インターネットとわたしたちのありようについて、もう少し話を続ける。
昨日、たとえ言葉だけでも、その人のてざわりというか「声」というか、伝わるものがある、ジンメルがいうように「他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っている」ということを書いたのだが、その一方で、こんなことがあったということも書いておこうと思ったのである。
まだ常時接続にして日も浅いころだった。
そういう相手はほとんど初めてだったのだが、面識もなく、仕事やその人の現実の諸関係も知らない人と、定期的にメールのやりとりをするようになった。まだ回数も浅いころ、いきなりものすごくプライヴェートなことを打ち明けられて驚いてしまったことがある。深い悩みを抱えているように思われ、そういうことが言えるのもあなたしかいない、と書いてあったために、わたしはすっかり責任を感じてしまった。どうしたらよいかわからなかったのだが、おそらくわたしにできることといったら、話を聞くことしかないだろう、だが、それで良かったら、わたしはちゃんと聞く、できるだけの誠意をこめて、一生懸命、耳を傾ける、と返事を書いた。
いまこうやって振り返ると、当時の自分のナイーヴさに何とも言えない気持ちになるのだが、まだ個人的にメールのやりとりをする経験も少なく、メールというものが、ときとして人にそういうことを書かせるものだということを知らなかったのである。
日常ではそんなことを打ち明けられた経験はなかった。そんな重要なことを、見ず知らずのわたしに打ち明けなければならないその人の孤独を思うと、こちらの胸まで塞がれるような思いがした。
ところがメール交換が次第に負担になっていった。返事が遅れると、気分を害するようなことを書いたのではないか、と心配するメールが追いかけるように届く。しかも、どれも簡単に返事が書けるようなものではない。メールボックスを開けるのも憂鬱になるような日が訪れた。そのころ、ある出来事が起こったのである。
非常に奇妙な出来事で、わたしには何でその人がそういうことをしたのか、未だによくわからない。まあ簡単にまとめてしまえば、その人がメール交換をしている相手はほかにもいて、その相手よりもわたしの方を重要視している、ということを非常に凝りに凝ったやり方で教えてくれたわけだ。
その出来事をめぐって、いくつか要領を得ないメールのやりとりが続いて、わたしはすっかり嫌気がさしてしまった。ひとつには、わたし以外にもメール交換をしている相手がいるのなら、わたしが手を引いても大丈夫、という思いがあったことは否定できない。ともかく、わたしはもうメールを続けることはできない、申し訳ないがやめさせてくれ、と送信したのだった。
それでもしばらくは、新聞を開くのが怖かった。わたしのメールが引き金になって自殺でもされたらどうしよう、と思ったのである。
そのあともあれやこれやあって、いろいろわかったことを総合するに、まあほんとうにわたしはなんとナイーヴだったことか、ということにしかならない。その人が打ち明けてくれた「ものすごくプライヴェートなこと」は決して嘘ではなかったのだろうが、「あなただけ」と書いた相手はわたしひとりではなかったろう。そうやって、会う人ごとに作為を重ねながら、その人は次から次へと人のあいだを渡り歩いていたのではないか、といまのわたしは思っている。
そういうことをして、いったい何が楽しいのか。人を、やがて離れていくとわかっていても、しばらくのあいだだけでも、自分の思い通りに動かすことができれば、楽しいのだろうか。わたしにはよくわからない。
でも、少なくともわたしは最初にその話を聞いたときは、非常に重く受け止めたし、どうするのが自分にできる最善のことか、真剣に考えたのだ。だから、いまだにその人物に関しては怒りを覚えているし、だからこのログも、もちろんそういうバイアスがかかっているはずだ。
creatures of habit という言葉がある。Soul Asylumの曲のことではない。「習慣の奴隷」、人間は習慣の奴隷である、みたいに使う。
わたしたちは同じようなパターンの行動を繰りかえしている、という見方は、たとえばアガサ・クリスティのミステリなどにもずいぶん出てくるように思う。たとえばつまらない男に引っかかる女は、つぎも同じようにつまらない男に引っかかる、こういうのは「だめんずウォーカー」というのだったっけ。相手変われど、あるいは、ところ変われど、やっていることは同じ、という人は、わたしたちの身の回りでも見かけることができるし、自分では気がつかなくても、自分の行動にもそういう見方を当てはめることもできるのかもしれない。そういうことをしがち、という傾向まで含めれば、さらに当てはまる要素は多いだろう。
わたしたちの思考は、わかりきったことに関しては、どんどん省略していくという傾向がある。毎日通る道であれば、あたりの風景に目をやることもないし、決まり決まったことに注意を向けることもない。わたしたちは自分が何に目を向けるか、何に注意を向けるか、ふるいにかけている。もしこういうことをせず、すべてのことに目がいき、注意が向けば、わたしたちはすぐに疲れ切ってしまうだろうから。こうした省エネは、わたしたちの能力のひとつなのだ。
人に対しても決まり決まったつきあい方しかできなければ、わたしたちのつきあいも、それこそ「習慣の奴隷」、同じようにしかつきあえない。あれやこれや作為を働いて、相手を自分の思い通りに動かすようなことを「習慣」にしてしまえば、だれに対してもそういうことをするだろう。
けれど、相手はそのたびにちがうのだ。
相手さえきちんと見ていれば、同じことができるはずがない。
にもかかわらず、同じことを繰りかえしてしまうのは、その人が、いかに相手を見ていないかの証明でしかない。だから人は離れていくのだ。
こう書いているわたし自身が、人に対して「省エネ」でつきあっている部分があるのだろう。
まず、自分に向けられた言葉に関しては、その向こうの人の声に耳を傾けたい。習慣の奴隷から脱することができるとしたら、そこからしか始まらないような気がする。
