古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

布のカーテンを全部ロール・カーテンにします。

2020年12月13日 18時14分20秒 | 古希からの田舎暮らし
 もう5年もまえになるかな。「窓にはカーテン」(うすい夏用と布のカーテン)と思い込んでいましたが、見晴らしのよい東の窓とガラス戸のカーテンを〈ロール・カーテン〉に替えたら眺めの感じがよくなりました。両脇のカーテンが景色を邪魔しない。すっきり見える。
 しかしまだ4ヵ所は布のカーテンのままです。それを全部「ロール・カーテンに替える」気になり、今日買い物に出ました。お店に行ったら人が多い。どうして? 「今日は日曜日でした」。
 買った品物には「ロール・スクリーン」と名前がついていますが、「ロール・カーテン」と呼んでもいいようです。スクリーンというほど大袈裟なモノではありませんし。
 もう布のカーテンにもどることはありません。
 カーテンの布でなにしようかな。裏山で使い道はないかな。

 昨日は道子さんの誕生日でした。あと一歩で傘寿というところにこぎつげました。娘たちは、コロナもあるし、忙しいし、というのでお花をお店が配達してくれました。ありがとう。

 同窓会である友が話したのを、思い出します。「夫婦になって40年も50年もたてば、どちらか病気になったり、死んだりする。私も妻を亡くして独りになりました。70歳を過ぎて二人とも元気な人は、とても恵まれています。感謝して生きてください」。
 そうだなー。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日中戦争を終らせたい」 …… 西村京太郎の思い

2020年12月12日 02時29分10秒 | 古希からの田舎暮らし
 西村京太郎の思い …… 日中戦争を、石原莞爾の力でやめさせたかった。
「だれか」が働くとすれば「停戦」に働くのは石原莞爾の他は考えられなかった。
 陸軍の中央/首脳は、内心では日中戦争をやめてかった。だが戦争をやめようとすると「ここでやめたら、戦死した英霊に申し訳ない」と、ずるずる戦争を続けた。
 陸軍が「蒋介石の軍隊なんか一撃で倒せる」と豪語した中国軍は奥に逃げ、国際世論は日本を非難し、英米は武器を援助し、日本軍をいくら投入しても広い中国を支配できなかった。
 要するに「大きな軍隊になって戦争したくなり、日中戦争をはじめ、太平洋戦争に突入した」。
 あの敗戦のとき東京幼年学校生だった西村京太郎は「オリンピックを口実に停戦できていたら、太平洋戦争にならなかったかも」と空想したであろう。それを90歳のおじいさんになって本に書いた。
 
 あの敗戦のとき少年だった人たちは、あの軍隊上層部がやったことを生涯にわたって「告発」しつづけている。
「満蒙開拓青少年義勇軍」は、小学校6年(当時は国民学校)ブラス高等科2年で、14歳で入隊した。「志願した」というが14歳の子どもを学校や行政機関がたぶらかすのはたやすい。彼らは、鉄砲に模した「鍬の柄」をかつぎ、行進して満州に渡った。そしてソ連軍が攻め入ったら防波堤になるような「辺境の地」に入植させられた。
 敗戦直前、ソ連軍が攻めてきたら軍隊は日本人入植者を「棄民」した。入植者の成人男子は敗戦直前の8月になって召集された。そしてシベリヤに抑留された。青少年義勇軍の少年たちはソ連軍や中国の人たちに追われて逃げまどい、死亡した。80000人の少年が義勇軍として渡満し、25000人が飢えや襲撃で死亡した。
 健康な十代の少年は「もっとも命の盛んな」ときだ。どんなことをしても生き延びる「知恵」と「生命力」をもっている。その少年たちが死なねばならぬ苛酷な場面は、思い描くのもつらい。少年たちは、どれだけつらい状況を生き延びて帰国したか。
 彼らは、戦争をした国家にたいして、大人たちにたいして、生涯にわたって、いいつづけている。
 関西弁でいうなら「どないオトシマエつけてくれるんや!」。
 ぼくは、敗戦のとき7歳だった。田舎の山奥で暮らしており、空襲にも遭わなかった。
 もし10年早く生まれていたら、「愛国少年」になっていたか。何かに志願していたか。
 あの戦争のことを読むと、気持ちがザワつく。この思いは生涯変わらない。
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西村京太郎『東京オリンピックの幻想』

