陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サマセット・モーム 「出張駐在官事務所」 その9.

2008-03-04 21:57:27 | 翻訳
その9.

 ミスター・ウォーバートンは怒りに震えながら、新聞をつくづくと眺めた。彼の人生最大の喜びが、無神経でがさつな手によってめちゃくちゃにされてしまったのだ。へんぴなところに住む多くの人々が、郵便が届くや、待ちきれずに封を切るのはまず新聞で、それも日付の一番新しいものを手にとって、本国の最新のニュースにまず目を通そうとするのが普通だ。だが、ミスター・ウォーバートンはそうではなかった。新聞販売店に、帯封の表にひとつずつ日付を入れてから発送するよう申し渡していたのだ。その大きな束が届くと、ミスター・ウォーバートンは日付を調べて青鉛筆で番号を打つ。ボーイ長がそれを毎朝、ヴェランダで取る朝食のテーブルに、早朝に飲む一杯のお茶と一緒に置いておく。そうしてお茶をすすりながら封を切り、朝刊を広げるのが、ミスター・ウォーバートンにとって、ことのほかうれしいひとときだったのである。一時、母国にいるような幻想にひたることができたのだ。毎週月曜日の朝は、六週間前の月曜日のタイムズを読み、それが週日続く。日曜日はオブザーバー紙を読んだ。ちょうど、ディナーのときに正装する習慣と同じで、文明社会と彼を結ぶ絆なのだった。たとえどれほど血を騒がせるようなニュースがあったとしても、誘惑に屈して、決められた日にちの前に開けてみるようなことは、彼のプライドが許さなかった。戦争中は落ち着かない気持ちは耐えがたいほどで、突撃戦が開始されたある日などは、居ても立ってもいられないほどの苦悶にさいなまれたのだが、その新聞はというと、自分が後日開くという目的のためだけに取ってあり、棚の上で待ちかまえているのだ。このときが科せられた最大の試練だったのだが、彼は見事に乗り越えたのである。それをあの不器用な馬鹿者が、きちんと折りたたんである封を、どこかのあばずれが鼻持ちならない亭主を殺したとかいうことが知りたいがために、びりびりに破ってしまったのだ。

 ミスター・ウォーバートンはボーイに命じて封を取ってこさせた。できるだけきちんと新聞をたたみ直すと、封をかけ、番号をふっていった。だがこれは、気の滅入る作業だった。

「許さん」彼は言った。「絶対に、許さん」

 もちろんボーイは彼の視察にも同行した。ミスター・ウォーバートンは決して彼抜きで遠出することはなかった。というのもこのボーイは主人の好みを熟知しており、しかもミスター・ウォーバートンというのは、たとえジャングルに赴くときでも、心の慰めになるものを決して省略することはなかったからである。だが、主人と一緒に戻ってきてからそれまでの間に、召使い部屋でうわさ話を仕入れていた。クーパーがボーイたちともめ事を起こしたのだという。あの若いアバスだけを残して、出ていってしまった。アバスももちろんそこを出たくてならないのだが、なにしろ叔父が、弁務官の命を受けて自分をそこに行かせたものだから、叔父の許可もなく、そこを出るわけにはいかないでいるらしい。

「ですから私はやつに、よくやった、と言ってやりました。旦那様」ボーイは言った。「ですがやつもかわいそうではあるんです。あまりちゃんとしたお屋敷ではないから、他の者と一緒に辞めてしまってもかまわないかどうか、教えてほしいと申しております」

「そういうわけにはいかん。主人というものには召使いが必要なのだ。代わりの者はいるのかね?」

「おりません、旦那様。だれも行きたがっておりません」

 ミスター・ウォーバートンは眉をひそめた。クーパーはまったくもって傲慢な馬鹿者だが、公務に就いている以上、それ相応の召使いをあてがっておく必要がある。家内をうまく整えておけないなどとは、たしなみに欠けるにもほどがある。

