陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サマセット・モーム 「出張駐在官事務所」 その10.

2008-03-05 21:45:52 | 翻訳
その10.

 ミスター・ウォーバートンは事態の成り行きを眺めながら、意地の悪いおもしろがり方をしていた。クーパーの事務官は、マレー人もダヤク人も中国人も、こんな主人の家に仕えようという気にさせることができなかった。アバスはいまだに忠実に仕えていたが、土地の料理しかできないために、味覚のがさつなクーパーも、来る日も来る日も米が続くおかげで、吐き気を催すほどになってしまっていた。水汲みをする人間もいないのだが、ひどく暑いために日に何度か風呂に入らないではいられない。アバスを口汚くののしっても、ふてくされたまま拒否するだけで、自分で決めたこと以外は、何一つやろうとしなかった。ここを出ていかないのも、弁務官の命令のためだと思うと、悔しい思いは募った。この状態が二週間あまりも続いたある朝、クーパーが目を覚ますと、以前叩きだした召使いたちが、ひとり残らず戻ってきている。はらわたが煮えくりかえる思いがしたが、多少の分別は今回のことで身につけたために、一言も発することなく、召使いたちをそのままにしておいた。屈辱をぐっと呑みこむことはしたが、ミスター・ウォーバートンの性癖に対して抱いていた耐えがたいほどの嫌悪感は、陰鬱な憎悪へと変わっていったのである。弁務官の悪意に満ちたやり方のおかげで、原住民みなにバカ扱いされて笑われたのだ、と。

 ふたりはいまやまったく往き来をやめてしまった。個人的な好悪の感情を超えて、六時になると支局にいる白人はかならず一杯を共にするという伝統的な習慣も、彼らは破ったのである。お互いがそれぞれの家で過ごし、相手など存在しないかのようにふるまった。いまではクーパーも仕事に適応してきたので、事務所で相手が必要となるようなこともほとんどなかった。ミスター・ウォーバートンは、部下に用があるときは、当直に伝言を持たせたし、指示は公式文書で送ることにしていた。始終、相手の姿は目に入るのはどうしようもなかったが、一週間に五つの単語を交わせば良い方だった。相手の姿が視野を横切ることは避けられない、そのことがいっそう互いの神経に障ったのである。相手への反感は片時も胸を去らず、ミスター・ウォーバートンは日課である散歩をしながら、憎んでもなお余りある部下のこと以外は何も頭に浮かばないのだった。

 おぞましいことに、互いを仇敵として憎みながら対峙するというこの状態は、まず確実に、ミスター・ウォーバートンの賜暇のときまで、ということはおそらくは三年間は続くのである。彼への不満を本省に告知するような口実もなかった。クーパーの仕事ぶりは実際のところ大変に良好で、しかもこの時期、なかなか人手も得られないのである。いかにも、不平不満がそれとなく耳に入ることもあったし、現地人がクーパーのことをひどいと感じている気配もうかがえた。確かに彼らの間には、クーパーに対する不満が蔓延してはいた。だが、ミスター・ウォーバートンが個々の事例を調べてみると、せいぜい言えることは、クーパーが、穏やかに接しても良い場面で厳しかったとか、自分であればもっと同情を示したであろう場面で薄情だった、というぐらいのことでしかない。叱責に値するようなことは何一つしていないのだった。だが、ミスター・ウォーバートンは監視を続けた。ときに憎悪というものによって、人の目はよく見えるようになることもあるのだ。クーパーが現地人を容赦なく使いながら、それでいて法律を逸脱することがないのは、自分の上司を苛立たせるためではあるまいか、という疑念さえ生まれてきたのだった。おそらくは、いつかやり過ぎるにちがいない。ミスター・ウォーバートンは誰よりも、途絶えることのない猛暑が人の気分をどれほどむしゃくしゃさせるものか、眠れない夜を明かしたあとは、自制心を保つのがどれほどむずかしいかをよく知っていた。彼はひとり、ほくそ笑んだ。遅かれ早かれクーパーは自分からこちらの手に落ちる。