2020年12月11日 01時48分10秒 | 古希からの田舎暮らし
 西村京太郎のミステリーは2冊ほどしか読んでいませんが、題名が気になって図書館で借りてみました。本は『東京オリンピックの幻想』という題です。一応、十津川警部がちょっとだけ出てきますが、本の中味とは全く関係ありません。
 本は、昭和10年代のはじめ、1940年(昭和15年)の「東京オリンピック」開催に奔走する職員の物語です。しかし彼も主人公ではありません。強いて主人公といえば、石原莞爾です。嘉納治五郎/石原莞爾/近衛文麿/昭和天皇の側近/などが登場します。
 歴史/史実/ではありませんが、おそらく西村京太郎が頭の中に描いた「イメージ」でしょう。あるいは日中戦争(「支那事変」と呼びました)を「やめさせたかった」彼の願いといってもいいかも。
 この本はミステリーでもなんでもありません。「こうなればよかったなー」/「ほんとうのスポーツマンシップが日本に根づいてほしい」/という気持ちで書いた本です。

 この本のほんとうの主人公は石原莞爾といっていいでしょう。彼は満州国を作ろうと「満州事変」を仕掛け、満州独立を企てた張本人です。ぼくは定年退職後の数年間、『満蒙開拓青少年義勇軍』について聞き取りをしました。このあたりの歴史をかなり読みました。
 石原莞爾は、この本では「アジア人の平和と繁栄を願う関東軍副参謀長」として描かれています。参謀長は東条英機です。西村京太郎の「願い」は、あの「大東亜戦争」にいたる「日中戦争」をやめさせたかった。そんな気持ちのあふれる小説です。
 ぼくはそう読みました。
 西村京太郎は、1930年(昭和5年)生れです。ぼくより7歳年上です。彼は、自伝によると、14歳のときに、東京陸軍幼年学校を受験しています。戦時中の幼年学校は上級軍人を育てるための超難関の登竜門でした。100倍の競争率でした。
 超難関の幼年学校生徒になった西村は、5カ月で敗戦をむかえます。大人たちは、手のひらを返したように民主主義を唱えます。彼は自伝のなかで、受験の動機を「どうせ戦争に行くなら、上級軍人にならないと。新兵はいじめられ、なぐられる」と書いています。
 あの時代の少年は、みんな「愛国少年」でした。作家の加賀乙彦は昭和18年に幼年学校に入学しました。そして愛国少年として勉学に励みました。日本の敗戦後「加賀少年は殉死する」幼年学校生を小説として書きました。『帰らざる夏』という等身大の作品です。
 海軍の予科練に志願した「愛国少年」で小説家の城山三郎は、訓練でさんざん殴られ、敗戦後「ぼくは廃墟になって生きた」と書いています。
 西村京太郎は幼年学校に入ったのに、まわりは愛国少年で「戦争で命をささげて死ぬ」思いが幼年学校中にあふれていた時代です。どう感じていたのでしょう。なんか、ひょうひょうとした感じもしますが。     (この項つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日も元気に外仕事!

2020年12月11日 00時22分03秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日の外仕事は裏山で。
 道子さんはテント台(『御休み処』と呼ぶことにしていますが、どきどき忘れてしまいます)前の土地を花壇にしようと奮闘しました。

 畳一枚ほどの地面ですが、「10センチの深さだけ花壇にしよう」と思っても笹の根がビッシリつまっています。そこに取りついて、ツルハシを振り上げて、笹の根を取りのぞきます。竹の切り株も数個あります。それはツルハシを何度も打ち込んで割ります。
「こんな仕事ができるのも今年が最後だから頑張る」というのが道子さんのセリフですが、ぼくは励ますのがいいのか。「腰にこたえるからやめとき」と言うのがいいのか。
 悩むほどでもないけど、写真を撮って、黙って見ています。
 ぼくは何をしたかというと、今日は「焼き芋」と「落ち葉炊き」。

 裏山の落ち葉の量は半端じゃないです。それを竹のレーキ(ガンジキ/熊手/サラエ)で集めて、「焼き芋」のあとの焚き火にかぶせます。ひとしきり燃えたら、また集めてかぶせる。それの繰り返しです。20回超もやったけど「どこを掃除したの?」という感じです。
 明日は畑に水をやります。長いこと雨が降りません。作物が水をほしがっています。午前中にやって地面に吸い込ませます。夕方はやれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋深し

