虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

牽強付会

2008-07-10 | 新聞・テレビから
今朝の朝日の天声人語。
「ものごとが判然とせず曖昧なさまを混沌と言う。もとは中国の古典「荘子」に出てくる、のっぺらぼうの帝王のことだ」と書き出す。

「ものごとが判然とせず曖昧なさまを混沌と言う」と、自信たっぷりに断じられると、知らない人は「そうですか」と拝聴せざるをえなくなる。しかし、「混沌」にこのような意味を与えるものは、だれもいないはずだ。「荘子」のどこにも、こんな意味は書いていない。角川の国語辞典でも「混沌」はカオスと書いてある。

荘子の「混沌」の話はおもしろいので読んでほしいけど、要するに、混沌とは、秩序ずけ、分析されることを拒む、生きたる実態、自然そのもの、生命体そのもの、といってよく、その生命にいたずらに知のメスを加えると、生命は死んでしまう、という話だ。たとえは悪いけど、あの生き生きとした百姓一揆が、学者の分析や理論で説明が試みられると、その生き生きとしたエネルギーは死んでしまうようなものだ。

なぜ、筆者は、わざわざ荘子の混沌説を「曖昧なるさま」とこじつけるのか。
サミットが曖昧な結果に終わったからだ。その曖昧さを肯定したいからだ。
「無理に目鼻を書こうとすれば、会議そのものを「荘子」の混沌のように葬りかねない」と書く。曖昧で終わった。しかし、それもしかたがない、と書けばよいものを、筆者はわざわざ「荘子」を持ってこなければならないのだ。

「かくして3日間の会合は終わり、サミットというカンバスに、「温暖化対策」の絵は描かれた。傑作なのか、凡作か、それとも駄作なのかは分かりにくい。いずれにしても抽象画である。首相は自画自賛の様子だが、さて、42年の後にどう評価されるだろう」とくる。あんたが、今、評価してみなさいよ。古代の「荘子」を引用し、今度は、未来にゲタをあずける。

しかも、だ。「ところで」と最後の数章で話をかえ、混沌とは、「ありのままの自然」とも解釈でき、「その自然を、人間の営みが死においやる。悲劇を防ぐ取り組みは、いつまでも曖昧ではすまされない」と文を結ぶ。

支離滅裂、無責任きわまる。へどが出そうだ。

大原騒動

2008-07-08 | 一揆
大原騒動については、昔、高山に旅行した友人からもらった「大原騒動と本郷村善九郎」という小冊子しか持っていない。この小冊子は、萬葉祐一という本郷村の善九郎(萬葉善九郎)から八代あとの御子孫(といっても血のつながりはないらしい)が書いたものだ。小冊子だけど、よくまとまっていて、貴重な本だ。

これを読むと、善九郎の生家は、昭和46年に新穂高に移転され、上宝村民俗館として復元された、とある。しかし、今、ネットで調べると、上宝村民俗館はない(平湯民俗館はあるが)。ネットで調べると、本郷村に、「萬葉館」という喫茶(陶器、ソバ屋も兼ねる)があり、ここは、善九郎の生家だという。

郡上一揆は有名だが、飛騨の大原騒動は、今、風化されつつあるのではなかろうか。ネットで「大原騒動」を検索すると、たった1500件くらい(郡上一揆は5万5000件、武左衛門一揆は7万6000件なのに)。

地元の歴史館みたいなところで上映する本郷村善九郎の映画(50分)もつくられているようだ。この映画で善九郎になったのが、菅原文太の息子さん。しかし、文太さんの息子さんは、撮影直後に亡くなったらしい。

飛騨高山では、明治初年に「梅村騒動」という明治新政に反対する一揆もあった。これを題材にした飛騨出身の江馬修の「山の民」は「歴史小説の傑作」といわれているのに、しかし、今の飛騨では、話題にのぼることもないようだ。飛騨人は一揆についてどう思っているのだろう。

飛騨にいったら、善九郎の映画をみてみるつもりだ。飛騨にいけるのは、ちょうどお盆になりそう。交通渋滞が心配だ。

飛騨へ

2008-07-06 | 日記
お盆休みには飛騨の旅を計画している。
まだまだ先の話だが、楽しいことばかり先に考えてしまう。

夏のお盆のシーズンは宿代も割り増しになる。で、すこし、あとにずらしたが、それでも夏料金だとかで高い。で、ネットで安い民宿やビジネスホテルを探した。
夕食の飛騨牛なんていらぬ。朝食だけでいいのだ。

