今朝の朝日の天声人語。
「ものごとが判然とせず曖昧なさまを混沌と言う。もとは中国の古典「荘子」に出てくる、のっぺらぼうの帝王のことだ」と書き出す。
「ものごとが判然とせず曖昧なさまを混沌と言う」と、自信たっぷりに断じられると、知らない人は「そうですか」と拝聴せざるをえなくなる。しかし、「混沌」にこのような意味を与えるものは、だれもいないはずだ。「荘子」のどこにも、こんな意味は書いていない。角川の国語辞典でも「混沌」はカオスと書いてある。
荘子の「混沌」の話はおもしろいので読んでほしいけど、要するに、混沌とは、秩序ずけ、分析されることを拒む、生きたる実態、自然そのもの、生命体そのもの、といってよく、その生命にいたずらに知のメスを加えると、生命は死んでしまう、という話だ。たとえは悪いけど、あの生き生きとした百姓一揆が、学者の分析や理論で説明が試みられると、その生き生きとしたエネルギーは死んでしまうようなものだ。
なぜ、筆者は、わざわざ荘子の混沌説を「曖昧なるさま」とこじつけるのか。
サミットが曖昧な結果に終わったからだ。その曖昧さを肯定したいからだ。
「無理に目鼻を書こうとすれば、会議そのものを「荘子」の混沌のように葬りかねない」と書く。曖昧で終わった。しかし、それもしかたがない、と書けばよいものを、筆者はわざわざ「荘子」を持ってこなければならないのだ。
「かくして3日間の会合は終わり、サミットというカンバスに、「温暖化対策」の絵は描かれた。傑作なのか、凡作か、それとも駄作なのかは分かりにくい。いずれにしても抽象画である。首相は自画自賛の様子だが、さて、42年の後にどう評価されるだろう」とくる。あんたが、今、評価してみなさいよ。古代の「荘子」を引用し、今度は、未来にゲタをあずける。
しかも、だ。「ところで」と最後の数章で話をかえ、混沌とは、「ありのままの自然」とも解釈でき、「その自然を、人間の営みが死においやる。悲劇を防ぐ取り組みは、いつまでも曖昧ではすまされない」と文を結ぶ。
支離滅裂、無責任きわまる。へどが出そうだ。
「ものごとが判然とせず曖昧なさまを混沌と言う。もとは中国の古典「荘子」に出てくる、のっぺらぼうの帝王のことだ」と書き出す。
「ものごとが判然とせず曖昧なさまを混沌と言う」と、自信たっぷりに断じられると、知らない人は「そうですか」と拝聴せざるをえなくなる。しかし、「混沌」にこのような意味を与えるものは、だれもいないはずだ。「荘子」のどこにも、こんな意味は書いていない。角川の国語辞典でも「混沌」はカオスと書いてある。
荘子の「混沌」の話はおもしろいので読んでほしいけど、要するに、混沌とは、秩序ずけ、分析されることを拒む、生きたる実態、自然そのもの、生命体そのもの、といってよく、その生命にいたずらに知のメスを加えると、生命は死んでしまう、という話だ。たとえは悪いけど、あの生き生きとした百姓一揆が、学者の分析や理論で説明が試みられると、その生き生きとしたエネルギーは死んでしまうようなものだ。
なぜ、筆者は、わざわざ荘子の混沌説を「曖昧なるさま」とこじつけるのか。
サミットが曖昧な結果に終わったからだ。その曖昧さを肯定したいからだ。
「無理に目鼻を書こうとすれば、会議そのものを「荘子」の混沌のように葬りかねない」と書く。曖昧で終わった。しかし、それもしかたがない、と書けばよいものを、筆者はわざわざ「荘子」を持ってこなければならないのだ。
「かくして3日間の会合は終わり、サミットというカンバスに、「温暖化対策」の絵は描かれた。傑作なのか、凡作か、それとも駄作なのかは分かりにくい。いずれにしても抽象画である。首相は自画自賛の様子だが、さて、42年の後にどう評価されるだろう」とくる。あんたが、今、評価してみなさいよ。古代の「荘子」を引用し、今度は、未来にゲタをあずける。
しかも、だ。「ところで」と最後の数章で話をかえ、混沌とは、「ありのままの自然」とも解釈でき、「その自然を、人間の営みが死においやる。悲劇を防ぐ取り組みは、いつまでも曖昧ではすまされない」と文を結ぶ。
支離滅裂、無責任きわまる。へどが出そうだ。