その13.
とうとう避けがたい事態に至ったとき、ミスター・ウォーバートンは思いがけないほどの衝撃を受けた。
クーパーがボーイのアバスを、服を盗んだとなじり、アバスが盗んでいないと言い返したので、クーパーが襟首をつかんで、バンガローの階段からけ落とした。ボーイが、給料を払ってください、と訴えると、クーパーはあらんかぎりの悪口雑言を投げつけた。一時間して、まだここの敷地にいるようだったら、警察に突き出すぞ。翌朝、クーパーが支局に行こうと歩いていると、「砦」の外でアバスが待ちかまえており、また給料を要求する。クーパーは拳をかためて殴りつけた。地面に倒れ、身を起こしたアバスの鼻からは、血がドクドクと流れた。
クーパーはそのまま歩いていくと、仕事に取りかかった。だが、どうにも仕事に集中できない。殴ったことで、苛立ちは治まったが、自分がやりすぎたことは理解していた。ひどく狼狽していた。ムカムカし、みじめで、気分が沈んだ。隣の部屋にいるミスター・ウォーバートンのところへ行って、自分がしでかしたことを打ちあけたいという衝動にかられる。椅子から立ち上がりかかったが、自分の話を聞くのが冷たい、馬鹿にしきったような顔であることはよくわかっていた。恩着せがましい笑顔が目に見えるようだ。一瞬、アバスがどんな報復に出るかと、不安が胸に兆す。ウォーバートンはちゃんと警告したのだ。彼は溜息をついた。馬鹿なことをしてしまった。だが、彼はいらだたしげに肩をすくめた。たいしたことじゃない。おれには全然関係ないことだ。これもみんなウォーバートンが悪いんだ。やつをここに戻さなければ、こんなことは起こらなかったのに。ウォーバートンがおれの生活を最初からめちゃくちゃにしたんだ。あの俗物が。だが、連中なんてみんな同じだ。おれが植民地生まれだからって。おれが戦争中に将校になれなかったのもあんまりな話じゃないか。おれだってだれにも負けないぐらい、戦ったんだ。薄汚い俗物どもが大勢いたせいだ。だれが連中の言うことなんか聞くもんか。もちろん何があったかはウォーバートンの耳にも入るだろう。あのおいぼれ狸はなんだって知ってるんだ。だが、何を怖れるものか。ボルネオのマレー人をおれが怖がるわけがない。ウォーバートンなんか地獄に堕ちればいいんだ。
ミスター・ウォーバートンが何が起こったかを知ることになるだろうというクーパーの予想は、その通りになった。昼食に戻ったときに、ボーイ長が報告したのである。
「君の甥っ子はいまどこにいる?」
「存じません、旦那様。どこかに行ってしまいました」
ミスター・ウォーバートンは黙りこんだ。昼食後は、彼は少しの間午睡を取ることに決めていたのだが、今日は目が冴えかえっている。クーパーも休んでいるはずのバンガローに、知らず知らずのうちに視線は向かった。
あの馬鹿者が。ミスター・ウォーバートンは胸の内でためらっていた。あの男は自分がどれだけ危険にさらされているか、わかっているのだろうか。クーパーを呼び寄せるべきなのだろう。だがこれまでに、クーパーに道理を説いて聞かせてやった、そのことあるごとに、やつは私を侮辱したのだ。怒りが、燃えるような憤怒が、突如、胸の内を満たした。こめかみには血管が浮き上がって、拳を握りしめた。やつには警告してやったのだ。もうこうなったら自分で蒔いた種は、自分で刈り取るしかなかろう。もう私の知ったことではない。何があろうが、やつの責任だ。そうなったらおそらくクアラ・ソロールの連中も、私の助言を容れて、クーパーを本部へでも戻せばよかったと思うことだろう。
その夜、ミスター・ウォーバートンは奇妙なほど胸が騒いだ。夕食後、ヴェランダを行ったり来たりした。ボーイが召し使い部屋に下がろうとするときには、アバスについて何かわかったか、と聞いてみた。
