天保7年甲斐国大騒動(8)
( 8) 01/07/09 20:20 10537へのコメント コメント数:1
一揆観光、まいどありがとうございまーす。ガイド嬢のおふじでーす。
おふじ「いよいよ甲斐騒動も2日目(22日)です。そろそろ、帰りましょう
か。」
五郎「え、もう旅は終わりかい。始まったばかりでしょ?」
おふじ「ツアーって、2泊3日かくらいがちょうどいいのよ。それに武七さん
も、兵助さんも、2日目からひき返すんだから」
五郎「どうして?たった2日で?」
おふじ「やはり、郡内の頭取では、国中の無宿、貧民たちを統制することはで
きなかったのよ。郡内勢の目的は、国中の米穀を押し借ることだった
でしょ。米を郡内に融通できればよいのよ。でも、国中の貧民、無宿
たちにとって、米を郡内に融通することなんかどうでもいい。富家、
大家をうちこわし、借金証文など諸帳面を焼き捨て、その場でおもい
きり飲み食いし、大暴れしたかったのかも。国中に入ってから、武七
や兵助たち郡内の頭取の統制を離れて、勝手に大暴れする無宿者たち
が、力をもってきたのね」
五郎「自分の土地の人の家をうちこわしするのは、いくら強欲な富家でも
ちょっと躊躇するよね。その点、無宿は、村から離れた者だし、流れ者
でもあるしで、なんの遠慮もなく暴れることができるよね。言うこと、
やることは勢いがあるし、命や生活を捨ててしまってる強みがあるね」
おふじ「武七、兵助さんもきっと当惑し、これは失敗だ、と思ったでしょう
ね。もともと風土も気質もちがう国中に押しかけようとしたのがあま
っかたかも。国中もんは、国中もんで、やりたいことがあったかも。
でも、熊野堂の小川奥右衛門の屋敷までは、前に談判しにいって
馬鹿にされたことだあるから、意地でも、顔をださなくちゃならな
い。実は頭取の武七さんは、病気になってしまうの。年老いてること
もあるけど、やはり、計画が狂ったための心痛よ。もうおれの出る幕
は終わった、ついていけない、と思ったかも。で、兵助さんが、郡内
勢をひきつれていくことになるの」
五郎「2日目のこと話して」
おふじ「2日目朝、兵助は、一揆勢を大野河原に集結。村役人に朝飯の支度を
させ、腹ごしらえをしてから、出発、奥右衛門の屋敷に押し寄せま
す。はじめは押し借りの交渉の計画だったけど、もうこの段階では、
うちこわしに酔った無宿ものたちも大勢いるし、交渉どころではない
ね。
兵助もこの時はこう叫んだとか。
『よくもわれ等を罵りたり。今日、そのお礼に参上せり。快くわれ等
の好意を受けよ!』
うちこわしのありさま、「郡内騒動」にはこう書いてるわ。
『本家3軒その他5箇所打ちこわし、質物、衣類、諸道具、諸帳面、証
文類残らず庭へ持ち出し、山のごとくに積み重ね、四方より火をかく
れば、たちまちぱっと萌えあがり、田だ一時に数多の品々煙となって
焼け失せぬ。片方にては、穀倉をうちあけ、数千俵引出し、小口を切
り破り、そばなる泉水に打ち明け、庭中へ撒き散らし、小砂の上を踏
むがごとし。鍋・釜・瀬戸物の類を出して槌かけやにて打ち潰す」
五郎「奥右衛門の家はこれでつぶれてしまったの」
おふじ「なんの、これしきでびくともするもんかい。明治になって、このへん
の村6つを合わせて春日居村が誕生したとき、奥右衛門家の一部は村
役場になってるし、村長にもなってるの。奥右衛門家(敷地2407坪)
の長屋門は今も残ってるそうよ。打ちこわしになって一家破滅になる
