見に行った先のブログで、たまに奇妙なコメントが書きこんであるのを見かけることがある。それが一度や二度でなく、同一人物が攻撃的な書きこみを繰りかえしているのを見ると、見ているだけでなんとなくいやな気分になるし、そこの管理をなさっている人が気の毒になる。
たまに、そういう書きこみにも忍耐強く相手をしている人を見ると、尊敬してしまうのだが、相手の方は自分の意見にしがみついたまま、自分に対する批判に対しても、もっぱら言葉尻だけをとらえて攻撃する。当人はそれで反論しているつもりなのだろうが、単に揚げ足取りにしかなっていない。それでも自分の論理がたとえ手詰まりになっていようが、破綻していようが、どんな反論にも言い返せると、当人は良い気分でいるのかもしれない。
だが、こういうことを続けている人は、ほんとうに楽しいのだろうか。
日常生活で、たとえば会議などでこういうことをやろうとすれば、かならず大きな抵抗に遭う。具体的に何かをやっていこうとする人々のなかにあって、そのように言葉をもてあそぶだけの人間は邪魔なだけだ。言葉だけなら一万歩だろうが、百万歩だろうが、一歩も踏み出さないで、いくらでも言うことができるが、現実に百歩歩こうと思えば、一歩から歩き始めて、百歩、歩き続けなければならない。
ところが、こうしたインターネット上では、ともに言葉のやりとりだけになるので、仮に片方が現実に足場を持ちながら、自分の考えや言葉をそれになんとかリンクさせていこうとしていても、そうした努力は一切インターネット上には現れない。
現実に、なんとか百歩歩こうと努力している人に対して、それだけしか歩けないのか、と、嘲笑を浴びせかけることも可能なのである。しかも、一歩も踏み出すことなく。
だが、百万歩歩く、と言葉で言うだけで、楽しい人間などいない。
こんなところでこんな文章を思い出すのは筋がちがうのかもしれないが、わたしはどうしても小林秀雄の西田幾多郎を評したこんな言葉を思い出すのである。
西田があの時代、ひとりきり「誠實な思索」を積み重ねてた、というのは非常に厳しいことだったろう。だが、いまはそういう意味での「孤獨」はありえないように思う。たとえたったひとり、自分の部屋にいても、そこには仮想的な「他者」に取り巻かれている。
空想の中でケンカしても、恋愛しても、楽しくはないだろう。だが、それを見ている人がいるとわかると、もはや空想ではない。「仮想的な現実」が単なる空想とちがうのは、証人がいる、ということでもある。観客がいるから、そこに「仮想的な現実」が成立してしまう。それが現実でない、と何よりも本人が知っていても、その本心を隠して、架空のケンカや恋愛を続けていくことになる。
観客はそれを見て、賞賛したり罵倒したりする。そのことによって、いよいよ「仮想的な現実」は強固なものになる。
虚構は虚構なのだ。帰っていく実体はどこにもない。
にもかかわらず、そこから憎悪や快楽すらもが生産されていく。こうなってくると、もうそのなかにいる人は、自分が楽しんでいるのか、苦しんでいるのかすらわからなくなってくる……。
言葉は言葉でしかないのだ。現実と、自分の言葉をリンクさせる筋道を、どこかに持ち続ける。少なくともその努力だけは続けていかなければならないだろう。
たまに、そういう書きこみにも忍耐強く相手をしている人を見ると、尊敬してしまうのだが、相手の方は自分の意見にしがみついたまま、自分に対する批判に対しても、もっぱら言葉尻だけをとらえて攻撃する。当人はそれで反論しているつもりなのだろうが、単に揚げ足取りにしかなっていない。それでも自分の論理がたとえ手詰まりになっていようが、破綻していようが、どんな反論にも言い返せると、当人は良い気分でいるのかもしれない。
だが、こういうことを続けている人は、ほんとうに楽しいのだろうか。
日常生活で、たとえば会議などでこういうことをやろうとすれば、かならず大きな抵抗に遭う。具体的に何かをやっていこうとする人々のなかにあって、そのように言葉をもてあそぶだけの人間は邪魔なだけだ。言葉だけなら一万歩だろうが、百万歩だろうが、一歩も踏み出さないで、いくらでも言うことができるが、現実に百歩歩こうと思えば、一歩から歩き始めて、百歩、歩き続けなければならない。
ところが、こうしたインターネット上では、ともに言葉のやりとりだけになるので、仮に片方が現実に足場を持ちながら、自分の考えや言葉をそれになんとかリンクさせていこうとしていても、そうした努力は一切インターネット上には現れない。
現実に、なんとか百歩歩こうと努力している人に対して、それだけしか歩けないのか、と、嘲笑を浴びせかけることも可能なのである。しかも、一歩も踏み出すことなく。
だが、百万歩歩く、と言葉で言うだけで、楽しい人間などいない。
こんなところでこんな文章を思い出すのは筋がちがうのかもしれないが、わたしはどうしても小林秀雄の西田幾多郎を評したこんな言葉を思い出すのである。
西田氏は、ただ自分の誠實といふものだけに頼つて自問自答せざるを得なかつた。自問自答ばかりしてゐる誠實といふものが、どの位惑はしに充ちたものかは、神様だけが知つてゐる。この他人といふものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤獨が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれて居らず、勿論外國語でも書かれてはゐないといふ奇怪なシステムを創り上げて了つた。氏に才能が缺けてゐた爲でもなければ、創意が不足してゐた爲でもない。(小林秀雄「學者と官僚」『小林秀雄全集第七巻』所収 新潮社)
西田があの時代、ひとりきり「誠實な思索」を積み重ねてた、というのは非常に厳しいことだったろう。だが、いまはそういう意味での「孤獨」はありえないように思う。たとえたったひとり、自分の部屋にいても、そこには仮想的な「他者」に取り巻かれている。
空想の中でケンカしても、恋愛しても、楽しくはないだろう。だが、それを見ている人がいるとわかると、もはや空想ではない。「仮想的な現実」が単なる空想とちがうのは、証人がいる、ということでもある。観客がいるから、そこに「仮想的な現実」が成立してしまう。それが現実でない、と何よりも本人が知っていても、その本心を隠して、架空のケンカや恋愛を続けていくことになる。
観客はそれを見て、賞賛したり罵倒したりする。そのことによって、いよいよ「仮想的な現実」は強固なものになる。
虚構は虚構なのだ。帰っていく実体はどこにもない。
にもかかわらず、そこから憎悪や快楽すらもが生産されていく。こうなってくると、もうそのなかにいる人は、自分が楽しんでいるのか、苦しんでいるのかすらわからなくなってくる……。
言葉は言葉でしかないのだ。現実と、自分の言葉をリンクさせる筋道を、どこかに持ち続ける。少なくともその努力だけは続けていかなければならないだろう。