その5.あのころは悪くなかったのに……。
『時計仕掛けのオレンジ』のような悪いやつの物語では、「ほんとうの悪」ははっきりしている。わたしたちは語り手である「悪いやつ」たちの話に、ときに反発しながら、それでも耳を傾けるうち、自分がいままで「悪い」と思い込んでいたものよりもさらに悪いものがあることに気がつく。わたしたちが善悪の判断のよりどころにしている社会規範は、ほんとうに正しいんだろうか、疑ってかかることも必要なのではないか、と思うようになっていく。つまり、こういう「悪いやつの物語」は、たとえ通常の善悪とは逆転しているように見えても、実は善悪の概念は、はっきりしているのである。
そういう世界で悪いのは、人々を意のままに操ろうとする独裁者であったり、私腹を肥やす独占企業家だったり、さまざまではあるのだが、主人公の「悪いやつ」は、たったひとりでこの世界と社会規範に反逆を企て、しぶとく生き延びる。
読み終わったあとのわたしたちの世界を見る目は、少し変わっている。
だが、この「良いこと-悪いこと」というのは、ときに変わっていったりもする。
ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』には続編があるのをご存じだろうか。
『あしながおじさん』の正編は女子大を舞台にしている。そこで孤児院出身のジュディは、オールド・ニューヨークの血筋を引くジュリア(上流階級の象徴)、ニューイングランドの製造業者の娘であるサリー(中流階級の象徴)とルームメイトになる。そこで、自分を大学にあげてくれた「あしながおじさん」(実はジュリアの叔父さんにあたる)人物とジュディは結婚することになるのだが、続編では、サリー・マクブライトが主人公となって、孤児院の経営に当たるのである。
続編の原題は "Dear Enemy" 、これも正編と同じく書簡集の体裁をとっている。その手紙の宛先は、ジュディ、もうひとり、「親愛なる敵さん」という書き出しで、孤児たちの診察にあたる小児科医。孤児たちの面倒をみながら、孤児院経営にまつわるさまざまな難題にぶちあたるサリーの日々が手紙を通して浮かび上がる。
ところがこの『続 あしながおじさん』は正編にくらべて圧倒的に無名である(続編があるのを知らなかった、という人もいるでしょう?)。
それは、この作品の中には優生学的な内容があるからなのだ。
実は、今日、この本を図書館で借りてきたのだけれど、その箇所が見つからないのだ。「完訳版」とありながら、子供向けの本にはその箇所がどうやら削除されているらしい。
今日では厳しい批判にさらされた優生学だが、この作品が発表された1915年当時、アメリカでは優生学は広く受け入れられ、実際にいくつかの州では断種法が成立している。作者のジーン・ウェブスターは、当時、言ってみれば流行だった思想を、そのまま作品に取り入れたにすぎない。それでも、今日から見れば、「アルコール中毒者や犯罪者が大勢生まれた家系」という見方は受け入れがたいものである。
あるいは戦争をめぐる記述などでもそのようなことがあるだろう。
たとえば太宰治の「作家の手帳」という小文にはこんな箇所がある。
その時代の見方、考え方がある。わたしたちがいまの基準で「良い-悪い」という判断をしているものも、未来の時点から見れば「あの時代はああいう考え方をしていたのだ」という評価をされるものもあるだろう。
こういうものをなかったことにしてしまうのか。
こういう部分はこういう部分として、「良い-悪い」ではなく、そういう見方があったこと、そうしてまたどのような経緯でそういう見方がされなくなったかは見ていかなければならない。
子供向けの『続あしながおじさん』でその箇所を削除するのは仕方がない……ことなのかなあ。やはり子供向けであっても、その考え方は、遺伝子も発見されていない頃の見方で、という注釈付きで、きちんと書いておいた方がいいのではないのか、と思うのだが……。
(この項つづく)