2020年12月10日 01時20分00秒 | 古希からの田舎暮らし
 今日も焚き火をしようかな。
 裏山を歩くとそんな気持ちになります。今年は落葉が早く、里山の樹樹が坊主になっています。しかしうちの裏山の、コナラ/クヌギはまだ葉っぱをかなりつけています。

 イスにすわって、高い樹を見上げていると、「コナラくん、竹藪の中で、竹に負けないように、力いっぱい、頑張ったんだね」と声を掛けたくなります。
 地下で、竹の根とせめぎ合い、竹に負けないように背伸びして、竹を圧倒した。ふつうのコナラ/クヌギと背の高さがちがいます。
 葉っぱの色合いがいい。

 布のイスにもたれて、梢を見あげていると、葉っぱが落ちてくる。風もなく、音もなく、ヒラヒラでもなく、スーッと一枚、真っ直ぐ落ちてくる。あの空気感をどう表現したらいいでしょう。
 秋深し …… というしか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『照明の2020年問題』を勉強しています。

2020年12月08日 18時10分37秒 | 古希からの田舎暮らし
『照明の2020年問題』は数年前から言われていたそうです。でも電球が切れたり器具が故障したりしなかったので、まったく知りませんでした。
 ネットで検索してみるとこのテーマでいっぱい情報があります。いま照明で困っていることはないのですが、数年のうちに蛍光灯がLEDに替わるので、少し勉強しておこうと思います。
 今日ホームセンターに軽トラで行って、ブロックに打ち込む杭の材木を買いました。電気用品の売り場にまわってみたら、蛍光灯は山ほど売ってあります。当分無くなることはなさそうです。
 でもLEDのほうが電気代が安くなる。明るい。電球の寿命が飛躍的に長くなる。
 将来はLEDに切り替わるそうです。2030年には完全に。10年先のことです。
 その10年というのが、83歳の老人には微妙な問題なのであります。
 蛍光灯の器具につけるLEDの電球もあります。それでいけるなら、電球だけ替えればいい。でもそれは「危ない!」とも書いてある。
 先のことはあまり心配せんとこ。なんとかなるでしょう。
 もう少し勉強します。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蛍光灯は無くなるのか …… 。

2020年12月08日 01時46分16秒 | 古希からの田舎暮らし
 昨日の「東条ルミナリエ」(道子さんとぼくが勝手につけた名前)で写真を追加します。

 イエスは12月25日に馬屋で生れました。そんな照明人形があるのですね。
 大きな雪だるまもあります。

 照明はいいですね。こころが明るくなる。「光りにつつまれて死ぬ」「死んで光りのなかに入っていく」と思うと「なんかいい」。
 まえにこんな題名をつけた本を読んだことがあります。『死んだらゴミになる』。ある検事の書いた本だったと思いますが、たしかにそうかもしれない。多分そうでしょう。でも「そう言ってしまうとイヤ!」という気持ちです。

 ところでLED照明の器具故障で、ネットを見ていたら「蛍光灯は生産中止」が何年も前からネットに載っているみたいです。蛍光灯が無くなれば、いまの器具を全部LED用に替えなないと。
 そこで夜中に部屋/洗面所/台所/玄関/風呂/スタンド/を見たり、あとで自分でつけた蛍光灯がいくつあるか数えてみました。
 蛍光灯は全部で12個ついてます。蛍光灯の器具にはLEDはつきません。蛍光灯が点かなくなると器具を替えないといけない。
 そうか。世の中ではそんなことが進行していたのか。うちだけじゃなくて、どの家もそうなんだ。おそらく数年前までに建てた家は全部だ。「LED照明は高価だから蛍光灯でいい」と思っていたけど、いつの間にか安くなり、いつの間にか「蛍光灯生産中止」になってたんだ。
 長生きすると、いろんなことがあるなー。 なんというか。あーあ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

盛り沢山の一日でした。

2020年12月07日 20時08分18秒 | 古希からの田舎暮らし
 道子さんは裏山に『バラ園』をつくってみたくなり、ブロックを並べて土地造成中です。見えていませんが10センチ土を掘ると太い竹の根があります。ツルハシを振り下ろして切る。チョットやソットでは切れません。力いっぱい振り下ろす。何度か当って竹の根は切れます。

