虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

孤族の国

2010-12-26 | 新聞・テレビから
朝日の記事にケチをつけるのがネタの一つになっているもんで、ちょっと書く。愛してるから、悪口かくのよ、と思ってね(アサヒ)。

1面トップが今日からの連載記事「孤族の国」。

「孤族」、また、朝日の作った造語だ。かつて就職氷河期の世代を「ロストジェネレーション」などと名付けたが、また名付け親になりたいのだろうか。

この最低最悪になった日本社会をルポするのに、朝日は庶民の貧困という現実を追求することを避け、「孤族」というわけのわからぬ造語でわれわれを見る。

朝日は、人が孤立させられていることをやむをえない時代の推移と見る。

「個人を抑え込むような旧来の人間関係から自由になって、生き方を自由に選び、個を生かすことのできる地平が広がる」。
それはいいことではなかったか、といいたいらしい。

また解説記事(真鍋弘樹)にはこうある。「いま起きていることは、私たちが望み、選び取った生き方の帰結とはいえないだろうか。血縁や地縁にしばられず、伸びやかに個が発揮される社会。晩婚・非婚化もそれぞれの人生の選択の積み重ねだ。」
わたしたちの責任でもある、といいたいらしい。

それにしても「伸びやかに個が発揮される社会」とは、とても新聞記者の書く言葉には思えない(文部省の役人か?)

個を求め、地縁・血縁と別れ、単身で生き、孤独死する人は戦前からいる。しかし、今の孤独死・自殺者の増加・非婚化・単身化は、1990年代から始まるこの国の企業社会の変貌、競争、リストラ、貧困などが庶民を直撃したものだろう。新聞社なら少なくとも社会問題、経済問題としての視点が不可欠だろう。

だが、朝日は、企業の法人税減税や米軍へのおもいやり予算には大賛成し、消費税増税を急げ、といっている新聞社であり、庶民の暮らしが最悪になっている実態をあからさまには記事にできず、生活の貧困のキャンペーンをすることはできない。

見出しに「新しい生き方を探す時」とあり、解説者は、「だれでも孤族になりうることを前提にして、新しい生き方、新しい政策を生み出すしか道はない、と考える」とある。

正月の朝日の特集記事はなにかまだわからないが、ひょっとして、この新しい「個人の生き方」かもしれないな。豊かさよりも貧しさの中で人間的な暮らしを、地域社会との助け合いを、国や国民全体との助け合いを、とか。国がほろびそうになると、また一億総懺悔、総反省か?

年賀状、まだとりかかっていない。こんなこと書いてるひまはないのだけど、やらなくてはいけないことがあると、どうしてもほかのつまらないことをして遊んでしまうんだなあ。