『時計仕掛けのオレンジ』のような悪いやつの物語では、「ほんとうの悪」ははっきりしている。わたしたちは語り手である「悪いやつ」たちの話に、ときに反発しながら、それでも耳を傾けるうち、自分がいままで「悪い」と思い込んでいたものよりもさらに悪いものがあることに気がつく。わたしたちが善悪の判断のよりどころにしている社会規範は、ほんとうに正しいんだろうか、疑ってかかることも必要なのではないか、と思うようになっていく。つまり、こういう「悪いやつの物語」は、たとえ通常の善悪とは逆転しているように見えても、実は善悪の概念は、はっきりしているのである。
そういう世界で悪いのは、人々を意のままに操ろうとする独裁者であったり、私腹を肥やす独占企業家だったり、さまざまではあるのだが、主人公の「悪いやつ」は、たったひとりでこの世界と社会規範に反逆を企て、しぶとく生き延びる。
読み終わったあとのわたしたちの世界を見る目は、少し変わっている。
だが、この「良いこと-悪いこと」というのは、ときに変わっていったりもする。
ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』には続編があるのをご存じだろうか。
『あしながおじさん』の正編は女子大を舞台にしている。そこで孤児院出身のジュディは、オールド・ニューヨークの血筋を引くジュリア(上流階級の象徴)、ニューイングランドの製造業者の娘であるサリー(中流階級の象徴)とルームメイトになる。そこで、自分を大学にあげてくれた「あしながおじさん」(実はジュリアの叔父さんにあたる)人物とジュディは結婚することになるのだが、続編では、サリー・マクブライトが主人公となって、孤児院の経営に当たるのである。
続編の原題は "Dear Enemy" 、これも正編と同じく書簡集の体裁をとっている。その手紙の宛先は、ジュディ、もうひとり、「親愛なる敵さん」という書き出しで、孤児たちの診察にあたる小児科医。孤児たちの面倒をみながら、孤児院経営にまつわるさまざまな難題にぶちあたるサリーの日々が手紙を通して浮かび上がる。
ところがこの『続 あしながおじさん』は正編にくらべて圧倒的に無名である(続編があるのを知らなかった、という人もいるでしょう?)。
それは、この作品の中には優生学的な内容があるからなのだ。
実は、今日、この本を図書館で借りてきたのだけれど、その箇所が見つからないのだ。「完訳版」とありながら、子供向けの本にはその箇所がどうやら削除されているらしい。
今日では厳しい批判にさらされた優生学だが、この作品が発表された1915年当時、アメリカでは優生学は広く受け入れられ、実際にいくつかの州では断種法が成立している。作者のジーン・ウェブスターは、当時、言ってみれば流行だった思想を、そのまま作品に取り入れたにすぎない。それでも、今日から見れば、「アルコール中毒者や犯罪者が大勢生まれた家系」という見方は受け入れがたいものである。
あるいは戦争をめぐる記述などでもそのようなことがあるだろう。
たとえば太宰治の「作家の手帳」という小文にはこんな箇所がある。
アメリカの女たちは、決してこんなに美しくのんきにしてはいないと思う。そろそろ、ぶつぶつ不平を言い出していると思う。鼠を見てさえ気絶の真似をする気障な女たちだ。女が、戦争の勝敗の鍵を握っている、というのは言い過ぎであろうか。私は戦争の将来に就いて楽観している。「作家の手帳」
その時代の見方、考え方がある。わたしたちがいまの基準で「良い-悪い」という判断をしているものも、未来の時点から見れば「あの時代はああいう考え方をしていたのだ」という評価をされるものもあるだろう。
こういうものをなかったことにしてしまうのか。
こういう部分はこういう部分として、「良い-悪い」ではなく、そういう見方があったこと、そうしてまたどのような経緯でそういう見方がされなくなったかは見ていかなければならない。
子供向けの『続あしながおじさん』でその箇所を削除するのは仕方がない……ことなのかなあ。やはり子供向けであっても、その考え方は、遺伝子も発見されていない頃の見方で、という注釈付きで、きちんと書いておいた方がいいのではないのか、と思うのだが……。
(この項つづく)