陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サマセット・モーム 「出張駐在官事務所」 その7.

2008-03-02 22:21:16 | 翻訳
その7.

 ミスター・ウォーバートンにしてみれば、せっかくのチャンスを見過ごすことなどできるものではなく、ちょっとしたエピソードを話し始めたのだが、それはどうやらとある伯爵を知っていることを言いたいがためだけのものらしかった。ポートワインは大変口当たりが良かった。一杯干し、二杯干す。そのうちに慎重さをかなぐり捨ててしまった。白人と話すのも数ヶ月ぶりである。彼はいくつも話を始めた。貴族と一緒に過ごしていた自分のことを、これみよがしに語った。その話を聞いていると、ある内閣が成立したのも、施政方針が決定したことも、彼がとある公爵夫人の耳にささやいた助言や、晩餐会の席で彼がぶつけた意見を王室顧問がありがたく受け入れたためのように思えてくるのだった。アスコットやグッドウッドの競馬場、カウズでのヨットレースなど、古き良き時代が彼の内によみがえる。さらにポートワインをもう一杯。ヨークシャーやスコットランドでは盛大なパーティが開かれ、そこに毎年招待されたっけ。

「当時私はフォアマンという男を使っていたんだがね、彼がまた召使いとしてはこれ以上の者はないというほどの男だった。そのフォアマンが暇をとりたいと言ったのはどうしてだと思う? 召使いの部屋では、貴婦人に仕えるメイドや貴族に仕える従僕は、主人の身分に準じて席に着くことになっていることは君も知ってるだろう。フォアマンが言うには、行くパーティ行くパーティ、私がただひとりの平民なもんだから、うんざりだというんだ。つまり、いつもテーブルでは末席があてがわれるんで、料理のおいしいところは全部、やつのところにまわってくる前になくなってしまっている。だから私はその話をヘレフォード公爵にお話ししたんだ。すると、公爵は大笑いされてね。『おやおや、もし私がイギリス国王なら、君の従僕に機会を与えてやるためだけでも、君を子爵にしてやるんだがな』とおっしゃったんだよ。だからわたしはこう申し上げた。『閣下ご自身でお使いになってください。あれほどの従僕を私はこれまで使ったことがございませんから』するとこうだ。『なるほど、ウォーバートン、君がそんなに良いと言うんだったら、私にとっても役に立つにちがいない。寄越してくれたまえ』とな」

 それから、モンテ・カルロでミスター・ウォーバートンとフョードル大公が組になって、ある晩、胴元を破産させたことがあった。マリンエバートでの話もある。マリンエバートで、ミスター・ウォーバートンがバカラをやった相手はエドワード七世だった。

「そのころはまだプリンス・オブ・ウェールズであらせられたんだがな、もちろん。陛下がこうおっしゃったのを私はいまでも覚えているよ。『5を引きでもしたら、君は無一文になってしまうな』そうして、その通りになったのだ。陛下がおっしゃったことのうち、これほどドンピシャリ、その通りになったことは、他にはおありにはならなかっただろうよ。すばらしいお方だった。ヨーロッパでも並ぶ者のないほどの外交家でいらっしゃると、私もいつも言ってきたんだ。だが当時の私は経験もない愚か者でね、陛下のアドバイスを聞く分別がなかった。もし私が仰せの通りにしていたなら、5を引くようなこともなく、そうしたら、いまここにいることもないんだろう」