高山には以前、車で通って、陣屋とか朝市は寄ったことがあるが、じっくり見たことはない。飛騨は、世界遺産になっている合掌集落があるし(ここはいったことがない)、円空仏もあるし、なによりも飛騨騒動がある。ガソリン代も高騰しているので、2泊くらいの低予算でいく。

図書館で、「るるぶ」とかの観光案内の本を何冊か借りてきたが、やっぱり、どこにも飛騨の一揆の話は書いていない。本郷村善九郎さんの生家なども訪ねてみるつもりだ。

飛騨といえば、「夜明け前」の青山半蔵が、明治後、しばらく宮司をしていたのが、飛騨一宮水無神社だ。ここは、大原騒動の舞台になった場所でもある。青山半蔵は、ここの宮司をしているとき、東京に出て、天皇の馬車に扇子を投げ渡す献扇事件をおこす。のち、田中正造も天皇の直訴事件をおこすが、今から考えると、天皇巡行の警備もゆるやかだったのだな、と思う。田中正造はすぐに釈放され、青山半蔵も軽い罰金だけですんでいる。今なら、とても近づけないだろう。

サミットの警備もものものしいが、今日、近くの図書館の広い駐車場前で、十数人が核反対ののんびりした集会、よびかけをしていたが、まわりには監視する警官の姿が。どんな小さな集会、デモにも最近は、警官が監視に立っている。


韓国特派員

2008-07-02 | 新聞・テレビから
今日の朝刊(朝日)に特派員メモとして、昨日だったか、【韓国のサイバー暴力」についてレポートを書いていた稲田清英氏のコラムが出ていた。韓国からの特派員メモということだ。韓国の牛肉輸入をめぐる反政府集会は、韓国の現代を考える上で、とても重要な現代史だと思うのだが、筆者には、そういう問題意識はないこを白状している。

妻と外出し、タクシーにのって家に帰る途中、デモによる通行止めにあい、「楽しい気分が一気に冷めた」と書く。この記者の家は、職場から歩ける距離にあるようだが、どうもいつも、タクシーに乗って家に帰っているようだ。デモのため、連日の遠回りと抜け道探しで、周りに雰囲気のいい食堂をいくつか見つけたのが、せめてもの救いか」で文を終わる。見出しは、「通行止めの効用」。

記者ならば、すぐ近くで行われている抗議集会をなぜ執拗に追い続け、真相をあきらかにしようとしないのか、こんな記者冥利につきる現場に立ち会うチャンスはめったにないはずだろう。高給取りで、毎日、タクシーにのって自宅に帰る御仁なのかもしれないが、しかし、特派員メモに、抗議集会の内容を書かずに、まるで一般人みたいな通行止めの話を書いて恥ずかしいとは思わないのだろうか。


暗殺者のメロディ

2008-07-01 | 映画・テレビ
今度、8月31日(日)にBSでやるらしい。
トロツキーにリチャード・バートン。暗殺者ラモン・メルカドルにアラン・ドロン。トロツキーの女秘書にロミー・シュナイダー。
暗殺者は、トロツキーの秘書の恋人になりすましてトロツキーに近づく。
昔、映画館で見たけど、もう1度、見よう。

サイバー暴力

2008-07-01 | 新聞・テレビから
ガソリン1ℓ182円になっていた。食料品、電気、ガスなどの値上げもこれから続く。まったく解決のメドもない年金、天引きされる後期高齢者の保険、まさに生活が破壊されているのだが、政府はまったく無策、何の対策もしようとはしない。ただ、放置。日本人はおとなしいのか・・・。

今朝の朝日の「政態拝見」という星浩のコラム。福田政権の難題は、として、北朝鮮、環境、税の3つをあげている。これが、「ねじれ国会」の続く難題だという。いつもながら、まったく、庶民の生活感覚、問題意識を失った政治屋コラムニスト。

同じ日の記事だが、「深刻 サイバー暴力」として、韓国の牛肉輸入の抗議集会は、サイバー暴力ではないかと思わせるような記事。ネットでの不確かな情報が女子供を煽動してしまった、と思わせるではないか。抗議集会やデモをする者に対する偏見、愚民観があるのではないか。この記事を書いたのは、ソウルの稲田清英氏。ネット先進国の韓国で、サイバー暴力がふえているのはたしかかもしれないが、「牛肉輸入抗議」もその中に入れてしまうのか?こんな朝日に毎月、4000円以上与えていいのだろうか。こんな記事もサイバー暴力になるのかも。