昨日、たとえ言葉だけでも、その人のてざわりというか「声」というか、伝わるものがある、ジンメルがいうように「他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知っている」ということを書いたのだが、その一方で、こんなことがあったということも書いておこうと思ったのである。
まだ常時接続にして日も浅いころだった。
そういう相手はほとんど初めてだったのだが、面識もなく、仕事やその人の現実の諸関係も知らない人と、定期的にメールのやりとりをするようになった。まだ回数も浅いころ、いきなりものすごくプライヴェートなことを打ち明けられて驚いてしまったことがある。深い悩みを抱えているように思われ、そういうことが言えるのもあなたしかいない、と書いてあったために、わたしはすっかり責任を感じてしまった。どうしたらよいかわからなかったのだが、おそらくわたしにできることといったら、話を聞くことしかないだろう、だが、それで良かったら、わたしはちゃんと聞く、できるだけの誠意をこめて、一生懸命、耳を傾ける、と返事を書いた。
いまこうやって振り返ると、当時の自分のナイーヴさに何とも言えない気持ちになるのだが、まだ個人的にメールのやりとりをする経験も少なく、メールというものが、ときとして人にそういうことを書かせるものだということを知らなかったのである。
日常ではそんなことを打ち明けられた経験はなかった。そんな重要なことを、見ず知らずのわたしに打ち明けなければならないその人の孤独を思うと、こちらの胸まで塞がれるような思いがした。
ところがメール交換が次第に負担になっていった。返事が遅れると、気分を害するようなことを書いたのではないか、と心配するメールが追いかけるように届く。しかも、どれも簡単に返事が書けるようなものではない。メールボックスを開けるのも憂鬱になるような日が訪れた。そのころ、ある出来事が起こったのである。
非常に奇妙な出来事で、わたしには何でその人がそういうことをしたのか、未だによくわからない。まあ簡単にまとめてしまえば、その人がメール交換をしている相手はほかにもいて、その相手よりもわたしの方を重要視している、ということを非常に凝りに凝ったやり方で教えてくれたわけだ。
その出来事をめぐって、いくつか要領を得ないメールのやりとりが続いて、わたしはすっかり嫌気がさしてしまった。ひとつには、わたし以外にもメール交換をしている相手がいるのなら、わたしが手を引いても大丈夫、という思いがあったことは否定できない。ともかく、わたしはもうメールを続けることはできない、申し訳ないがやめさせてくれ、と送信したのだった。
それでもしばらくは、新聞を開くのが怖かった。わたしのメールが引き金になって自殺でもされたらどうしよう、と思ったのである。
そのあともあれやこれやあって、いろいろわかったことを総合するに、まあほんとうにわたしはなんとナイーヴだったことか、ということにしかならない。その人が打ち明けてくれた「ものすごくプライヴェートなこと」は決して嘘ではなかったのだろうが、「あなただけ」と書いた相手はわたしひとりではなかったろう。そうやって、会う人ごとに作為を重ねながら、その人は次から次へと人のあいだを渡り歩いていたのではないか、といまのわたしは思っている。
そういうことをして、いったい何が楽しいのか。人を、やがて離れていくとわかっていても、しばらくのあいだだけでも、自分の思い通りに動かすことができれば、楽しいのだろうか。わたしにはよくわからない。
でも、少なくともわたしは最初にその話を聞いたときは、非常に重く受け止めたし、どうするのが自分にできる最善のことか、真剣に考えたのだ。だから、いまだにその人物に関しては怒りを覚えているし、だからこのログも、もちろんそういうバイアスがかかっているはずだ。
creatures of habit という言葉がある。Soul Asylumの曲のことではない。「習慣の奴隷」、人間は習慣の奴隷である、みたいに使う。
わたしたちは同じようなパターンの行動を繰りかえしている、という見方は、たとえばアガサ・クリスティのミステリなどにもずいぶん出てくるように思う。たとえばつまらない男に引っかかる女は、つぎも同じようにつまらない男に引っかかる、こういうのは「だめんずウォーカー」というのだったっけ。相手変われど、あるいは、ところ変われど、やっていることは同じ、という人は、わたしたちの身の回りでも見かけることができるし、自分では気がつかなくても、自分の行動にもそういう見方を当てはめることもできるのかもしれない。そういうことをしがち、という傾向まで含めれば、さらに当てはまる要素は多いだろう。
わたしたちの思考は、わかりきったことに関しては、どんどん省略していくという傾向がある。毎日通る道であれば、あたりの風景に目をやることもないし、決まり決まったことに注意を向けることもない。わたしたちは自分が何に目を向けるか、何に注意を向けるか、ふるいにかけている。もしこういうことをせず、すべてのことに目がいき、注意が向けば、わたしたちはすぐに疲れ切ってしまうだろうから。こうした省エネは、わたしたちの能力のひとつなのだ。
人に対しても決まり決まったつきあい方しかできなければ、わたしたちのつきあいも、それこそ「習慣の奴隷」、同じようにしかつきあえない。あれやこれや作為を働いて、相手を自分の思い通りに動かすようなことを「習慣」にしてしまえば、だれに対してもそういうことをするだろう。
けれど、相手はそのたびにちがうのだ。
相手さえきちんと見ていれば、同じことができるはずがない。
にもかかわらず、同じことを繰りかえしてしまうのは、その人が、いかに相手を見ていないかの証明でしかない。だから人は離れていくのだ。
こう書いているわたし自身が、人に対して「省エネ」でつきあっている部分があるのだろう。
まず、自分に向けられた言葉に関しては、その向こうの人の声に耳を傾けたい。習慣の奴隷から脱することができるとしたら、そこからしか始まらないような気がする。
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