陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

青鬼の深謀遠慮

2008-03-12 22:36:58 | weblog
ところでわたしは昔から「泣いた赤鬼」がどうも好きになれないのだが、「泣いた赤鬼」の話はみなさん、ご存じですね?

やはりわたしが好きになれないのは、人間を前にひと芝居を打つという部分である。いくら「人間と友だちになるため」という目的があるにせよ、友だちになりたい相手をだますことには変わりはない。目的は手段を浄化などしないのである。人をだますことを奨励するような童話は、少なくとも子供に聞かせるにはあまり好ましくはないだろう。

だが、見方を変えれば、これは実に深謀遠慮の物語、といっていえないこともないだろう。

まず、わたしがよくわからないのは、人間と友だちになりたいという赤鬼の心情である。赤鬼にはすでに青鬼という心優しい友だちがいるのである。彼が何で人間と友だちになりたいと思ったのかよくわからないが、少なくともそれを聞いた青鬼は、寂しく感じたにちがいない。自分では十分ではないのか、と。

彼が後に去っていく伏線は、この段階ですでに青鬼の内には成立していたにちがいない。おそらく、青鬼は、赤鬼は自分より人間を求めているのだ、と判断したのである。

だが、どう見てもあまり物事を深く考えていそうにはない赤鬼はともかく、いろいろ思いをめぐらせる青鬼は、赤鬼と人間がいつまでもうまくいくはずがない、ということまで見越していたのかもしれない。
たとえ赤鬼と青鬼の芝居で、「ああ、この赤鬼さんは人間の味方なんだ」と思ったとしても、それがどれほど長続きするかどうか疑問である。
 日本の中世社会において、人間とはどのようなものと考えられていたかといえば、そこにはいろいろの定義が存在したことはいうまでもないが、その一つの有力な定義に、人間の形をしたものが人間であるという把握のしかたが存在したことは間違いない。
勝俣鎮夫『一揆』(岩波新書)

とあるように、「人間の形をしたものが人間である」という把握の仕方を人々がしていたとしたら、逆に「人間の形をしていないものは人間ではない」という認識もまた根強かったにちがいない。鬼なのである。一目で人間とはちがう。天変地異でもあれば、かならずや赤鬼に結びつけられるにちがいない。「我々とはちがう者」という目で見続けられるのである。赤鬼がまた排除され「人間と友だち」ではなくなる日が、かならず、近い将来めぐってくるにちがいない。

深謀遠慮の青鬼のことだから、ここまで見越していたと考えても不思議はない。
人間からふたたび排除された赤鬼は、かつてとはくらべものにならない寂しさの内にいるはずである、そこに青鬼が戻ってくる。もはや赤鬼は、二度と人間とは友だちになろうとは思わず、青鬼と末永く友情を築いていこうと考えるに違いない……。

青鬼は、実はそこまで考えて、人間の前で一芝居打った……というのはどうだろう。
まあ、これにしたって、あまり子供に聞かせたくなるような話ではないのだが。


(※"What's new" も書きました。またお暇なときにでものぞいてみてください。
最後の『親友交歓』についての部分はもう少し煮詰めた方がいいんですが、またそのうち手を入れるかもしれません。そのときはまたお知らせします。)