その昔、高校の授業で、森鴎外の『舞姫』を習った。習ったあとで、それぞれに読んで感じたことを発表したのだが、生徒のほぼ全員が主人公の太田豊太郎を、身重の女性を捨てて、日本に帰国して、出世街道を歩んだひどい男だといった内容のことを書いていたように思う。かくいうわたしもそのひとりで、「責任を伴わない優しさなどというのは無意味だ」と書いたことだけ(忘れてしまいたいのだが)いまだにはっきりと覚えている。
けれども、登場人物を道徳的基準に当てはめる、しかも当時とでは留学の意味も、教育を受けることも意味もちがう現代の尺度に当てはめて、それで作品を評価するようなやり方で作品を読んでしまえば、ほとんどそれは『舞姫』を読んだことにはならないだろう。
けれど、そういう時期を過ぎ、さらに多くの本を読むことを通じて、わたしたちはいつからか、登場人物やその行為を、道徳的に評価するような読み方は、稚拙な読み方だと思うようになっていく。
「この人、人を殺すから悪い人だよ」という感想を聞いたりすると、なんとも単純な読み方だなあ、と思ってしまう。
人を殺すからって単純に悪いかどうかわからないじゃないか。悪い、とそこで決めつけてしまって、その人がどういう情況に置かれていたか、どのように考えていたかを見てないんだから、というふうに。
わたしたちは「良い人-悪い人」という判断をいったんカッコに入れ、あるいはこの行為は「良いか悪いか」もカッコに入れて、動機を推測し、情況や歴史的経緯に思いめぐらす。そうやって、作品を深く理解していこうとする。
けれど、それだけにはとどまらない。その行為は良いことなのか、それとも悪いことなのか、が考えられなければならないような作品が、確かにあるのだ。この登場人物を、自分は良いと見なすのか。この人物の行為を、自分は悪とするのか。そう考える自分は、いったいなぜそう考えるのか。いったんカッコに入れた「良い-悪い」を、もういちどはずして、考えなければならないような作品がある。
昨日少しふれたティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』もそんな作品のひとつだ。
わたしたちは考える。おそらく最初はこのキャスリーンの問いかけと同じところから始まるはずだ。けれど、作品を読みながら、わたしたち自身が逆に問われていることに気がつく。最初に立っていた「良い-悪い」という基準とは、まったくちがう位置に立って、これが良いことなのか、それとも悪いことなのか、考えていることに気がつくはずだ。何もわからない、どう考えて良いのかもわからない、それでも、その不安に向き合いつつも、何とか自分で答えを出していかなくてはならない。
わたしたちは、さまざまな場面で「良いか悪いか」の判断を繰りかえしている。そのとき、依拠するのは、多くの場合、社会通念であると言っていいだろう。自分で考えているように思っているが、実際には、自分というより、そういう慣習に沿っているだけと言った方がいい。そうした慣習からどうやって自覚的に考えていけるのか。言葉を換えて言えば、社会通念から自分を引きはがし、そうではない言葉をどうやって見つけていけるのか。そのことにかかっているのではないか。
おそらくは、登場人物を道徳的基準に当てはめる、その行為を道徳的に評価する、そうした読み方がかならずしも誤っているわけではない。当てはめようとしている道徳的基準はいったい何なのか、それはほんとうは単なる慣習なのではないか。慣習に当てはめて、良い-悪いと考えているだけなのではないか。
本を読む、判断する、それは同時に、自分自身の道徳的な基準を作り上げていくことでもあるのだ。
けれども、登場人物を道徳的基準に当てはめる、しかも当時とでは留学の意味も、教育を受けることも意味もちがう現代の尺度に当てはめて、それで作品を評価するようなやり方で作品を読んでしまえば、ほとんどそれは『舞姫』を読んだことにはならないだろう。
けれど、そういう時期を過ぎ、さらに多くの本を読むことを通じて、わたしたちはいつからか、登場人物やその行為を、道徳的に評価するような読み方は、稚拙な読み方だと思うようになっていく。
「この人、人を殺すから悪い人だよ」という感想を聞いたりすると、なんとも単純な読み方だなあ、と思ってしまう。
人を殺すからって単純に悪いかどうかわからないじゃないか。悪い、とそこで決めつけてしまって、その人がどういう情況に置かれていたか、どのように考えていたかを見てないんだから、というふうに。
