もうすぐ夜の9時になろうとするころ、
ようやく先生と連絡がついた。
「明日のイベントは予定通り開催」
という判断。
取り急ぎ、参加予定者全員にメール配信を行う。
道中、くれぐれも十二分にお気をつけて、と添える。
明日も徒歩出勤かもしれない。
しっかり疲れを取っておかなければならない。
遅い夕食をとり、しっかりお風呂に入り、
お風呂掃除をして浴槽に非常用の水を貯めて、就寝。
翌朝、電車は復旧していて、
いざ家を出るというときに電話が鳴った。
オフィスで一夜を過ごした同僚から。
「先生からお電話があって、今日のイベントは中止だそうです」
マンションのロビーですぐさまパソコンを開き、
イベント中止とお詫びの緊急メールを配信する。
オフィスに移動して、その間にあまり反応がなかったらしいのが心配になって、
もう一度、同じ連絡を一斉配信。
肝心の講師陣に連絡していないらしいと言われて、全員に連絡。
開場するはずだった時刻に、会場前でチラシを持って待ち受ける。
このイベントですかと言われて頷いた人に、
1人ひとり、事情を話して頭を下げる。
大学の判断で中止になった証明書が欲しい、という人が来られた。
せっかく来たのに、建物の中にすら入れないのかと残念がる方も来られた。
そんなことを1時間半ばかりやっているうち、
通りすがりのおじさまたちが、
「昨日はすごかったねえ」
「この辺で、昼ごはん食べられる店は開いてるかな」
「大変だね、がんばって」
話しかけてくれたり、ミルクキャンデーをひとつかみくれたり。
ひとしきりの対応が済んで、自宅に戻ったのがお茶の時間くらい。
都心にいて大震災を直接体感したのはこのあたりまでだと記憶している。
ところが今度は船酔い状態で気分が悪い。
免震機能のせいで必要以上に揺れる建物で、
細かい仕事をし続けているから、気持ちが悪くなって化粧室に走る。
やがて、一斉放送のアナウンスが流れ始めた。
隣の校舎の教室を帰宅困難な学生と教員に開放するという。
あとは明日でいいから帰る支度をしなさい、自宅に帰れるか、
などと同僚スタッフに指示をするも、返ってきた言葉は、
「明日早く来てやるのヤなんで、いいです、ここに泊まります」
これが妥当な判断なのかどうかも、なんだかよく分からない事態。
ただとにかく、自分は家に帰ろう、と思った。
明日のイベント開催については今夜中に参加予定者に連絡したい、
自分は徒歩で自宅に向かう、同僚2人は大学に残る可能性がある、
そのことだけ急いで先生に連絡を入れた。
同僚2人に、早くきりがついたらむしろうちに泊まりなさいと地図を置き、
PCから吸い上げたデータを持って、徒歩での帰宅の途についたのが、
忘れもしない18時08分。
オフィスから自宅までは、地下鉄なら3駅分の距離。
大通りに出ると、すでに続々と徒歩で帰途についた人々の流れ。
職場で支給されたらしき白いヘルメットの人もちらほら。
休日の新宿の地下道、くらいの混み具合で黙々と歩く。
途中途中のコンビニには、飲み物や使い捨てカイロを買う人たちの列。
このときにはまだ、食べ物の棚にはふんだんに商品が並んでいた。
よく見知った街並みになってきたころには、人波が少しまばらになった。
自宅マンションに着いて、階段を6階まで上る。
部屋に入ったのは、これまた忘れもしない18時55分。
朝、いいかげんに閉めていたドアは開き、
いいかげんに開け放していたドアは閉まっていた。
和室に駆け込めば、
立てかけていた琴は、もう一面の琴と垂直にきれいにうつぶせに倒れ、
三絃は壁にかかったままで何ともなかった。
積み上げていた本や書類は崩れてはいたけど散乱はしていなかった。
本棚に置いていた大切な人の写真立ては、
そのままの角度で床に10点満点の着地をしていた。
激震が去ってから、とりあえずお金を払いに店に戻る。
店員さんの1人は実家が震源地だと言って慌てて帰って行った。
フライヤーの油が大量に床にこぼれ、秘伝のタレも壺から外へ飛び散って、
業務用の重い大きな冷蔵庫が違う場所に移動していた。
床に立ててあった瓶ビールはごろごろと転がりだしている。
これはもうお客さんには出せないから持って帰っていいよ、と言われて、
1本ずついただく。
残っている店員さん2人が、今日はもう店を閉めよう、と片づけながら、
「あー、そういや俺、楽器が心配」
「俺もだ・・・うわーどうしよ」
バンドやってるんですか、と言いながらハタと思い当たる。
――私も、お琴、片方立てて置いてあるし、三絃は壁に引っ掛けてあるだけだ!
助けてもらったお礼と、まだしばらくは気をつけて、と店員さんたちに頭を下げて、
オフィスのあるビルに戻る。
外に避難していた同僚らを見つけて合流して、大学の判断を待つ。
ここで解散して歩いて家に帰るにしても家のカギはオフィスの中だし、
寒いし、トイレにも行きたいし、などと声が上がり始めたころようやく、
「荷物を取る人だけは中に入って非常階段を使ってください」
天井の高い高層ビルの7階に、息を切らせてたどりつき、
明日のイベントを開催する前提で、残る準備を進める。
肝心の先生と連絡がつかず、無事かどうかも分からないまま、
早速かかってくる問合せに、本日中にご連絡しますと答え、
余震でぐらんぐらん揺れるなかで、リストのチェックやらデータのバックアップやら。
余震の頻度がおさまるにつれて、なぜか頭痛がすぅっと引いていった。
本能的に、地震の本体部分は去った、と思った。
史上最悪の自然災害と国内最悪の原発事故。
恵まれた安穏な暮らしのなかで想像だにしなかった事態に直面した記録を、
残しておこうと思う。
2011年3月11日金曜日。
本来なら自宅で別口の仕事をしている非勤務日のその日、
一年で最大の国際イベントの開催前日だったために、
イレギュラーに本務先に出社して翌日に向けての最終打合せに追われた。
大イベントを前に、いつにもましての激務だからか、花粉のせいか、
朝から、軽く吐き気を催すほどの異様なほどの頭痛に襲われながら、
翌日のタイムテーブルにそって綿密にすべての動きを確認していく。
ようやく打合せを終えて、遅い遅い昼食に出かけた。
明日に備えて力をつけておきたいという同僚に連れられて、
〝新潟カツ丼〟なるものの専門店にいた。
カウンターの向こうに店員さんが一人立つのが精いっぱいの、
小さな小さなその店には、時間があまりにも遅かったせいか、
客は私たち2人だけ。 あとは男性の店員さんが3人。
14時46分。
そのとき、食事は半分とちょっと済んだあたり。
ゆらり、と来て、あれ、地震だね、と言っているうちに、
揺れはおさまる気配なく大きくなった。
「火! 火、消して!」
「大きいですね、お客さん、とりあえず外に出ましょうか」
男性3人に囲まれるようにして店の外へ。
周囲の店からも人が出てきて、四つ角ごとに固まって空を見上げる。
と、ぐわん、ぐわん、ぐわん、と足元のアスファルトの道がたわむように揺れる。
こっち!と同僚に手を引っぱられた先は、
高台にそびえたつ校舎のがけ下のような場所にある公園。
本能的には反対方向の大きな交差点に出たかったのだけど・・・