「いいえ、旦那様。おそらくやつの母方の兄の村に行ったのではないかと思います」
ミスター・ウォーバートンは、鋭い目で一別したが、ボーイは顔を伏せていて、ふたりの視線が交錯することはなかった。ミスター・ウォーバートンは河の方へ歩いていき、あずまやに腰を下ろした。だが、とてもではないが穏やかな心地にはなれそうもない。河の流れは気味が悪くなるほど静かだった。巨大な蛇がのろのろと海に向かって這っているようだ。ジャングルの木々は、息苦しいほど繁って河面に張り出している。鳥の声もない。風は絶え、カッシアの葉をそよがす音も聞こえない。自分を取り巻く何もかもが、まるで何事かをじっと待っているかのようだった。
庭を横切って道へ出た。そこからクーパーのバンガローがくまなく見える。居間に明かりがついており、ラグタイムが道のところにまで流れてくる。クーパーが蓄音機をかけているのだ。ミスター・ウォーバートンは大きく身震いした。あの機械が本能的に嫌いで、どうにもならないのだ。あんなものをかけてなければ、クーパーのところへ行って、話をしてやるのだが。彼はきびすを返して自分の家に戻った。遅くまで本を読んで、やっと眠りについた。だが、まもなく、恐ろしい夢をいくつも見て、目が覚めたのだ。悲鳴が聞こえて、それで目が覚めたような気がする。もちろんそれも夢だったのだろう。たとえ悲鳴があがったとしても――たとえばあのバンガローから――、この部屋まで届くはずがない。夜明けが来るまで、そうやって横になったまま、まんじりともせずにいた。それから、あわただしい足音と、人の話し声が聞こえ、ボーイ長がトルコ帽もかぶらずに、部屋に飛び込んできたのだった。ミスター・ウォーバートンは心臓が止まった。
「旦那様、旦那様」
ミスター・ウォーバートンはベッドから飛び出した。
「すぐ行く」
(いよいよ明日は最終回)
とうとう避けがたい事態に至ったとき、ミスター・ウォーバートンは思いがけないほどの衝撃を受けた。
クーパーがボーイのアバスを、服を盗んだとなじり、アバスが盗んでいないと言い返したので、クーパーが襟首をつかんで、バンガローの階段からけ落とした。ボーイが、給料を払ってください、と訴えると、クーパーはあらんかぎりの悪口雑言を投げつけた。一時間して、まだここの敷地にいるようだったら、警察に突き出すぞ。翌朝、クーパーが支局に行こうと歩いていると、「砦」の外でアバスが待ちかまえており、また給料を要求する。クーパーは拳をかためて殴りつけた。地面に倒れ、身を起こしたアバスの鼻からは、血がドクドクと流れた。
クーパーはそのまま歩いていくと、仕事に取りかかった。だが、どうにも仕事に集中できない。殴ったことで、苛立ちは治まったが、自分がやりすぎたことは理解していた。ひどく狼狽していた。ムカムカし、みじめで、気分が沈んだ。隣の部屋にいるミスター・ウォーバートンのところへ行って、自分がしでかしたことを打ちあけたいという衝動にかられる。椅子から立ち上がりかかったが、自分の話を聞くのが冷たい、馬鹿にしきったような顔であることはよくわかっていた。恩着せがましい笑顔が目に見えるようだ。一瞬、アバスがどんな報復に出るかと、不安が胸に兆す。ウォーバートンはちゃんと警告したのだ。彼は溜息をついた。馬鹿なことをしてしまった。だが、彼はいらだたしげに肩をすくめた。たいしたことじゃない。おれには全然関係ないことだ。これもみんなウォーバートンが悪いんだ。やつをここに戻さなければ、こんなことは起こらなかったのに。ウォーバートンがおれの生活を最初からめちゃくちゃにしたんだ。あの俗物が。だが、連中なんてみんな同じだ。おれが植民地生まれだからって。おれが戦争中に将校になれなかったのもあんまりな話じゃないか。おれだってだれにも負けないぐらい、戦ったんだ。薄汚い俗物どもが大勢いたせいだ。だれが連中の言うことなんか聞くもんか。もちろん何があったかはウォーバートンの耳にも入るだろう。あのおいぼれ狸はなんだって知ってるんだ。だが、何を怖れるものか。ボルネオのマレー人をおれが怖がるわけがない。ウォーバートンなんか地獄に堕ちればいいんだ。