「逃げ出したボーイたちはどこにいる?」

「村に帰っております、旦那様」

「今夜連中のところに出向いて、私が、明日の朝までにクーパー旦那様のところへ戻るように言っていた、と伝えてくれないか」

「旦那様、もう戻りたくないと言っておりますが」

「わたしが命令しても?」

 ボーイはミスター・ウォーバートンに仕えて十五年になるので、主人のあらゆる語調を知悉していた。主人を怖れていたわけではなかったし、苦楽を共にしてきた。かつてジャングルのなかで、弁務官に命を助けられたこともあるし、別のときには急流で舟が転覆し、彼がいなければ弁務官は溺れていたようなこともあった。だが、弁務官の言うことは、一も二もなく従わなければならないときがあることも知っていた。「村に行きます」彼はそう言った。

 ミスター・ウォーバートンは、部下が機会さえあれば何を置いても、自分の非礼を侘びるだろうと考えていたのだが、クーパーの方は育ちの悪い者によくあるように、自分の非を認めることができないのだった。翌朝支局で顔を合わせても、クーパーは昨日のことなど素知らぬ顔をしている。ミスター・ウォーバートンが三週間もよそに行っていたために、話し合いはかなり長引いた。話が終わって、ミスター・ウォーバートンは、下がるように言った。「もうこれ以上はなさそうだ。ありがとう」

 きびすを返して退出しようとするクーパーを、ミスター・ウォーバートンは呼び止めた。「君はボーイたちと問題を起こしたように聞いたのだが」

 クーパーはとげのある笑い声をあげた。「連中はぼくを脅迫しようとしたんです。生意気なんだ、逃げてったんです、能なしのアバスの野郎だけ残して――やつは金になるところがわかってるんだ――だけどぼくは平気で坐ってましたよ。そしたらおとなしく帰ってきた」

「それはどういうことかね?」

「今朝になって、残らず仕事に戻ってきたんです、中国人のコックやら何やら。けろっとした顔で家にいる。なんだか自分たちのものだとでも言いたげな顔をしてる。ともかく連中も、ぼくが見かけほどバカじゃないと判断したから、戻ってきたんでしょうけどね」

「とんでもないよ。彼らは私がじきじきに言ってやったから帰ってきたのだ」

 クーパーの頬はかすかに赤らんだ。

「ぼくのプライヴェートには口を出さないでいただけるとありがたいんですが」

「これは君のプライヴェートに関することではない。召使いに逃げられるようなことがあれば、物笑いになるのは君だよ。君が自分一人で馬鹿をみるのはまったく勝手だが、世間から馬鹿にされては、私が困るのだ。君の家にしかるべき召使いもいないとなど、不体裁きわまりない。ボーイたちが出ていったと聞いたので、すぐに、朝までには戻ってくるように伝えたのだ。そういうことだよ」

 ミスター・ウォーバートンは、もう話は終わった、という意味を込めてうなずいた。クーパーはそれを無視した。

「じゃあぼくがどうしたか教えてあげましょう。ぼくはね、連中を集めて、全員クビにしてやったんです。十分間やるから、とっとと出ていけってね」

 ミスター・ウォーバートンは肩をすくめた。

「君は代わりを見つけられるとでも思ってるのかね?」

「事務官に探すように言っておきました」

 ミスター・ウォーバートンはしばらく考えていた。

「君のやったことは実に馬鹿げとるよ。良い主人の下に良い召使いが育つ、ということを、これからはしっかり胸に刻んでおいたほうがいい」

「ぼくが習っておかなきゃならないことはまだあるんですか?」

「礼儀は教えてあげたほうが良さそうだが、これは難行苦行だし、そんな無駄なことをする時間の余裕はわたしにはない。ボーイの方は私が見つけてあげよう」

「わざわざぼくのために、やっかいなことをしていただかなくて結構です。ぼくだって自分で見つけられますよ」

 ミスター・ウォーバートンは意地の悪い笑みを浮かべた。どうやら私がクーパーを嫌いなのと同じくらい、クーパーも私のことが嫌いらしい。確かに、嫌悪している相手から、むりやり音を着せられるほど悔しいこともあるまい。

「これだけは言わせてくれたまえ。君がイギリス人の執事がほしい、フランス人のコックがほしい、と言ったって無理なのと同じぐらい、マレー人であろうが、中国人であろうが、ここではもはや君が召使いを見つけられるチャンスはないだろう。私が命令するのでもないかぎりは、君のところへ行こうと言う者などいないよ。私にそうしてほしいかね?」

「結構です」

「じゃ、好きなようにするんだね。失礼」

(この項つづく)