 ついにその機会が到来して、ミスター・ウォーバートンは高らかに笑うことになった。囚人の監督はクーパーの任務だった。囚人たちは道路の舗装や小屋の建設、必要なときは帆掛け舟を漕いで河を上り下りし、町を掃除し、そのほかにも休むことなくさまざまな使役を科せられていた。態度が良ければ家のボーイとして雇われることもある。この囚人たちをクーパーは酷使したのである。彼らが働いてさえいれば、気分が良かった。あれこれとやらせる仕事を工夫するのが楽しかったのだ。だが、すぐに自分たちが用もないことをやらされていることに気がついた囚人たちは、ろくに働かなくなったのである。クーパーは労働時間を延長する罰を与えた。だがこれは規則違反で、このことがミスター・ウォーバートンの知るところとなると、この件を部下にまわすことなく、指示を与えて従来の時間に戻したのである。クーパーは巡回に出ていると、囚人たちが刑務所にぶらぶら歩きながら戻っていくのを見かけて驚いた。暗くなるまで仕事をやめては駄目だと言っておいたではないか。担当の看守に、どうして連中は仕事をやめたのだ、と問いただすと、これも弁務官の命令だという。

 怒りで蒼白になったクーパーは、「砦」へつかつかと入っていった。ミスター・ウォーバートンは、しみひとつない白いキャンバス地の服に、小ぎれいなヘルメットをかぶり、ステッキを手にして、犬を従え、午後の散歩に出かけようとしていたところだった。クーパーが出かけたのを見て、河沿いの道を選んだことを確かめていたのだ。クーパーは跳ぶように階段を駆け上がり、まっすぐ彼に向かっていった。

「なんで命令を取り消すようなことをしたんだ。囚人は六時まで働かなきゃならんのに」怒りに我を忘れて怒鳴った。

 ミスター・ウォーバートンは冷たい青い目を丸くして、いかにも驚いたような表情を装った。

「君、気は確かかね? 上官に向かって口の利き方も知らないのか?」

「いい加減にしろよ。囚人はおれがカタをつける。あんたには口をはさむような権利はないはずだ。あんたはあんたの仕事をすりゃいいんだし、おれの仕事はおれがやる。おれをバカにしていったい何が楽しいんだ。あんたがおれの命令をひっくり返したってことは、ここにいる連中ならみんな知ってるぞ」

 ミスター・ウォーバートンは冷静なまま動じない。

「君にはそんな命令を出したりはできないのだよ。私がそれを取り消したのは、あまりに厳しすぎるし、しかも残酷だからだ。いいかね、私は君を笑い者にしようとなんてちっとも思ったわけじゃない、君が自分を笑い者にしたんだよ」

「あんた、おれがここへ来た最初っから、ずっとおれのことを憎んでたんだろう。あんたはおれがここにいられないように、できるかぎりのことをやってきた。それというのもおれがあんたのご機嫌取りをしなかったからだ。あんたはずっとおれに恨みを持ってただろう。おれがおべんちゃらを言わなかったばっかりに」

 怒りをぶちまけながら、クーパーは徐々に危険な領域に近づいていった。ミスター・ウォーバートンの目が急に冷たさと鋭さを増した。

「君は間違っているよ。確かに私は君が育ちが悪いとは思ったが、君の仕事ぶりにはきわめて満足していたのだ」

「この俗物めが。ほんとにあんたは俗物のくそったれだよ。おれが育ちが悪いと思ったのも、イートン出じゃないからだろう。けっ、K.S.(※クアラ・ソロール)でもどうなるかみんな教えてくれたっけが。知らないだろう、あんた、国中でいい物笑いにされてるんだぜ。ほんと、すんでのところで馬鹿笑いしそうになっちまったよ、あんたお得意の皇太子の話を聞かされたときにはなあ。ははっ、クラブでその話が出たとき、みんなどれだけ笑ったか。ああ、おれは育ちが悪くて結構だよ、あんたみたいな俗物よりよっぽどいい」

 ミスター・ウォーバートンは痛いところを突かれた。

「わたしの部屋からすぐに出ていけ。さもないと殴り倒すぞ」彼は叫んだ。

 相手は一歩踏み出して、顔を間近に寄せた。

「やってみろよ、さあ」クーパーは言った。「ほらよ、殴ってみろよ。もう一回言ってやろうか? 俗物さんよ。この俗物め」

 クーパーはミスター・ウォーバートンより7センチほど背が高く、強靱で、筋肉質の若い男だった。ミスター・ウォーバートンは太り気味の五十四歳である。握り拳を突き出したが、クーパーは腕をつかむとそのまま押し返した。

「バカなことはやめるんだな。覚えとけ、おれは紳士なんかじゃないんだ。自分の手をどう使ったらいいかはよく知ってる」

(この項つづく)