わたしたちは「良い人-悪い人」という判断をいったんカッコに入れ、あるいはこの行為は「良いか悪いか」もカッコに入れて、動機を推測し、情況や歴史的経緯に思いめぐらす。そうやって、作品を深く理解していこうとする。
けれど、それだけにはとどまらない。その行為は良いことなのか、それとも悪いことなのか、が考えられなければならないような作品が、確かにあるのだ。この登場人物を、自分は良いと見なすのか。この人物の行為を、自分は悪とするのか。そう考える自分は、いったいなぜそう考えるのか。いったんカッコに入れた「良い-悪い」を、もういちどはずして、考えなければならないような作品がある。
昨日少しふれたティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』もそんな作品のひとつだ。
たとえば私はみなさんにこういうことを語りたい。二十年前に私はミケ近郊の小道でひとりの男が死んでいくのを見ていた。私が彼を殺したわけではなかった。でも私はそこに存在したし、言うなれば、私がそこにいあわせたこと自体が十分罪悪なのだ。私は彼の顔を覚えている。それは可愛い顔ではなかった。というのは彼の顎は喉の中にめりこんでいたからだ。そして私は自分が責任と悲しみを感じたことを記憶している。私は自分自身を責めた。そしてそれはまあ当然のことだった。何故なら私はそこにいあわせたのだから。
でもいいですか、実はこの話だってやはり作りごとなのだ。
私は君に私の感じたことを感じてほしいのだ。私は君に知ってほしいのだ。お話(ストーリー)の真実性は、実際に起こったことの真実性より、もっと真実である場合があるということを。
今から話すのが実際に起こった真実だ。
私はかつて兵隊だった。そこにはたくさん死体があった。本物の顔のついた本物の死体だ。でも当時私は若かったし、それを見るのが怖かった。おかげで二十年後の今、私は顔を持たぬ責任と、顔を持たぬ悲しみを抱えている。
ここからがお話の真実だ。彼はすらりとした、華奢といってもいいような二十歳前後の青年だった。そして死んでいた。ミケの村の近くの赤土の小道の中央に横たわっていた。彼の顎は喉の中にめりこんでいた。彼の片目は閉じられ、もう片方の目は星形の穴になっていた。私が彼を殺したのだ。
私は思うのだけれど、お話(ストーリー)の力というのは、物事を目の前に現出させることにある。
私はそのとき見ることのできなかったものを今見ることができる。私は悲しみや愛や哀れみや神に顔を賦与することができる。私は勇敢になれる。私はもう一度それを身のうちに感じることができる。
「お父さん、ホントのことを言ってよ」とキャスリーンが言う、「お父さんは人を殺したことがあるの?」そして私は正直にこう言うことができる、「まさか、人を殺した事なんてあるものか」と。
あるいは私は正直にこう言うことができる。「ああ殺したよ」と。(ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』村上春樹訳 文春文庫)
わたしたちは考える。おそらく最初はこのキャスリーンの問いかけと同じところから始まるはずだ。けれど、作品を読みながら、わたしたち自身が逆に問われていることに気がつく。最初に立っていた「良い-悪い」という基準とは、まったくちがう位置に立って、これが良いことなのか、それとも悪いことなのか、考えていることに気がつくはずだ。何もわからない、どう考えて良いのかもわからない、それでも、その不安に向き合いつつも、何とか自分で答えを出していかなくてはならない。
わたしたちは、さまざまな場面で「良いか悪いか」の判断を繰りかえしている。そのとき、依拠するのは、多くの場合、社会通念であると言っていいだろう。自分で考えているように思っているが、実際には、自分というより、そういう慣習に沿っているだけと言った方がいい。そうした慣習からどうやって自覚的に考えていけるのか。言葉を換えて言えば、社会通念から自分を引きはがし、そうではない言葉をどうやって見つけていけるのか。そのことにかかっているのではないか。
おそらくは、登場人物を道徳的基準に当てはめる、その行為を道徳的に評価する、そうした読み方がかならずしも誤っているわけではない。当てはめようとしている道徳的基準はいったい何なのか、それはほんとうは単なる慣習なのではないか。慣習に当てはめて、良い-悪いと考えているだけなのではないか。
本を読む、判断する、それは同時に、自分自身の道徳的な基準を作り上げていくことでもあるのだ。