昨日の話と関係のあるようなないような話を続ける。
以前だったら考えられないことだけれど、インターネットのおかげで、会ったこともない、日常生活を送っているだけなら決して知ることもなかったであろう人とも、メールやコメント欄への書きこみを通じて、知り合うことができるようになった。
それは100パーセント、言葉だけのやりとりなのだが、不思議とその人の「てざわり」というか「声」というか、言葉にはならないのだが、何かしら伝わってくるものがある。
ここでジンメルが言っているのは、もちろん従来の人間の対面をベースとしたコミュニケーションのことである。ただ、ジンメルがここで言っている「伝えよう」とその人が思っていることとはちがうことが「伝わってしまう」のは、その人の外見や表情、動作といった要素だけではないように思えるのだ。
日常のつきあいを考えてみれば、朝、顔を合わせたその瞬間に、相手の調子も、虫の居所も、仕事の進捗具合もわかってしまっても不思議はない。その点、言葉だけのやりとりというのは、伝達される情報は、完全に自分のコントロールのもとに置くことが可能のはずだ。対面では不可能な、相手にこう受けとってほしい、と思う自分のイメージを、言葉に託すことも可能なのである。
だが、やはりわたしたちは相手が「他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っている」のではないか。それを進んで確かめることはないかもしれない。それでも、さまざまな言葉や文章から、わたしたちはその書き手のイメージを、本人が「こう受けとってほしい」のとはちがう形で受けとっている。言葉の意味内容そのものが、本人の意図を超えて伝わってしまう側面を持っているのだ。
だからこそ、たとえ同じ言葉が並んでいても、「誰が書いたか」によって、受ける印象はまるで変わってしまうのである。
たとえやりとりしているのは言葉でしかなくても、わたしたちがコミュニケーションをしているのは、その向こうにいる人間なのである。
ところが、ときどきそれを忘れているのではないか、と思う人を見かけてしまうのだ。
昨日も書いたような、コメント欄に攻撃的な書きこみをする人ばかりではない。自分の情報を完全に自分でコントロールできている、と思っている人も、相手の存在を忘れてしまっているように思える。
姿かたちを備えた他者は、わたしたちに相手が自分ではない存在であることを片時も忘れさせてはくれない。自分の思い通りにしようと思っても言うことを聞いてはくれないし、自分の意見を押しつけようとすれば、背を向けて去っていくかもしれない。
だからわたしたちは対面する相手には、言葉を慎むし、自分のわがままも抑えようとする。
けれども顔を合わせたこともない、見えるのは液晶画面に浮かぶ文字だけ。
その向こうに他者を感じ取れる感受性がなければ、相手は「単なる読み手」、自分のパフォーマンスに拍手喝采してくれるはずの「観客」となる。
単なる観客に過ぎないのだから、対面では言えないようなことも言えるし、拍手してくれなければ、別のハンドルネームで別の役柄を演じればすむ。そこが気にくわなくなれば、別の舞台を探せばいい。
だがそう思っていることもまた、まちがいなく伝わってしまうのである。
確かにインターネット上の空間は、日常とはまたちがう世界ではある。けれども、わたしたちが現実とインターネット上に書きこんだ自分の言葉をリンクさせる筋道を確保しておく努力を続けるならば、そこはおそらく豊かな世界となっていくはずだ。
そうして、その第一歩が、自分が書いている相手を意識するということなのだと思う。
自分に向けて書いているのではない。
自分のパフォーマンスを披露するために書いているのでもない。
わたしは、わたしの思い通りには決して読んでくれない、気にくわなければどこかへ行ってしまう「あなた」に読んでほしいから、書いているのです。
以前だったら考えられないことだけれど、インターネットのおかげで、会ったこともない、日常生活を送っているだけなら決して知ることもなかったであろう人とも、メールやコメント欄への書きこみを通じて、知り合うことができるようになった。
それは100パーセント、言葉だけのやりとりなのだが、不思議とその人の「てざわり」というか「声」というか、言葉にはならないのだが、何かしら伝わってくるものがある。
人間の全交流は、より明瞭でない微妙な形式において、つまり断片的な萌芽を手がかりとして、あるいは暗黙のうちに、各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っているということに基づいている。しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである。このことは、個人的な意味においては無配慮とみなされるかもしれないが、しかし社会的な意味においては、生きいきとした交流が存続するための条件として必要である。(ゲオルク・ジンメル『社会学』居安正訳 白水社)
ここでジンメルが言っているのは、もちろん従来の人間の対面をベースとしたコミュニケーションのことである。ただ、ジンメルがここで言っている「伝えよう」とその人が思っていることとはちがうことが「伝わってしまう」のは、その人の外見や表情、動作といった要素だけではないように思えるのだ。
日常のつきあいを考えてみれば、朝、顔を合わせたその瞬間に、相手の調子も、虫の居所も、仕事の進捗具合もわかってしまっても不思議はない。その点、言葉だけのやりとりというのは、伝達される情報は、完全に自分のコントロールのもとに置くことが可能のはずだ。対面では不可能な、相手にこう受けとってほしい、と思う自分のイメージを、言葉に託すことも可能なのである。
だが、やはりわたしたちは相手が「他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っている」のではないか。それを進んで確かめることはないかもしれない。それでも、さまざまな言葉や文章から、わたしたちはその書き手のイメージを、本人が「こう受けとってほしい」のとはちがう形で受けとっている。言葉の意味内容そのものが、本人の意図を超えて伝わってしまう側面を持っているのだ。
だからこそ、たとえ同じ言葉が並んでいても、「誰が書いたか」によって、受ける印象はまるで変わってしまうのである。
たとえやりとりしているのは言葉でしかなくても、わたしたちがコミュニケーションをしているのは、その向こうにいる人間なのである。
ところが、ときどきそれを忘れているのではないか、と思う人を見かけてしまうのだ。
昨日も書いたような、コメント欄に攻撃的な書きこみをする人ばかりではない。自分の情報を完全に自分でコントロールできている、と思っている人も、相手の存在を忘れてしまっているように思える。
姿かたちを備えた他者は、わたしたちに相手が自分ではない存在であることを片時も忘れさせてはくれない。自分の思い通りにしようと思っても言うことを聞いてはくれないし、自分の意見を押しつけようとすれば、背を向けて去っていくかもしれない。
だからわたしたちは対面する相手には、言葉を慎むし、自分のわがままも抑えようとする。
けれども顔を合わせたこともない、見えるのは液晶画面に浮かぶ文字だけ。
その向こうに他者を感じ取れる感受性がなければ、相手は「単なる読み手」、自分のパフォーマンスに拍手喝采してくれるはずの「観客」となる。
単なる観客に過ぎないのだから、対面では言えないようなことも言えるし、拍手してくれなければ、別のハンドルネームで別の役柄を演じればすむ。そこが気にくわなくなれば、別の舞台を探せばいい。
だがそう思っていることもまた、まちがいなく伝わってしまうのである。
確かにインターネット上の空間は、日常とはまたちがう世界ではある。けれども、わたしたちが現実とインターネット上に書きこんだ自分の言葉をリンクさせる筋道を確保しておく努力を続けるならば、そこはおそらく豊かな世界となっていくはずだ。
そうして、その第一歩が、自分が書いている相手を意識するということなのだと思う。
自分に向けて書いているのではない。
自分のパフォーマンスを披露するために書いているのでもない。
わたしは、わたしの思い通りには決して読んでくれない、気にくわなければどこかへ行ってしまう「あなた」に読んでほしいから、書いているのです。