 午前と午後、二人でレッドロビンの垣根を剪定して片付けました。
 夕方、東条町・南山西の住宅に「東条・クリスマス・ルミナリエ」を見に出掛けました。
 今年は去年よりさらにきれいなクリスマス・ルミナリエでした。

 門の入り口に、「入って見てください」と掲示がありました。広い庭を歩きまわって、じっくり鑑賞してきました。家全体の照明です。

 一段低い土地も照明で飾られています。

 門を入ったところは光のトンネルになっています。

 近隣の方には「鑑賞してください」とチラシが入ったそうです。うちの村からでも峠を越えて見に行く価値はあると思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捨てるのは「もったいない」!

2020年12月06日 20時00分41秒 | 古希からの田舎暮らし
 下の畑をつくっていたとき、丈夫な材木で四輪のカートを作りました。老人会のお友だちに「足踏み式脱穀機」を借りるときに利用します。ところが下の畑はお返ししてしまいました。カートは使うあてがなくなり、前の畑に置いていました。
「車輪は丈夫で、まだ使える。なんとか活用できないか」
 ご褒美から帰った昨日、小屋にあったコロ付き台を手押し車にしました。(コロの小さい台車)

 手前が昨日作った台車で、向こうは道子さんがJAで買って、いま使っている畝間カートです。
 今日は手前の台車を大きな車輪に取り替えました。こんな大工仕事が大好きです。

 四輪のうち一つの車輪はタイヤがダメになっており、三輪車の台車にしました。今日は道子さんが「裏山に花壇をつくる」というのでホームセンターにコンクリートブロックを10個買いに行きました。帰ってからブロックを運ぶのに三輪台車を使いました。
 リビングの天井LED照明は点いたり点かなかったり。スイッチを押すときスリルがありますが、夜は点かないと困ります。で、新しく買った照明に替えました。天井からはずした照明は、電球切れでなく、まだ明るい。十分使えます。うまく点けば。
 立派に点灯するのに捨てるのか。もったいない。そうだ。小屋につけよう。
 というので小屋に取り付けてみました。

 明るい電灯がパッと点く。すぐ点かなくなるかも。
 しばらくこれでいきます。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご褒美をいただきました。

2020年12月05日 14時51分55秒 | 古希からの田舎暮らし
 小屋のことでこの2カ月ちかく、とてもよく働きました。昨日今日と、いつものご褒美をいただくために、宮津市に出掛けました。
 コロナ禍のせいでもないでしょうが、蟹さんはちょっと貧相だったので写真はありません。舞鶴道の上荒川パーキングエリアから福知山の六人部パーキングエリアまでは往復とも道子さんの運転。ぼくは残りの舞鶴道・単線区間と京都縦貫道を運転して、無事に帰ってきました。
 GO TO トラベル のせいでしょう。お客さんはいっぱいでした。日本中みんなが、あちこち動いてるのですね。実感しました。
 もう一つご褒美をもらいたかったのですが、こちらはチケットが手に入らず、あきらめます。音楽会で、千住真理子のバイオリン/テレマン室内オーケストラ/でヴィヴァルディの『四季』です。会場は太子町立文化会館「あすかホール」。テレマン・アンサンブルは神戸に住んでいたときに何度も何度も聴きました。神戸の博物館ロビーでの演奏/外国人クラブでの演奏/風見鶏(異人館)での演奏/山手キリスト教会での演奏/国際会館や文化ホール/三木に移ってからは西宮の芸文センターでの演奏会などあちこちの演奏会に行きました。
 テレマン・アンサンブルをまた聴く機会があればいいな。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LED照明が故障しました。

