明治24年大井憲太郎と共に宇和島にやってきた壮士たちの中に、大阪事件に関わりを持った人物が 大井をふくめて4人いる。小久保喜七、山本鹿蔵、伊賀我何人もそうだ。
明治18年自由党大阪事件。よくわからない。
福島事件、高田事件、加波山事件、静岡事件、飯田事件など自由党激化事件の最後のものとして位置ずけることもできるし、一方、自由民権から離れた侵略のお先棒担ぎになっってしまった、と大井憲太郎を非難する評者もいる。
事件は、爆発物をもって朝鮮に渡航する前に大井の仲間が逮捕され(裏切りがある)、事件は未然に終わったのだが、朝鮮の独立党を支援し、清国からの支配から解放し、朝鮮に自由民権社会を実現しようとするものだった。むろん、清国は黙っていない。日本と清国は険悪になり、国民の中に危機感が生まれ、社会刷新の機運が出てくるだろう。その勢いで、専制政府を倒そうとする。こういうものだろうか?なんだか幕末の志士が攘夷行動をして、幕府を弱らせ、その攘夷のエネルギーで幕府を倒そうとした策にも似ている。
大井がこんな計画に同意したのも、自由民権派が弾圧に次ぐ弾圧で、民権派の出口が見つからなかった状況もあるにちがいない。自由党はすでに解党し、秩父事件の翌年の事件だ。
この大阪事件には秩父事件に参加した落合寅市もいる。北村透谷の親友大矢正夫もいる。北村透谷は、その資金集めの参加を求められて断り、運動から離脱してしまう。村野常右衛門もいる。日本で最初の女性革命家といえる福田英子も爆弾運び屋になる。福田英子は、獄中で大井憲太郎に求婚され、その後、離婚、晩年は田中正造のよき援助者になる。
裁判をした大阪控訴院の院長は児島惟謙だ。なかなか興味深い。しかし、真相は今日でもよくわからないらしい。
大井の顔は広い。中江兆民らと親しいのは当然だが、宮崎滔天とも高徳秋水とも会っている。葬儀委員長になったのは、頭山満だ。
ふだんは、貧しい者の味方で、よい男なのだが、酒を飲むと、暴れるらしい。「大井憲太郎などが非常にあばれて皿をこわすこと三百有余、ふすまを壊すこと何十本、というくらいで、なかなか非常なことをやった」「一度酒を飲めば別人のごとくなる」「ごうも傲慢の風あるにあらず、実にたんたんたる愉快の気象をもてる人にて、特に修飾を好まず、また、もっとも腕力を重んず」などの評言もある。
愛人への手紙をまちがえて自分のヨメさんに出したという逸話もたしかこの男だ。
フランス学をやった洋学紳士のはずだが、豪傑君だったのだろう。
大井の死を報じる読売新聞の記事を引用する(大正11年10月17日)
「政界往年の大立物馬城将軍大井憲太郎翁(80)が15日午前11時に死んだ。同じく自由党の三傑といわれた人でも星亨氏のあの英雄的な最期、功なり名をとげたという形の河野広中翁の現在の境遇、それに比べれば、世間からはまったく忘れられて逆境に沈みながら、牛込甘騎町の形ばかりの寓居に数年越しの半身不随の身を病床に横たえ、さびしく死を待っていた翁の晩年こそ真の悲惨の極みである。それでも頭山満翁や森久保作造氏などは旧情をいだいて時々病床を訪れていた。ことに頭山翁はその臨終に立ち合っていたが、「数年越し不自由がちに病床にありながらも死ぬまでごうも不平不満苦悩の状を見せず、まったく安心しきって天命を待つというような覚悟の体を見せていたのはさすがに大井だ」と非常に感動していたということだ」(あとは、その経歴を概説しているが、長くなるので、略)
見出しは、「死んだ馬城将軍 大井憲太郎氏は労働問題の先駆者だ」
葬儀は、東京神田のニコライ堂でおこなわれる。大井は長崎時代に日本で一番古いキリスト教に入信していたそうだ。
大井憲太郎、幕末から大正の普通選挙運動、労働運動にまでつながる実に興味深い人物だが、研究書、人物伝というものは、平野義太郎のものしかないそうだ。もっと多方面から注目されてもよい人物だと思うのだが、この人も抹殺された一人だろう。大井憲太郎の憲は、憲法の憲から自分がつけたもので、日本人で最も早く憲法を大切に考えた一人かもしれない。
