい親子関係ですな。

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