ような家はうちこわしなんかしないでしょうよ。」
さて、武七さん、兵助さんは、奥右衛門宅をうちこわしたあと、郡内
勢をつれて郡内に帰ります。でも、途中で、役人が手下を連れて二人
を捜索しているという情報を得、二人は天目山に登り、寺に潜みま
す。これが22日の夜。兵助さん、武七さんの出番はこれでオシマイ。
しかし、国中の一揆勢はまだまだ暴れまわります。新しい男たち
が頭取となって登場します。
さあ、五郎ちゃん、今日はおうちにお帰り。
五郎「はーい、おねえさま」
天保7年甲斐国大騒動(9)
( 8) 01/07/12 22:03 10553へのコメント コメント数:1
みなさまー、甲州一揆観光もそろそろおしまいに近づきました。
のどか「所々より寄集人数およそ一万人あまりにて、同廿二日朝五時すぎ甲府
在々へ押し込み候につき、勤番支配よりも町境まで防之人数差し出し
候えども、防ぎかね候哉、一同御城内へ引き揚げ候おもむき、」
おふじ「史料って読みにくいよね。それに地名が出て来ても場所の感覚がつかめない
から困るね。でも、なぜか臨場感はあるね。
甲府市内が大騒動になってるのに、一同、ひきあげとは、なさけないよね。
でも、3人の若侍が城を抜け出し、徒党の逮捕に向かって抜群の誉れを得た
という話もあるそうです。ほんまかいな、どこの史料に書いてるの?と、こん
なとき、史料をこの目で見て納得したくなる時があるんです」
のどか「武七、兵助初人数五六百人ほどは廿二日夕刻には郡内領へ引き取り候由、そ
れより甲府へ押し入り候人数過半は無宿、盗賊、乞食、などの者の由に
相聞き申し候」
五郎「そうそう。これ。武七、兵助に代わって新た頭取になって一揆を指導したもの
は、だれなの?」
おふじ「「郡内騒動」には、この年の11月、石和(いわさ)の代官所から、江戸表に向
けて目籠3人、ほだし籠39人が警戒厳重な中、送られた、とあります」
五郎「目籠、ほだし籠って、どんなの?」
おふじ「知らん。でも、目籠は、頭取級の重要人物が入ってるって感じじゃない?
その3人とは、久保村百姓周吉
久野村無宿吉五郎
長浜無宿民五郎 の3人よ」
五郎「どんな人?」
おふじ「まず、周吉さんね。この人の仕置き書は「郡内騒動」にあるわ。
周吉は大工職だったらしい。積極的にうちこわしに参加し、頭取(これは、武
七か兵助か)から革羽織をもらいうけ、赤い打紐を襷にし、長脇差をさして八
面六臂の活躍したそう。大工職ゆえ、たくみに家をうちこわし、自然、頭取に
なり、徒党の者たちを指揮し、紙幟などを人足に持たせて押し歩き、宿では、
村々困窮の者へ、米や金を配り、富家と掛け合い、不承知の場合は、うちこ
わしをしたって。また、村から人足をさしだして駕籠に乗って、移動、
番所を駕籠に乗ったまま押し通ったり、代官の手代手付と差し向かった時に
は、脇差を抜いて立ち向かったとか。最後はこうです。公儀を恐れざるしか
た、重々不届き至極につき、存命に候えば、石和宿にて磔」
五郎「つぎ、無宿藤五郎は?あ、ちがった、吉五郎は?」
おふじ「無宿吉五郎は、飢饉のため、食べることが困難になっていたの。でも、ちょう
ど武七たちが騒動をおこしたのをチャンス到来と考え、金銀を盗むべし、と参
加し、頭取になっちゃうの」
五郎「無宿ものが頭取になるということは、配下に無宿者たちがたくさん参加してい
た、ということだね」
おふじ「徒党の者どもを指揮し、家をうちこわし、米穀焼き捨て、衣類引き裂き、
諸帳面証文まで焼き捨て、酒食を差し出させ、ほしいままに飲み食いする。