画像は、丹波達身寺の、捨てられていた仏像群。本文とは関係なかったね。
明治18年自由党大阪事件。よくわからない。
福島事件、高田事件、加波山事件、静岡事件、飯田事件など自由党激化事件の最後のものとして位置ずけることもできるし、一方、自由民権から離れた侵略のお先棒担ぎになっってしまった、と大井憲太郎を非難する評者もいる。
事件は、爆発物をもって朝鮮に渡航する前に大井の仲間が逮捕され(裏切りがある)、事件は未然に終わったのだが、朝鮮の独立党を支援し、清国からの支配から解放し、朝鮮に自由民権社会を実現しようとするものだった。むろん、清国は黙っていない。日本と清国は険悪になり、国民の中に危機感が生まれ、社会刷新の機運が出てくるだろう。その勢いで、専制政府を倒そうとする。こういうものだろうか?なんだか幕末の志士が攘夷行動をして、幕府を弱らせ、その攘夷のエネルギーで幕府を倒そうとした策にも似ている。
大井がこんな計画に同意したのも、自由民権派が弾圧に次ぐ弾圧で、民権派の出口が見つからなかった状況もあるにちがいない。自由党はすでに解党し、秩父事件の翌年の事件だ。
この大阪事件には秩父事件に参加した落合寅市もいる。北村透谷の親友大矢正夫もいる。北村透谷は、その資金集めの参加を求められて断り、運動から離脱してしまう。村野常右衛門もいる。日本で最初の女性革命家といえる福田英子も爆弾運び屋になる。福田英子は、獄中で大井憲太郎に求婚され、その後、離婚、晩年は田中正造のよき援助者になる。
裁判をした大阪控訴院の院長は児島惟謙だ。なかなか興味深い。しかし、真相は今日でもよくわからないらしい。
大井の顔は広い。中江兆民らと親しいのは当然だが、宮崎滔天とも高徳秋水とも会っている。葬儀委員長になったのは、頭山満だ。
ふだんは、貧しい者の味方で、よい男なのだが、酒を飲むと、暴れるらしい。「大井憲太郎などが非常にあばれて皿をこわすこと三百有余、ふすまを壊すこと何十本、というくらいで、なかなか非常なことをやった」「一度酒を飲めば別人のごとくなる」「ごうも傲慢の風あるにあらず、実にたんたんたる愉快の気象をもてる人にて、特に修飾を好まず、また、もっとも腕力を重んず」などの評言もある。
愛人への手紙をまちがえて自分のヨメさんに出したという逸話もたしかこの男だ。
フランス学をやった洋学紳士のはずだが、豪傑君だったのだろう。
大井の死を報じる読売新聞の記事を引用する(大正11年10月17日)
「政界往年の大立物馬城将軍大井憲太郎翁(80)が15日午前11時に死んだ。同じく自由党の三傑といわれた人でも星亨氏のあの英雄的な最期、功なり名をとげたという形の河野広中翁の現在の境遇、それに比べれば、世間からはまったく忘れられて逆境に沈みながら、牛込甘騎町の形ばかりの寓居に数年越しの半身不随の身を病床に横たえ、さびしく死を待っていた翁の晩年こそ真の悲惨の極みである。それでも頭山満翁や森久保作造氏などは旧情をいだいて時々病床を訪れていた。ことに頭山翁はその臨終に立ち合っていたが、「数年越し不自由がちに病床にありながらも死ぬまでごうも不平不満苦悩の状を見せず、まったく安心しきって天命を待つというような覚悟の体を見せていたのはさすがに大井だ」と非常に感動していたということだ」(あとは、その経歴を概説しているが、長くなるので、略)
見出しは、「死んだ馬城将軍 大井憲太郎氏は労働問題の先駆者だ」
葬儀は、東京神田のニコライ堂でおこなわれる。大井は長崎時代に日本で一番古いキリスト教に入信していたそうだ。
大井憲太郎、幕末から大正の普通選挙運動、労働運動にまでつながる実に興味深い人物だが、研究書、人物伝というものは、平野義太郎のものしかないそうだ。もっと多方面から注目されてもよい人物だと思うのだが、この人も抹殺された一人だろう。大井憲太郎の憲は、憲法の憲から自分がつけたもので、日本人で最も早く憲法を大切に考えた一人かもしれない。
画像は、丹波達身寺の、捨てられていた仏像群。本文とは関係なかったね。