陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サマセット・モーム 「出張駐在官事務所」 その12.

2008-03-07 22:35:36 | 翻訳
その12.

 なんという愚かなやつだ! 連中を傷つけて無事でいられると思っているなんて、マレー人のことをそこまでわかってないのか。まあ、背中をクリース(※マレー人の使う波形短刀)でざっくりやられでもしたら、いい報いだがな。クリース……。ミスター・ウォーバートンは急に心臓が止まりそうになった。ただ事態を放置しておきさえすれば、いつかそのうちクーパーを厄介払いできることになるかもしれない。不意に「巧妙なる無活動」(※「その機構に忠実であろうと思えば、下院というものは賢明かつ巧妙なる無活動によって安泰となる」という歴史家・政治家のジェイムズ・マッキントッシュ卿の言葉による)というせりふが胸をよぎり、かすかな笑みが浮かんだ。自分の憎んでいるあの男が、うつぶせになってジャングルの小道に倒れており、背中にはナイフが突き刺さっている、その光景が目に浮かぶようで、動悸が少し速くなってきた。卑劣で弱い者いじめするようなやつには、相応の最期ではないか。ミスター・ウォーバートンは溜息をついた。警告を与えていくまい。義務は果たして当然なのだ。彼はクーパーに、すぐに「砦」に来られたし、と、短い改まった手紙を書いた。

 十分後、クーパーは目の前に現れた。ミスター・ウォーバートンがあやうく殴りかかりそうになった日から、ふたりは一言も言葉を交わしていなかった。このときも、椅子を勧めることはしなかった。

「何かご用ですか」クーパーが尋ねた。

 だらしのない、清潔にはほど遠い格好である。顔にも手にも小さな赤い湿疹が一面にできているのは、蚊に食われたあとを血が出るまでかきこわしてしまったらしい。長い痩せた顔は、ふくれっつらをしている。

「君はまた召使いたちともめ事を起こしたと聞いている。私のボーイ長の甥のアバスは、三ヶ月も給料をもらってないと文句を言っているぞ。あまりに身勝手な話じゃないか。彼は辞めたがっているが、そう言われても仕方がなくはないか。君は給料を払わなくてはならんよ」

「アバスに出ていかせるわけにはいきません。勝手なまねをしないよう、抵当として給料を差し押さえてるんです」

「君はマレー人の性質を知らんね。マレー人というのは傷つきやすく、侮辱されることに大変敏感なんだ。感情的だし復讐心も並はずれている。これも私の義務だから、君に警告しておこう。ボーイをそんなふうに扱っていると、取り返しがつかないほどの危険を招く羽目になるぞ」

 クーパーは馬鹿にしたようにクックッと笑った。

「やつがどうすると言うんです?」

「君は殺されるだろう」

「気になりますか」

「私としてはいっこうにかまわんよ」ミスター・ウォーバートンはかすかに笑った。「そんなことが起こったところで、せいぜい、ちょっと辛抱しさえすればいいのだから。だがな、上官としての義務がある。必要な警告は与えたからな」

「おれがあんな黒んぼなんかを怖がるとでも思うんですか」

「そんなことは私には何の関心もないことだ」

「じゃあ、これだけ言っておきましょう。自分の始末ぐらい自分でできます。アバスってボーイは、薄汚い盗人野郎なんだ。こっそり何かしでかそうもんなら、首根っこをへし折ってやる」

「私の話はこれだけだ」ミスター・ウォーバートンは言った。「ごきげんよう」

 ミスター・ウォーバートンは、もう行ってよろしい、というしるしに、軽くうなずいてみせた。クーパーの頬はサッと赤くなり、一瞬、何を言えばよいのか、あるいは、何をしたらよいのか、わからなくなったようだったが、すぐに踵を返して、あやうく転びそうになりながら部屋を出ていった。ミスター・ウォーバートンは冷たく笑いながらその様子を見ていた。ともあれ、やるべきことはやったのだ。だが、もし彼が、押し黙ったまま悄然とバンガローに戻ったクーパーが、そのままベッドに倒れ込み、せつない孤独感に打ちひしがれて、急に自分を抑えきれなくなってしまったのを知ったら、どう思っただろう。胸を引き裂くような痛々しい嗚咽が洩れ、やせた頬を大粒の涙が転がり落ちた、と知ったなら。

 こののち、ミスター・ウォーバートンがクーパーに会うことはほとんどなく、まして口を利くことなど絶えてなかった。毎朝タイムズを読み、支局で仕事をし、散歩に出かけ、正装して夕食を取り、食事をすませると、河辺に坐って両切り葉巻をくゆらせる。偶然、クーパーに出くわすようなことがあっても、素知らぬ顔をした。お互い、この身近な相手を意識しないではいられないのに、あたかも存在しないかのように振る舞う。時間が経過しても、双方の敵意が和らぐことはなかった。互いに行動を監視して、相手が何をしているか、ちゃんと知っていた。ミスター・ウォーバートンは若いころは熱心に狩りに出かけたが、年齢と共にジャングルの野生の生き物を殺すことに対する嫌悪の気持ちが増してきた。だが日曜や祝日になると、クーパーは銃をかついで出ていった。獲物をしとめると、ミスター・ウォーバートンに対して、勝ち誇ったような気分になる。し損じれば、ミスター・ウォーバートンが、肩をすくめてほくそえんだ。事務員風情がスポーツマンとな!

クリスマスはふたりとも最悪だった。それぞれ、ひとりきり、自分の住居で夕食を取り、ことさらに酒を過ごした。三百キロ界隈で白人といえばふたりきり、大きな声を出せば届く距離に住んでいたというのに。新年になってまもなく、クーパーは熱を出して寝込み、ミスター・ウォーバートンが彼の姿をふたたび見かけたときには、クーパーがひどく痩せてしまっているのに驚いた。具合が悪く疲れ切っているようだ。孤独感が、そもそもその必要もない孤独だったがゆえに、不自然でもあり、彼の神経を蝕み始めていたのだ。ミスター・ウォーバートンにとっても同じで、夜、眠れないことも多かった。横になったまま物思いにふけってしまう。クーパーの飲酒量は増え、限界が来るのも時間の問題だった。だが、現地人に対する扱いは、上司の叱責を招くようなことはなにひとつすることがないよう、気をつけるようになった。

ふたりは静かで凄惨な闘いを続けていたのだ。苦しみに耐え抜けるかどうかのテストだった。数ヶ月が過ぎだが、どちらも態度が軟化しそうな気配がない。常世の闇の世界に住む人のように、決してやってくることのない夜明けを思うと、魂は打ちひしがれた。ふたりの生活は、陰気でおぞましく単調な憎悪に彩られたまま、永久に続いていくように思われた。

(この項つづく)