ミスター・ウォーバートンが何が起こったかを知ることになるだろうというクーパーの予想は、その通りになった。昼食に戻ったときに、ボーイ長が報告したのである。
「君の甥っ子はいまどこにいる?」
「存じません、旦那様。どこかに行ってしまいました」
ミスター・ウォーバートンは黙りこんだ。昼食後は、彼は少しの間午睡を取ることに決めていたのだが、今日は目が冴えかえっている。クーパーも休んでいるはずのバンガローに、知らず知らずのうちに視線は向かった。
あの馬鹿者が。ミスター・ウォーバートンは胸の内でためらっていた。あの男は自分がどれだけ危険にさらされているか、わかっているのだろうか。クーパーを呼び寄せるべきなのだろう。だがこれまでに、クーパーに道理を説いて聞かせてやった、そのことあるごとに、やつは私を侮辱したのだ。怒りが、燃えるような憤怒が、突如、胸の内を満たした。こめかみには血管が浮き上がって、拳を握りしめた。やつには警告してやったのだ。もうこうなったら自分で蒔いた種は、自分で刈り取るしかなかろう。もう私の知ったことではない。何があろうが、やつの責任だ。そうなったらおそらくクアラ・ソロールの連中も、私の助言を容れて、クーパーを本部へでも戻せばよかったと思うことだろう。
その夜、ミスター・ウォーバートンは奇妙なほど胸が騒いだ。夕食後、ヴェランダを行ったり来たりした。ボーイが召し使い部屋に下がろうとするときには、アバスについて何かわかったか、と聞いてみた。
「いいえ、旦那様。おそらくやつの母方の兄の村に行ったのではないかと思います」
ミスター・ウォーバートンは、鋭い目で一別したが、ボーイは顔を伏せていて、ふたりの視線が交錯することはなかった。ミスター・ウォーバートンは河の方へ歩いていき、あずまやに腰を下ろした。だが、とてもではないが穏やかな心地にはなれそうもない。河の流れは気味が悪くなるほど静かだった。巨大な蛇がのろのろと海に向かって這っているようだ。ジャングルの木々は、息苦しいほど繁って河面に張り出している。鳥の声もない。風は絶え、カッシアの葉をそよがす音も聞こえない。自分を取り巻く何もかもが、まるで何事かをじっと待っているかのようだった。
庭を横切って道へ出た。そこからクーパーのバンガローがくまなく見える。居間に明かりがついており、ラグタイムが道のところにまで流れてくる。クーパーが蓄音機をかけているのだ。ミスター・ウォーバートンは大きく身震いした。あの機械が本能的に嫌いで、どうにもならないのだ。あんなものをかけてなければ、クーパーのところへ行って、話をしてやるのだが。彼はきびすを返して自分の家に戻った。遅くまで本を読んで、やっと眠りについた。だが、まもなく、恐ろしい夢をいくつも見て、目が覚めたのだ。悲鳴が聞こえて、それで目が覚めたような気がする。もちろんそれも夢だったのだろう。たとえ悲鳴があがったとしても――たとえばあのバンガローから――、この部屋まで届くはずがない。夜明けが来るまで、そうやって横になったまま、まんじりともせずにいた。それから、あわただしい足音と、人の話し声が聞こえ、ボーイ長がトルコ帽もかぶらずに、部屋に飛び込んできたのだった。ミスター・ウォーバートンは心臓が止まった。
「旦那様、旦那様」
ミスター・ウォーバートンはベッドから飛び出した。
「すぐ行く」
(いよいよ明日は最終回)