 クーパーは相手をじっと見つめていた。眼窩の奥にある茶色い目は、厳しく傲慢な色をうかべ、唇は嘲るような笑みが浮かんでいる。クアラ・ソールにいるころから、ミスター・ウォーバートンのことならずいぶん耳にしていた。悪いやつじゃないさ、おまけに担当区域を動かすやり方の正確なこと。だがな、やつの俗物ぶりといったら! 彼のことをみんなは笑ってはいたが、悪意からではなかった。こんなに気前の良い、親切な人物を嫌うことなどできなかったのだ。クーパーはすでにプリンス・オブ・ウェールズとバカラをやった話は耳にしていた。だがクーパーは、ご機嫌をとるつもりなどなかったが、ともかく聞いてやった。最初から弁務官の物言いが気にくわなかったのだ。クーパーはたいそう神経質なところがあったし、ミスター・ウォーバートンの皮肉めかした慇懃な態度には、身もだえせんばかりだった。ミスター・ウォーバートンは、自分が受け入れがたいような受け応えをされでもしたら、意地の悪い沈黙で応じるのが得意だったのだ。クーパーはイギリスに住んだことがほとんどなく、イギリス人が嫌いだった。とりわけパブリック・スクール出身者はごめんこうむりたかった。というのも自分の風上に立たれるのではないかと思っていたのである。人から威張られることを何より嫌っていたクーパーは、代わりに自分から先に威張るふうを装った。そのために、誰もが彼のことを我慢ならぬほどうぬぼれたやつだと思ったのだった。

「まあ、どういう事情があったにせよ、戦争のおかげでひとつだけいいことがありましたね」やがてクーパーは言った。「上流階級の勢力を完膚無きまでにうち砕いたんですからね。ボーア戦争から始まって、1914年の開戦がとどめをさした」

「イギリスの名門も消え去る運命にあるのだ」ミスター・ウォーバートンは悦に入った様子で悲しげな表情を浮かべ、あたかもルイ十五世時代の宮廷を思いだしている亡命貴族を気取るかのようである。「貴族ももはやあの燦然と輝く王宮に暮らすこともなくなるだろうし、あの豪勢な歓待もやがて追憶の内にしか残らない」

「ぼくに言わせればそれも、まったくたいした成果じゃないんですかね」

「おお、悲しきクーパー君、君に“在りし日のギリシャの栄光、在りし日のローマの威風”(※エドガー・アラン・ポーの詩『ヘレンに』)が理解できるかね」

 ミスター・ウォーバートンは芝居がかった仕草をした。しばらくそのまなざしは夢見るように、過去の景色を見ていたのだった。

「ですがね、正直、ぼくらはそんなたわごとにはもううんざりしてるんです。ぼくらに必要なのは、実務家による実務的な政府なんです。ぼくは英領直轄植民地に生まれて、これまでずっと植民地暮らしを続けてきました。貴族なんてどんな値打ちも認めてやしません。イギリスで問題なのは、その俗物根性です。まったく何よりいらつくのは、俗物ですよ」

 俗物! ミスター・ウォーバートンの顔は蒼白になり、目は怒りに燃えた。その言葉こそ、半生を通じて彼につきまとって離れない言葉だった。若い頃、彼が夢中になった社交界のレディたちは、彼が捧げる賞賛を、まったく捨てて省みなかったわけではなかった。それでも貴婦人といえど、ご機嫌麗しくないときもあり、一度ならずミスター・ウォーバートンも面と向かって、そのひどい言葉であざけられたこともある。彼だって知っていた、知らないわけにはいかなかったのだ。自分のことを俗物と呼ぶおぞましい人々がいることを。見当違いにもほどがある。実際、俗物根性ほど彼が嫌っている悪徳もないのである。何であれ、彼がつきあいたかったのは、自分と同じ階級の人々、彼らと一緒にいると、心からくつろげる人々だったのに。いったいそれがどうして俗物根性ということになるというのだ。類は友を呼ぶというではないか。

「まったく君の言うとおりだ」彼は言った。「俗物とは自分より社会的地位が高いというだけで、人を尊敬したりさげすんだりする人間のことだ。それこそ、イギリス中産階級の何より下賤な欠点だよ」

 クーパーの目に、おもしろそうな色が浮かぶのが見えた。クーパーは唇に浮かびそうになった大笑いを手で隠そうとしたために、かえってそれがめについたのだ。ミスター・ウォーバートンの手は小刻みに震えた。

 おそらくクーパーは、自分がどれだけひどく上司の神経を傷つけたか、決して知ることはなかっただろう。自分自身は傷つきやすいくせに、他人の感情には、奇妙なほど無神経なのだった。

(この項つづく)