虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

郷原と狂狷

2007-05-19 | 日記
大塩平八郎の自著「洗心洞剳記」にこんなことが書いてある。
孔子の高弟70人、弟子3000人。数は多いようだが、天下四海から見れば微々たる数。なぜだろう?なぜ少ないのか疑問だった。しかし、論語、孟子を熟読してわかった。孔子は、中庸の人(理想的な人物)が得られない場合、その次は狂狷(きょうけん)だ、といった。そうだ。狂狷は明けがたの星の数よりも少ないのだ。そして、孔子は「郷原(きょうげん)は徳の賊なり」と憎んだ。郷原は天下の人みなそうなのだ。だから、弟子が少なかったのだと。

大塩平八郎ももちろん、狂狷の人だろう。漱石の「野分」の主人公白井道也なんかも仲間だ。頑固で、人付き合いがよくなく、言葉は俗流を離れ、親しみやすくはない。

郷原と狂狷については、孟子尽心篇が詳しい。
郷原とは何か。孟子はいう。
「これを非(そし)らんとするも、とりあげるものなく、これを刺(そし)らんとするも、そしるものなし。流俗に同じくし、汚世に合わせ、居ること忠信に似、行うこと廉潔に似たり。衆はみな悦び、自らもよしとおもえるも、しかも堯舜の道には入るべからず」(金谷治「孟子」)
郷原とは、これといって非難のうちどころがなく、人々からも親しまれ、自分でも満足している偽君子ということか。

では、狂狷とはどんな人か。孟子は答える。
「狂とは、その志はほこらしげにして、「古えの人、古えの人」と昔の人のことを言うが、その行動を見ると、言葉と一致しないところがある。この次が狷。不義をいさぎよしとしない士」「狂なる者は進み取り、狷なるものは、なさざるところあり」ともいう。どうも、狂とは、大言を吐き、行動も積極的、狷は頑固偏屈で、消極的なようだ。どちらも、流俗からはみ出ていて、変わり者だ。

しかし、孔子は郷原の紳士よりも、こうした変わり者を愛した。世に道を志す以上、世の中と合わず、対立して変物になるのも当然だろう。

狂狷とは夜明けの星よりも少なく、なぜ天下の人がみな郷原になるのだろう。孔子も大塩もそこまでは書いていないが、わたしは、「あなた」と呼ぶ細君の声だと思うがどうだろう(笑)。

漱石の「野分」にある。「しかし、天下の士といえども、食わずには働けない。よし自分だけは、食わんですむとしても、妻は食わずに辛抱する気遣いはない。豊かに妻を養わぬ夫は、妻の眼から見れば大罪人である」

まずは、身近な家族を養わなくてはいけない。まず、食わなくてはいけない。この社会問題が古来、天下の士を悩ませた。うーむ。


教育三法成立と漱石

2007-05-19 | 新聞・テレビから
漱石の「坊ちゃん」は学校に赴任して校長から、教育の精神について話を聞かされて、「とうてい、あなたの言う通りにはできません。この辞令はお返しします」と答える場面がある。校長は「それはわかっているから心配しなくてもいい」と笑うが、今の国は、わらわずに本気で教師に上から命じたいらしい。

教師の人間を信用できない。個々の教師の信念にもとづいた教育を許さない。教師は管理し、指導されるべき存在である。そう思っている。学校に、管理職をふやし、給料の額も変えてやる気をださせ、10年ごとに、免許を更新させて、適格かどうかを審査するという。だれが、教師になるだろうか。上から指導される教師像などありえない。こんな侮辱にたえる教師とは何者だろうか。

同じく漱石の「野分」。主人公白井道也は中学校を3回追われる。
1回目は、越後の石油の名所。町は石油会社のおかげで維持されている。主人公は、会社の役員の品性を批判する。つまり、金の力と品性は別だといった。町の父兄から文句が出、生徒からも馬鹿教師といわれ、そこを去る。

2回目は、九州の工業地帯。この町でも実業家からいわれる。蒼い顔をして、世の中がどうの、社会がどうの、未来の国民がどうの、不生産的な議論をして、実業家をそしるのはけしからぬ。その金を作ってくれる実業家を軽んじるなら食わずに死んでみるがいい、といわれる。主人公は飄然と去る。

3回目は、中国地方田舎。あるとき、旧藩主(華族)が学校を参観にきた。この旧藩主は町のものからは神様のような存在である。この藩主が教室に入ってきたとき、白井道也は、別に意にとめず、そのまま授業を続けた。いくら旧藩主でも、授業を中断させる権利はない。「教場は神聖である。教師が教壇に立って業を教えるのは、侍が物の具に身を固めて戦場に臨むようなものである」という気持ちからだ。これが物議をよび、白井道也は頑愚と嘲罵され、三度飄然と去り、学校をやめる。

神聖な教室に、実業家や政治家が土足で入りこんできて教室を破壊し、教室から真の教育者を追放しているのが、今の教育改革だろう。

「野分」の白井道也はこう訴える。

「諸君は覚悟をせねばならぬ。勤皇の志士以上の覚悟をせねばならぬ。斃るる覚悟をせねばならぬ。太平の天地だと安心して、拱手して成功をこいねがう輩は、行くべき道に躓いて非業に死したる失敗の児よりも、人間の価値は遥かに乏しい。
諸君は道をおこなわんがために、道を遮るものを追わねばならん。彼らと戦うときに始めて、わが生涯の内生命に、勤皇の諸士が敢えてしたる以上の煩悶と辛酸とを見出しうるのである。」