その4.悪いやつらの物語
とりあえずこのふたつの作品の冒頭を見比べてみてほしい。
作品(A)はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(吉田健一訳 集英社文庫)の冒頭。作品(B)はアントニイ・バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』(乾信一郎訳 ハヤカワ文庫)の冒頭である。
このふたつを比べてみて、(B)の作品の語り手が、いきなり「おれは悪いやつだぞ」と登場しているのがはっきりわかるのではないだろうか。(A)の語り手は、彼女がいったいどんな人物か、これだけではほとんどわからない。寒いのがきらいなのかなあ、と漠然と思うぐらいだ。いわば、彼女は自己紹介を焦ってはいない。それに比べて(B)の語り手は、ほんの数行で読者にできるだけ強い印象を与えよう、それもまちがっても良い印象を与えまいと、できるだけの努力をしているようだ。第一印象が肝心、と彼らは思っているのである。読者というやつらは、放っておけば、すぐおれの言うことを信用するんだからな。おれが正しくて、いいやつだ、と思いたいんだ、と。
読み手は、何の情報も与えられていなければ、語り手を、ばくぜんと常識的な人間、自分とさほど変わらない人間と予想する。そうして、「悪い主人公」はそのわたしたちの先入観をうち砕くべく、矢継ぎ早に自分がどれほど悪い人間であるかを教えてくれるのである。
なぜそんなことをするのだろうか。
『時計仕掛けのオレンジ』では、このあとアレックスは捕らえられ、矯正プログラムを受けることになる。
薬物と矯正プログラムのために、暴力的な衝動を感じると、強烈な吐き気に襲われるようになる。そのためにアレックスは暴力を封じられてしまうのである。
わたしたちはこのアレックスを導き手として、善悪の問題を厳しく問われることになる。暴力というのは、封じ込めさえすればいいのか。強制的に封じ込めるということも、同じ暴力ではないのか。それが個人のレベルではない、国家のレベルでなされるとしたら、個人のレベルの暴力などとはくらべものにならないほど恐ろしいことになるのではないか。
わたしたちの善-悪の固定観念にゆさぶりをかけるために、あらかじめ、わたしたちが依拠している既成概念に沿った「悪」を体現する存在として、「悪い主人公」は登場するのである。
目に見えている世界はほんとうの世界ではない。いま見えているのは、ゆがめられ、大切なことは隠されている。
これを正しい主人公、すべてを知った主人公が説明していくとどうだろう。おそらく耐えられないほど説教臭い、退屈な小説になるにちがいない。
悪いからこそ、わたしたちは彼に驚かされもし、彼とともに世界を発見することができるのである。
(この項つづく)
とりあえずこのふたつの作品の冒頭を見比べてみてほしい。
(A) その日は散歩に出かけられなかった。それでも朝のうちに、私たちは一時間ばかり葉がすっかり落ちた植え込みの中を歩きまわりはしたのだったが、昼の食事のあとで冬の寒い風が吹き出して空が曇り、冷たい雨が降り始めたので――リード夫人は客がなければ昼の食事を早くすませた――、もう外に出ることは考えられなくなった。
それは私にとってはありがたいことだった。私は長い散歩が好きではなく、ことに寒い日の午後はそうだった。
(B) 「よう、これからどうする?」
おれ、というのはアレックスだ。それにおれのドルーグ(なかま)たち三人――ピートにジョージーにディムだ。このディム、その名前みたいに、ほんとに少しウスラデイム(ぼけ)てやがんだ。そのおれたち〈コロバ・ミルクバー〉に腰すえて、今晩これから何やらかそうかって、相談やってたとこ。
作品(A)はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』(吉田健一訳 集英社文庫)の冒頭。作品(B)はアントニイ・バージェスの『時計仕掛けのオレンジ』(乾信一郎訳 ハヤカワ文庫)の冒頭である。
このふたつを比べてみて、(B)の作品の語り手が、いきなり「おれは悪いやつだぞ」と登場しているのがはっきりわかるのではないだろうか。(A)の語り手は、彼女がいったいどんな人物か、これだけではほとんどわからない。寒いのがきらいなのかなあ、と漠然と思うぐらいだ。いわば、彼女は自己紹介を焦ってはいない。それに比べて(B)の語り手は、ほんの数行で読者にできるだけ強い印象を与えよう、それもまちがっても良い印象を与えまいと、できるだけの努力をしているようだ。第一印象が肝心、と彼らは思っているのである。読者というやつらは、放っておけば、すぐおれの言うことを信用するんだからな。おれが正しくて、いいやつだ、と思いたいんだ、と。
読み手は、何の情報も与えられていなければ、語り手を、ばくぜんと常識的な人間、自分とさほど変わらない人間と予想する。そうして、「悪い主人公」はそのわたしたちの先入観をうち砕くべく、矢継ぎ早に自分がどれほど悪い人間であるかを教えてくれるのである。
なぜそんなことをするのだろうか。
『時計仕掛けのオレンジ』では、このあとアレックスは捕らえられ、矯正プログラムを受けることになる。
そこでおれは、やつの首へ一発ひどいのをくらわしてやろうと、両方のげんこつをふり上げたのだが、やつはそこへ倒れてうめいているか、それともバタバタと逃げ出すかして、おれは腹の底からよろこびが湧き上がってくるのをおぼえるはずなのだが、何とその時、例の吐き気がまるで波のように起きてきて、ほんとに死ぬんじゃないかと、すごくこわくなってしまったんだ。おれは、よろめくみたいにしてベッドへもどると、ゲク、ゲク、ゲクとやった。
薬物と矯正プログラムのために、暴力的な衝動を感じると、強烈な吐き気に襲われるようになる。そのためにアレックスは暴力を封じられてしまうのである。
わたしたちはこのアレックスを導き手として、善悪の問題を厳しく問われることになる。暴力というのは、封じ込めさえすればいいのか。強制的に封じ込めるということも、同じ暴力ではないのか。それが個人のレベルではない、国家のレベルでなされるとしたら、個人のレベルの暴力などとはくらべものにならないほど恐ろしいことになるのではないか。
わたしたちの善-悪の固定観念にゆさぶりをかけるために、あらかじめ、わたしたちが依拠している既成概念に沿った「悪」を体現する存在として、「悪い主人公」は登場するのである。
目に見えている世界はほんとうの世界ではない。いま見えているのは、ゆがめられ、大切なことは隠されている。
これを正しい主人公、すべてを知った主人公が説明していくとどうだろう。おそらく耐えられないほど説教臭い、退屈な小説になるにちがいない。
悪いからこそ、わたしたちは彼に驚かされもし、彼とともに世界を発見することができるのである。
(この項つづく)