その上、大脇差を帯び、旗印を人足に持たせ、代官手代手附が出張してきたと
きには、石礫を投げろ、と指揮し、御用と書いた提灯を奪い、持ち歩く。
公儀を恐れざる仕方、重々不届きにつき、磔と書いてあるわ」
五郎「石を投げさせた、というのがおもしろいなあ。最近、石合戦なんかしたら、先生
におこられるもんなあ。昔はみんなうまかったんだろうなあ」
おふじ「次の長浜村無宿民五郎なんだけど、この民五郎については、「郡内騒動」には
仕置き書みたいなのはないの。
ただ、日本民衆の歴史5世直し(三省堂)に青木美智男さんが、「齢50になる
民五郎は、無宿渡世の経験から甲州一円の地理や世情に通じていたし、日ごろ
から豪気で仲間からも一目おかれていた。武七に対して、今、重要なのは甲州
の農民たちを苦しめている米穀商や酒屋、地主の財産を徹底的にうちこわすこ
とであり、そのためには、地元とのつながりが薄く、多少乱暴なこともするけ
れども無宿人らの力が必要であることを強調。また、近隣の農民たちに、ほん
とうの目的は、金銭、衣類を奪い取るのではなく、豪商や地主たちの証文・諸
帳面類を焼き払うことにあるのだからぜひとも一揆に加わってほしいと呼びか
けた」とあります。
五郎「詳しいことわかってるんだね。でも、どんな史料にそんなことが書いてあるのだ
ろう?」
おふじ「五郎ちゃんもそう思うでしょ。学者さんの書いたものを信じないわけではない
のだけど、史料が出ていないと、かえってたしかめたくなるわね」
天保7年甲斐国大騒動(10)
( 8) 01/07/14 11:50 10564へのコメント コメント数:1
みなさま、こんにちは。無宿観光でございまーす。
おふじ「のどかさんから紹介された編年百姓一揆集成。わたしもさっそく甲州
一揆を見ましたよ。この中には「甲斐国騒立て一件御裁許書」という
判決書がありました」
五郎「そんな史料、漢字ばかりで、クラクラするやろ?老眼鏡持ってる?」
おふじ「なんの、わたしは、ただ無宿の2字を探すだけでいいのよ。いるわ、い
るわ。ざっと数えただけでも、70名以上の無宿者の名前がありまし
たよ」
五郎「捕まった者だけで、70名以上だとしたら、実際、参加した無宿はすご
い数だね。どの村にもどこにも無宿っているのね。
おふじ「そうよ、黒駒の勝蔵さんも、もっと早く生まれていたら、頭取になっ
ていたかも。甲州は、上州などと同様、やはり博徒、無宿の集まる国
だったのかなあ」
五郎「で、頭取の民五郎さんは、いたかい?」
おふじ「いた、いた。郡内勢がひきかえしたあとは、頭取になり、長脇差を帯
び、盗み取った女帯を襷にかけ、徒党の者を指揮した、とあります。
甲府への入り口にあたる板垣村では、代官手代手附の制止も聞かず、
真っ先に押し進み、徒党の者を励まして押し進んだそうな。配下の無
宿者の裁許書を読むと、盗み取った脇差を頭取から与えられ、という
記事が多いの。富家には何本も刀があったのね。元気のいい無宿者に
は頭取が持たせたみたいね」
五郎「ところで、22日、奥右衛門宅をうちこわし、郡内勢がひきかえしてか
らの経過をまだ話してくれていないよ」
おふじ「ごめん、地理に弱いし、ややこしくてね。それに、「疾(はや)きこ
と風の如く、侵掠すること火の如く」の風林火山のお国柄。ぼんやり
してたら、どどどど、とすごい勢いで一揆勢は進んでるの。なに
せ、頭取は駕籠にも乗るけど、馬にも乗って進んでるのよ。
