虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

市村敏麿41 晩年

2008-05-04 | 宇和島藩
敏麿は、大正7年5月29日、宇和島市須賀通りの家で死亡。80歳。
大正7年に入り、食道癌にかかり、食物摂取が困難となり、漸次、衰弱し、痩せ衰え、5月29日午前4時永眠。葬儀は、5月31日宇和島中間八幡神社官渡部氏により、神式をもって、龍光院市村家墓地に埋葬。
生前の命名。

天籟梓園厳鉾言別彦命(アマツブエアズサソノイカシボココトワケヒコノミコト)

墓にはこの文字だけ刻まれている。

晩年、30年近く生きたわけだが、敏麿が何をして生活していたかはまったくわからない。赤貧あらうがごとき極貧の生活をしていたことはたしかなようだ。藩士時代に殿様から拝領した着物も、庄屋時代に先祖から代々伝わってきた財産も、家屋敷、土地も、すべて無役地裁判闘争に投入した。

「敏麿の面影」では、敏麿の長男田中操氏のこんな記述がある。

「ちなみに、小生、医学に志し、大正元年8月下旬、初めて東上せる際には、父敏麿より、大井憲太郎氏へあてたる依頼状を持って当時東京牛込箪笥町に居住せられしを訪ねて行きましたが、老齢にて世話も難きにつきとて、弟子であった当時政友会代議士小久保喜七氏の依頼状を貰い、四谷の宅へ訪ね行き、いろいろお世話になりました。小久保氏は役地事件にて大井氏と共に宇和島へ来た人で、後には貴族院勅撰議員となり政友会の長老になりました」

大正までつきあいのあった大井憲太郎も大正11年に貧窮のうちに死亡。このころは、大井も世間からすっかり忘れられた存在になっている。

「敏麿の面影」の付録の中に、熊本県在住の大野通夫氏から手紙があり、こんなエピソードを書いている。

「父につれられ翁の落魄した陋屋を訪ねたとき、声は朗らかで、明瞭、大志に生きるという感じだった。「貧乏はしているが、甘藷さえ食っていれば立派に生きていけるから結構なものだよ」呵呵大笑されたのが、印象深い」

裁判闘争に敗れ、貧窮の暮らしをしながらも、自分の生き方にいささかの後悔もしなかったようだ。

画像は大正7年5月16日午後5時撮影。老病が癒えざるを悟り、記念として自宅で撮影させたようだ。この13日後に亡くなる。自分の死期を知り、袴羽織を着て最後の写真をとらせるとは、なんと覚悟のできた人ではないか。草莽としての人生を貫き通したといえる。

以上、「市村敏麿の面影」から、その生涯をおおざっぱにメモしてみた。裁判内容など、他の史料などもまだあるようで、わからないこと探索しなければならないことはまだまだある。これからも、おりにふれ、わかったことや気のついたことは、随時、メモすることにして、とりあえず、ここらで一度、おやすみします。

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