陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

東インド会社に就職するには

2008-03-13 22:32:36 | weblog
サマセット・モームの "The Outstation" の訳語を探すために、いくつかイギリスの植民地統治についての本を読んだのだが、おもしろいことがわかった。まあ、こんな話は興味がない、という人は、スルーしてくださいな。

イギリス東インド会社というのは、確かに会社なのである。正式名称は "Honourable East India Company" 「誉れ高き東インド会社」というゴージャスな名前である。ただこの "Honourable" は植民地などの行政官に対してもつけられる敬称なので、実際には特に意味はない。

この東インド会社というのは、ロンドンの「冒険商人」の組織する純民間会社である。ところがこの民間会社、インドにあっては政府として機能するのである。
東インド会社は商社でありながらインドに領地を得たことによって、領地の統治者=政府となった。われわれにはなかなか理解しにくいが、約二〇〇〇人の株主がいて、その株式が証券取引所で毎日取り引きされる会社が、イギリス議会の監督の下に一八五八年までインドを支配していたのである。その政府は税金を徴収し、戦争をし、藩王(※インド各地の小王国の君主)、近隣諸国とさまざまな外交交渉をし、条約を締結した。
(浜渦哲雄『英国紳士の植民地統治 インド高等文官への道』中公新書)

もちろん最初から一会社がインドを支配してやろうというもくろみがあったわけではないらしい。同じく浜渦の『大英帝国インド総督列伝』(中央公論新社)によると、、ポルトガルやオランダ、フランスの東インド会社と抗争を重ねたり、地域の支配者同士の戦争に介入したりしているうちに領土の保有者となっていったのだという。

もちろんイギリス本国では一会社によるインド統治に反対する意見は絶えず出され続けた。だがが、当時の東インド会社の書記官=ライター(海外勤務社員)になることは国会議員になるのと同じくらいの値打ちがあったために、直接統治にすると、与党が人事権を悪用し、政治的腐敗を招く怖れがあった。その結果、政治とは直接関係のない株主が運営する会社にインドを統治させ、政府が会社に規制を加えるという形態ができあがったのだという。「会社の幹部社員であったJ.S.ミルは会社がインドを統治する方が政府による統治よりも安上がりである、と議会で証言している」とあるが、それにしても一企業が一国の徴税権や司法権を握るというのもすごい話である。

モームの短編にも出てくるが、確かに植民地というのは、本国で行く当てを失ったイギリス貴族を没落から救う職を用意してくれる場所だったらしい。あなたがイギリスの貧乏貴族の三、四男で、なんとか起死回生をかけて浮かび上がるチャンスをねらうなら、インドの高等文官、あるいは軍の将校は、願ってもないポジションだったといえるだろう。

とくに初期の頃は社員が一方で自分で商売をすることも認められており、賄賂をとる機会も少なくなかったらしい。イギリス政府はこの会社の統治機構を確立・整備するために、インド総督を任命する。この総督の俸給は、もちろん東インド会社が払うのである。こうやって総督が任命され、商務と公務は分化され、一方で腐敗した行政の浄化が試みられた。この「腐敗した行政の浄化」というのは、歴代総督の重要な課題であったらしく、『総督列伝』のなかでも何度も見かける。ということは、やはりなかなかうまくいかなかったのだろう。

事実、インド成金は羨望の的だったが、インドで十年以上勤務し、なおかつ「成金」として帰国することは容易なことではなかったらしい。同書によると、一七〇〇年から七五年に採用された社員六四五人のうち、五七%にあたる三六八人がインドで死亡している。「帰国途上での志望者、精神錯乱者などをいれると損耗率はもっと高くなるだろう」と恐ろしいことがサラリと書いてあって、モームの短編を改めて思い出すのである。

当初はこの社員、理事の推薦によって採用されていたらしい。だがやはりその採用権は理事の「役得」となり、公然と売買されるようになっていく。やがて会社の業務が多様化・複雑化するにつれて、社員を養成する機関が求められるようになった。当時、その要請に応える大学がなかったために、東インド会社は、自前の社員養成大学を、一八〇二年にまずカルカッタに設立する。これはイギリスから送られてきた研修生を三年間教育する機関だったのだが、これはやがて語学学校に格下げされ、理事会が学生を推薦し、直接監督できるよう、イギリス本国に大学を設立することになる。一八〇六年にこの大学が設立されてからは、東インド会社に就職するためには、この大学に入学しなければならないことになったのである。

学生は理事の推薦を受けた者しか入学できなかった。そのため縁故関係が幅をきかし、二代、三代に渡ってインドに勤務するインド関係者が約半分を占めた。それ以外は貴族・地主(の二、三男)が約四分の一、聖職者が十分の一、といった具合である。

この大学の授業料は、一八五〇年代の普通の男子の年収が六〇ポンド以下だった時代に、年一〇〇ポンド、一方、教授の年俸は五〇〇ポンドだった。あの『人口論』を表したマルサスもこの「イースト・インディア・カレッジ」で政治経済学の教鞭を執っている。ともかく同じ大学で机を並べて勉強していた者が、卒業後、ごっそりインドに行って、高等文官になったのである。

だがこのイースト・インディア・カレッジの閉鎖性がやがて問題になり、一八五三年からは公開試験が導入されるようになる。名門パブリックスクールや、大学の卒業生を対象とした公開試験によって、いっそう優秀な人材を求めたのである。

ところがこの公開試験、支配層から見て思いもかけない結果となった。中流下層階級の子弟が一〇%強を占めたのである。
試験科目は英語や古典、数学、英国史が中心で、一週間にわたる筆記試験は、細かい知識を要求するために、「ガリ勉」が高得点を修めた。その結果、貴族から見れば「泥の中からのはい上がり者」が公開試験に合格するようになったのである。

こうして、この公開試験に合格するための予備校まででき、受験戦争はいっそうの加熱を見せるようになる。

やがてインドの統治は東インド会社からイギリス政府に正式に移行してしまうのだが、この公開試験は、インドがイギリスから独立するまで続くのだが、インドにおける民族運動のたかまりとイギリスのインド統治の紆余曲折を受け、このインド高等文官公開試験もさまざまな変化の波にさらされることになるのだが、この話はこのくらいにしておこう。