えーと、おおまかに話すと、22日、郡内勢が帰ったあと、一揆勢は笛
吹川を腸って石和(甲府方面)に向かうのね。もちろん、石和周辺で
もうちこわし。
23日、甲府進入。甲府城下のあちこち打ちこわし。酒食の接待をした
らうちこわしされないという情報が流れ、進んで歓待した家もあっ
たようよ。「甲府城の御金蔵を拝見したい」なんていう一揆勢の噂も
流れ、城方はきっとびくびくしてたよ。
のどか「甲府入り口の「板垣口にて四五人も切り倒し候はば、府内へは一人も
乱入はこれなきやにござ候。あまり御慈悲過ぎ候とみなみな風聞申し
候」と町の人の意見もあるね。
おふじ「代官井上十左衛門は、この板垣口には、手代手附だけを差し出し、自
分は御城内米蔵に詰めていたそうですね。代官にやる気がないので、
手付手代もやる気はないですよね。手代たちも、鉄砲も用意しなが
ら、使用せず、逃げてしまっています。で、簡単に甲府進入をゆるし
ています」
のどか「永見伊勢守などは、町方に大借金があったのだそうですね」
おふじ「甲府勤番支配ですね。すぐに出馬することもせず、甲府への乱入をゆ
るしたとして、、御役御免、逼塞ですね。
さて、夕方、一揆勢は2手にわかれ、1手は韮崎方面へ甲州街道をその
まま北上、1手は市川方面へ南下し、市川陣屋を占拠したあと、再び北
上し、韮崎宿で合流。
24日、韮崎を過ぎた一揆勢は小淵沢あたりまできて、教来石(白州
町)の甲州と信州の国境の口留め番所を押し通ります。
五郎「小淵沢?聞いたことあるぞ。もう信州って感じだね。清里高原なんかも
あって、夏の人気避暑地だね。小淵沢から小海線が走ってるよね。日本
で一番高いところを走る高原列車だね」
おふじ「小僧、よく知ってるな。観光といえば、一揆勢をむかえた村はまる
で、まるで観光旅館みたいな丁重なあつかいだよ。まず村役人が出て
来て、「いらっしゃいませ」とはいわないだろうけど、頭をペコペコ
さげて、酒食の接待はもちろん、道案内までしてくれる。歓迎一揆勢
様という幟は立てないだろうけど、一揆勢に賛成するという立て札を
立てたところはあったようです」
のどか「荊沢辺にては十六七人も打ち殺し候由、台ケ原にては五六人も打ち
殺し候ゆえ、みなみな百姓の手にて右様きびしく防ぎ候間、早速に
相しずまり申し候由という史料があったわ」
おふじ「おお、25日の台ケ原(大八田の河原)の銃撃ですね。小淵沢の近く
だわ。
郡内騒動によると、「かくし持ちたる鉄砲50丁、1度に撃ちしか
ば、この鉄砲に当たり死するもの数多なり。一人、駕籠より出でて長
脇差をぬき、うってかかる。天命なるかな、そばなる石につまずき打
ちころぶ。倒るるところをすかさず、飛びかかって取り押さえ、半死
半生になるまで打ちのめし、高手小手にいましめけり。そのほか、即
死人数数百人、半死半生にて生け捕られるもの、およそ百八、九十
人。甲府表にひききたる」
五郎「とうとう、一揆壊滅の時だね。信州諏訪藩が出動したんだね」
おふじ「佐藤健一「真説甲州一揆」によると、この時の死者は500人といわれて
おり、今でも土木工事の際などに人骨が出るそうな。供養塔が建って
いるとか」
五郎「ほんまかなあ」
おふじ「図説山梨県の歴史によると、甲府城下7町のほか、111カ村319軒がうち
こわされ、死罪13人、追放93人、受刑者は562人とありました。
後半、大急ぎで走ってしまいましたが、甲州一揆観光はこれにて終了
です。みなさま、ご乗車ありがとうございました。