3.意志はわたしたちの自由になるものなのだろうか
志賀直哉の作品には、『范の犯罪』ばかりではない。
シェイクスピアの『ハムレット』に題材を取った『クローディアスの日記』では、ハムレットに王殺しの疑いをかけられた弟クローディアスが、「乃公(おれ)が何時貴様の父を毒殺した? 誰がそれを見た? 見た者は誰だ? 一人でもそういう人間があるか? 一体貴様の頭は何からそんな考を得た?」と即座に反発するが、やがて自分の気持ちを思い返すにつれ、誰よりもよくわかっているはずの自分の気持ちさえ不確かになってくる。
『剃刀』となると、ほとんど動機がどこにあるか定めがたい。
床屋の芳三郎は剃刀の名人である。十年間、客の顔に傷をつけたことがないのが自慢である。その芳三郎が風邪を引いて寝込んでしまった。店で使っていた昔の朋輩は、店の金を持ち出したことが原因でクビにしたために、調子が悪くても自分が店に立たなくてはならない。芳三郎のささくれだった神経がどんどん追い込まれていくような細かな出来事が積み重なっていく。
志賀直哉の作品には、『范の犯罪』ばかりではない。
シェイクスピアの『ハムレット』に題材を取った『クローディアスの日記』では、ハムレットに王殺しの疑いをかけられた弟クローディアスが、「乃公(おれ)が何時貴様の父を毒殺した? 誰がそれを見た? 見た者は誰だ? 一人でもそういう人間があるか? 一体貴様の頭は何からそんな考を得た?」と即座に反発するが、やがて自分の気持ちを思い返すにつれ、誰よりもよくわかっているはずの自分の気持ちさえ不確かになってくる。
眼を開くと何時かランプは消えて闇の中で兄がうめいている。然しその時直ぐ魘されているのだなと心附いた。いやに凄い、首でも絞められるような声だ。自分も気味が悪くなった。自分は起してやろうと起きかえって夜着から半分体を出そうとした。その時どうしたのか不意に不思議な想像がふッと浮んだ。自分は驚いた。それは兄の夢の中でその咽を絞めているものは自分に相違ない、こういう想像であった。すると暗い中にまざまざと自分の恐ろしい形相が浮んで来た。自分には同時にその心持まで想い浮んだ。(志賀直哉『クローディアスの日記』『清兵衛と瓢箪・網走まで』所収 新潮文庫)
『剃刀』となると、ほとんど動機がどこにあるか定めがたい。
床屋の芳三郎は剃刀の名人である。十年間、客の顔に傷をつけたことがないのが自慢である。その芳三郎が風邪を引いて寝込んでしまった。店で使っていた昔の朋輩は、店の金を持ち出したことが原因でクビにしたために、調子が悪くても自分が店に立たなくてはならない。芳三郎のささくれだった神経がどんどん追い込まれていくような細かな出来事が積み重なっていく。
芳三郎は剃刀をもう一度キュンキュンやってまず咽(のど)から剃り始めたが、どうも思うように切れぬ。手も震える。それに寝ていてはそれほどでもなかったが、起きてこう俯向くとすぐ水洟が垂れて来る。時々剃る手を止めて拭くけれどもすぐまた鼻の先がムズムズして来ては滴りそうに溜まる。
奥で赤児の啼く声がしたので、お梅は入って行った。
切れない剃刀で剃られながらも若者は平気な顔をしている。痛くも痒くもないと云う風である。その無神経さが芳三郎には無闇と癪に触った。使いつけの切れる剃刀がないではなかったが彼はそれと変えようとはしなかった。どうせ何でもかまうものかという気である。それでも彼はいつかまた丁寧になった。少しでもざらつけば、どうしてもそこにこだわらずにはいられない。こだわればこだわるほど癇癪が起って来る。からだもだんだん疲れて来た。気も疲れて来た。熱も大分出て来たようである。(『剃刀』『清兵衛と瓢箪・網走まで』所収 新潮文庫)
このあとも芳三郎はどんどん追いつめられていく。そうして、ついに彼の剃刀を持つ手に力がこもるのである。
『范の犯罪』の范は、果たして妻を殺そうとして殺したのだろうか。もしそうだとしたら、その「動機」とは何なのか。あるいは『クローディアスの日記』では、シェイクスピアの『ハムレット』とはちがって、クローディアスは自分は無実であるという。にもかかわらず、無実なはずの自分のうちに殺意が起こった瞬間があったことを彼自身が知っている。『剃刀』となると、ほとんど「動機なき殺人」に近い。だが、主人公が殺人に向かって、逃れようもなく落ちていく。
このように志賀直哉の作品のいくつかは、いわゆる「動機」と呼ばれるものの曖昧さに焦点を当てたものである。
「動機」という。事件が起これば動機だが、つまり意志を決定する要因のことだ。
わたしたちは明確に、意志を持ってさまざまなことにあたるのだろうか。
その意志というのは、わたしたちの自由になるものなのだろうか。
意志を決定する要因というのは、このように、きわめて不確かで曖昧で、自分でも見定めがたいものではないのか。
わたしたちは、むしろ逃れようもなくその網の目にからめとられていくのではあるまいか。そうして、何かが起こってから初めて、出来事をさかのぼり、そのときの自分の心情を遡航的に組み立てていくのではあるまいか。
こう考えていくと、良い動機があった行為は良い行為、悪い動機があった行為は悪い行為、という分類事態がかなり疑わしいものに思えてくる。
こう考えると、「良い-悪い」がはっきりしている作品というのは、推理小説や時代劇のようなエンタテイメント色の強いものに限られてくるのだろうか?
ところがいわゆる文学作品のなかにもこうした性質のものはある。明日はそうしたものを見てみよう。
(この項つづく)