虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

大塩と荘子と顔回

2008-12-23 | 読書
白川静「孔子伝」の中の「儒教の批判者」という章だけ読んでみた。

「儒家に対するきびしい批判者とされる荘子は、その精神的系譜からいえば、むしろ孔子晩年の思想の直系者であり、孟子は正統外の人である。孟子はみずから「孔子に私淑するもの」と称したが、私淑という点では、むしろ荘周の方が深いともいえるのではないか」とある。

ふつう、老荘といい、老子と荘子を共にし、孔孟といって、孔子孟子を共にくくり、老荘は孔孟に対立するものとされていたが、この説はわたしにはうれしい。荘子も孔子も好きだから。

そして、孔子晩年の思想とは何か。それは孔子の最愛の弟子、顔回の思想をさす。
顔回。孔子すら、わたしも及ばない、といい、「後世、畏るべし」といわしめた弟子だが、若くして死に、孔子は大声をあげて泣き、「天、われを滅ぼせり」と天をもうらんだほどだ。顔回は、ほとんど隠者であり、老荘の雰囲気ががたしかにある。「能もって不能に問い、多きをもて、とぼしきに問い、有れども無きがごとく、実つれども、虚しきがごとく、おかされても、あらがわず」といわれた顔回。

「荘子」の中にも、顔回は孔子との問答で何度も登場している。そうか、顔回の思想を継いだのが荘子か、と思った。

大塩平八郎は孔孟の徒で、儒学者だが、かれは老子や仏教を批判はするが、荘子にはかなり好意的だ。かれの主著でも「荘子は老子と同じくして異なり、孔子と異にして同じ」という古人の言葉を使っているが、さすが大塩、という感じがする。

大塩は、「太虚」という言葉を使う。つまり、心だ。トルストイのいう心の「霊」と同じだ。太虚に帰着すればこの身は自由だ、そして、太虚は万物いたるところにある、と説く。これは荘子の真人の心境であり、荘子の万物斉同とよく似ている。

孔子晩年の思想が荘子というのはおもしろい。そして、大塩平八郎は、そのへんに気がついていたようなのもおもしろい。





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