陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

良い人? 悪い人?? その2.

2008-03-18 22:23:22 | 
2.動機ってなんだろう

昨日見た『魔女の宅急便』には、主人公が一般的には好ましくない行動を取ったとしても、「そういうことをするのも仕方がない」とわたしたちが思えるような情況が書き込んであれば、わたしたちはそれをあまり問題行動とはとらえないことがわかった。その「仕方がない」に説得されなければ、主人公の問題行動は、わたしたちのなかに「引っかかり」として残っていく。

確かに『坊ちゃん』で、坊ちゃんと山嵐が野だいこや赤シャツを殴ったりタマゴをぶつけたりするのも、暴力沙汰にはちがいない。見方を変えれば、学内政治に破れた山嵐が、坊ちゃんを巻きこんで腹いせをしたことにもなる。

それでもわたしたちはその暴力沙汰を不問にする。不問にするどころか、いやらしい政治を打つ彼らをやっつけることによっておおいに溜飲を下げるのである。

主人公がそういう行動をとった動機にわたしたちが納得できると、わたしたちは一般的には「良くない」とされる行動であっても、不快感を覚えない。さらに、それがふだんのわたしたちならとれない行動であれば、なおさら、すかっとしたりするのである。

つまり、「動機」ということが問題になってくる。

ところがこの「動機」。いったいどこからどこまでをいうのだろうか。志賀直哉の短編『范の犯罪』を読むと、実に判然としなくなってくるのである。

『范の犯罪』では、出来事が終わったところから物語が始まる。

范は「支那人」の奇術師である。舞台でナイフ投げの実演中、投げたナイフが妻の頸動脈を切断してしまい、妻はその場で死亡した。そうして、その裁判のプロセスが小説として描かれていくのだ。

裁判の焦点は、これが「故意の業か、過ちの出来事か」が焦点になる。
さまざまな証人が呼ばれる。范を良く知っているはずの座長や助手にも、それが事故であったか、故意であったかがわからないのである。

いよいよそこで范が呼ばれる。
そこで意外な事実が明らかになるのである。

范は、妻の従兄弟にあたる人物の薦めで、妻と結婚した。そうして、結婚後八ヶ月目に赤ん坊が生まれた。赤ん坊は范ではなく、その従兄弟との間にできた子供だった。だが、まもなく赤ん坊も窒息死してしまう。乳房で息を止められたのである。妻は「過ちだった」という。
「妻はその関係に就いてお前に打ち明けたか?」
「打ち明けません。私も訊こうとはしませんでした。そしてその赤児の死が総ての償いのようにも思われたので、私は自身出来るだけ寛大にならなければならぬと思っていました」
「ところが寛大になれなかったというのか」
「そうです。赤児の死だけでは償いきれない感情が残りました。離れて考える時には割に寛大でいられるのです・ところが、妻が眼の前に出て来る。何かする。そのからだを見ていると、急に圧(おさ)えきれない不快を感ずるのです」

ところが離婚はできなかった。妻が、離婚されれば自分は死ぬ、と言ったからである。
「妻はお前に対して別に同情もしていなかったのか?」
「同情していたとは考えられません。――妻にとって同棲している事は非常に苦痛でなければならぬと思うのです。しかしその苦痛を堪え忍ぶ我慢強さはとても男では考えられないほどでした。妻は私の生活が段々と壊されて行くのを残酷な眼つきでただ見ていました。私が自分を救おう――自分の本統の生活に入ろうともがき苦しんでいるのを、押し合うような少しも隙を見せない心持で、しかも冷然と側(わき)から眺めているのです」

裁判長は范に「妻を殺そうと考えた事はなかったか?」と聞く。

「…(略)…殺した結果がどうなろうとそれは今の問題ではない。牢屋へ入れられるかも知れない。しかも牢屋の生活は今の生活よりどの位いいか知れはしない。その時はその時だ。その時に起ることはその時にどうにでも破ってしまえばいいのだ。破っても、破っても、破り切れないかも知れない。しかし死ぬまで破ろうとすればそれが俺の本統の生活というものになるのだ…(略)…」

こんなことを寝もやらず考えていた翌日、その事件が起こってしまった。ところがさらに范は言う。「こういう事を考えたという事と、実際殺してやろうと思う事との間にはまだ大きな堀が残っていたのです」

この「大きな堀」というのは、わたしたちにもよくわかる感覚ではなかろうか。日常、ひっぱたいてやりたい、ぶん殴ってやりたい、怒鳴りつけてやりたい、という気持ちになることがあっても、それを実行に移すには「大きな堀」がある。胸の内で怒鳴りつけることと、実際にそういうことをするのは、決して単なる延長上にはないのである。

そう考えると、范の行為は過失なのか、故意なのか、いよいよ判断をつけられなくなってくる。范自身が過失か故意かわからない、と証言する。そうして、その言葉には嘘はないだろうと思われるのだ。

動機、というのは、いったいどういうことなのだろう。
わたしたちの感情は、まさにこの范のように、常に揺れ動いているのではあるまいか。
自分の感情に正直であろうとすればするほど、自分自身にもわからなくなっていく。
むしろ、動機というのは、わたしたちが自分の行動を、まず自分自身に納得させようとする「物語」であると考えた方がよさそうだ。

この「動機」の話は明日ももう少し。

(この項つづく)