2020年12月04日 01時59分34秒 | 古希からの田舎暮らし
 一カ月まえの夕方です。うす暗くなり、リビングの電気を点けました。
「アレッ?」 点きません。おかしいな。LED電球が切れたのだろうか。いや、切れるはずない。
「40000時間もつ」と書いてありました。「80歳近いオレだから、一生大丈夫だ」と思って付け替えたのです。
 照明にはリモコンがついていたけど、ややこしいから使いません。壁のスイッチが壊れたのでしょうか。天井の電灯は三路スイッチになっています。何度もパチパチやりましたが点きません。
 脚立をもってきて、天井の照明のカバーをはずしてみました。しかし見ても何もわかりません。道子さんが壁のスイッチにさわったら「パッ!」と点きました。
「なんだ。電球が切れたのじゃないのか」
 それからしばらく、何の支障もなく点けたり消したりして暮らしていました。しかし、ときどき点かなくなります。そのたびに壁のスイッチをパチパチやっていました。しばらくしてまた点くことがあります。
「これは三路スイッチの具合がわるいのだな。一度電気屋さんにみてもらおう」
 電気屋さんに三路スイッチを取り替えてもらいました。すると調子よく点きます。
「これで大丈夫だ」と安心して暮らそうと思っていたら、また点かなくなりました。
 そこでネットで「LED電灯の故障」をチェックしてみました。すると書いてあるある。
 LEDライトは切れないけど、器具のほうは故障するんですって。そうか。
 故障を直すのは大変だから、買い替えるのがいいみたいです。
 そういえば昔は年末になると「蛍光灯の球を替えよう」と宣伝してたな。一生涯電球が切れないんじゃ、電気屋さんも大変だろうし。 
 ま、仕方ないか。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小屋の屋根補修はすべておしまいです。

2020年12月03日 16時25分13秒 | 古希からの田舎暮らし
 プールライナーをブチルテープでとめながら、小屋の屋根をおおいました。破風の処理も、家との間のシートも貼りました。仕上げにシートをシリコンで接着しました。これでこのたびの屋根補修作業はすべて完了です。
 さらに、窓からの眺めをよくするために、花のプランターを置く「桟」を作りました。家との間は斜めになっていますから、プランターを置く面は水平になるように。
 花のプランターを仮置きしてみました。

 この窓は真南向きですが、小屋の屋根しか見えないし、屋根が粗末なのでずっとカーテンをしめていました。プランターを置くと感じがちがいます。
 仏壇を置いている六畳の部屋ですが、居心地がよくなります。

 はじめは「小屋の棚をなんとかできないか」と思いあぐねていました。修理するといっても大きく壊れているし、雨ざらしで放置してきたし、「やる気」が出ませんでした。瞑想中に「修理でなく撤去してはじめからやり直す」と思いついてから、このたびの大仕事は動きはじめました。
 棚ができ、家との間の雨をふせぎ、棚を整理した。 …… そこまでが第一段階でした。
 屋根の端が朽ちているのを見て、補修をあれこれ思案しました。「屋根の葺き替え」は大工事で無理。業者にやってもらうにしては小屋が粗末すぎる。そこでまた瞑想中に「プールライナー」を思いつきました。屋根作業は不安でしたが、「安全ロープを持ってもらうのでなく、便所の手すりにロープをとめる。手もとでロープの張りを確かめながら仕事をする。しっかり支えられてる気持ちになる」が大きな安心になり、シート敷き込みができました。
 去年の今ごろは、まだ手術した膝が完治していなくて、こんな仕事は無理でした。今年だからできた。いろんなことがうまくいきました。ありがとうございます。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福地池の水を抜いたところです。

2020年12月02日 01時34分54秒 | 古希からの田舎暮らし
 2006年12月、いまの家が完成して引っ越しました。あれから15年になります。新築の家に、いろんな方に来ていただきました。その中に、龍/神/霊/とかいうようなことに鋭敏な方がおられました。
 その方に、「福地池には龍神さまがおられます。お酒/お塩/玉子/を池にお供えして拝まれるといいです」といわれました。
 この地で暮らすようになって、土地の方に話をききました。
 我が家から150メートル山奥に入ると蛇ガ池(ジャガイケ)があります。「むかし、蛇がこの池から隣り村の山にのぼり、龍になって天に昇った」。その龍を感じられたのかもしれません。
 福地池はうちの村にある九つの溜め池のなかで一番大きく、立派です。「むかし福寿坊というお坊さんが堤の築き方を村人におしえ、自分が人柱になって池を完成させた」という伝説の池です。
 福地池は毎年秋に水を抜いて手入れします。今年も。池をまわって写真を撮りました。

 動物の足跡が干した池についています。ヌートリア/イノシシ/アライグマ/冬鳥/でしょうか。いま龍神さまはどこにおられるのでしょう。年末ですし、今年の感謝をこめて、龍神さまにお参りしようと思っているのですが …… 。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする