虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

これからのNHKBSの時代劇

2007-03-25 | 映画・テレビ
NHK衛星の映画を調べてきた。うーん、今ひとつ、ウオーッと思うのがない。
見てみたいな、と思うのはこれ。

3月28日「大勝負」片岡千恵蔵、大友柳太郎
やくざが跋扈する関東が舞台。

3月29日「大殺陣 雄呂血」市川雷蔵
阪東妻三郎のリメーク版だが、阪妻のもこれも見たことがない。

4月19日「眠狂四郎無頼剣」市川雷蔵、天地茂
眠狂四郎はシリーズとして何作か放映するそうだ。
中でも、この無頼剣は天地茂の役柄がいい。なんと大塩格之助。水野忠邦をうつべく江戸を火の海にする計画を持つ。

山田洋次の「武士の一分」とうとう見にいけなかった。ビデオを待つとしよう。

甲州郡内騒動3

2007-03-25 | 一揆
天保7年甲斐国大騒動(8)
( 8) 01/07/09 20:20 10537へのコメント コメント数:1

一揆観光、まいどありがとうございまーす。ガイド嬢のおふじでーす。

おふじ「いよいよ甲斐騒動も2日目(22日)です。そろそろ、帰りましょう
    か。」

五郎「え、もう旅は終わりかい。始まったばかりでしょ?」

おふじ「ツアーって、2泊3日かくらいがちょうどいいのよ。それに武七さん
    も、兵助さんも、2日目からひき返すんだから」

五郎「どうして?たった2日で?」

おふじ「やはり、郡内の頭取では、国中の無宿、貧民たちを統制することはで
    きなかったのよ。郡内勢の目的は、国中の米穀を押し借ることだった
    でしょ。米を郡内に融通できればよいのよ。でも、国中の貧民、無宿
    たちにとって、米を郡内に融通することなんかどうでもいい。富家、
    大家をうちこわし、借金証文など諸帳面を焼き捨て、その場でおもい
    きり飲み食いし、大暴れしたかったのかも。国中に入ってから、武七
    や兵助たち郡内の頭取の統制を離れて、勝手に大暴れする無宿者たち
    が、力をもってきたのね」

五郎「自分の土地の人の家をうちこわしするのは、いくら強欲な富家でも  
   ちょっと躊躇するよね。その点、無宿は、村から離れた者だし、流れ者
   でもあるしで、なんの遠慮もなく暴れることができるよね。言うこと、
   やることは勢いがあるし、命や生活を捨ててしまってる強みがあるね」

おふじ「武七、兵助さんもきっと当惑し、これは失敗だ、と思ったでしょう 
    ね。もともと風土も気質もちがう国中に押しかけようとしたのがあま
    っかたかも。国中もんは、国中もんで、やりたいことがあったかも。
    でも、熊野堂の小川奥右衛門の屋敷までは、前に談判しにいって
    馬鹿にされたことだあるから、意地でも、顔をださなくちゃならな 
    い。実は頭取の武七さんは、病気になってしまうの。年老いてること
    もあるけど、やはり、計画が狂ったための心痛よ。もうおれの出る幕
    は終わった、ついていけない、と思ったかも。で、兵助さんが、郡内
    勢をひきつれていくことになるの」

五郎「2日目のこと話して」

おふじ「2日目朝、兵助は、一揆勢を大野河原に集結。村役人に朝飯の支度を
    させ、腹ごしらえをしてから、出発、奥右衛門の屋敷に押し寄せま 
    す。はじめは押し借りの交渉の計画だったけど、もうこの段階では、
    うちこわしに酔った無宿ものたちも大勢いるし、交渉どころではない
    ね。
    兵助もこの時はこう叫んだとか。
    『よくもわれ等を罵りたり。今日、そのお礼に参上せり。快くわれ等
    の好意を受けよ!』
   
    うちこわしのありさま、「郡内騒動」にはこう書いてるわ。
   
    『本家3軒その他5箇所打ちこわし、質物、衣類、諸道具、諸帳面、証
    文類残らず庭へ持ち出し、山のごとくに積み重ね、四方より火をかく
    れば、たちまちぱっと萌えあがり、田だ一時に数多の品々煙となって
    焼け失せぬ。片方にては、穀倉をうちあけ、数千俵引出し、小口を切
    り破り、そばなる泉水に打ち明け、庭中へ撒き散らし、小砂の上を踏
    むがごとし。鍋・釜・瀬戸物の類を出して槌かけやにて打ち潰す」

五郎「奥右衛門の家はこれでつぶれてしまったの」

おふじ「なんの、これしきでびくともするもんかい。明治になって、このへん
    の村6つを合わせて春日居村が誕生したとき、奥右衛門家の一部は村
    役場になってるし、村長にもなってるの。奥右衛門家(敷地2407坪)
    の長屋門は今も残ってるそうよ。打ちこわしになって一家破滅になる
    ような家はうちこわしなんかしないでしょうよ。」

    さて、武七さん、兵助さんは、奥右衛門宅をうちこわしたあと、郡内
    勢をつれて郡内に帰ります。でも、途中で、役人が手下を連れて二人
    を捜索しているという情報を得、二人は天目山に登り、寺に潜みま 
    す。これが22日の夜。兵助さん、武七さんの出番はこれでオシマイ。

    しかし、国中の一揆勢はまだまだ暴れまわります。新しい男たち
    が頭取となって登場します。
    さあ、五郎ちゃん、今日はおうちにお帰り。
五郎「はーい、おねえさま」
天保7年甲斐国大騒動(9)
( 8) 01/07/12 22:03 10553へのコメント コメント数:1

みなさまー、甲州一揆観光もそろそろおしまいに近づきました。

 のどか「所々より寄集人数およそ一万人あまりにて、同廿二日朝五時すぎ甲府
    在々へ押し込み候につき、勤番支配よりも町境まで防之人数差し出し
    候えども、防ぎかね候哉、一同御城内へ引き揚げ候おもむき、」

おふじ「史料って読みにくいよね。それに地名が出て来ても場所の感覚がつかめない
    から困るね。でも、なぜか臨場感はあるね。


    甲府市内が大騒動になってるのに、一同、ひきあげとは、なさけないよね。
    でも、3人の若侍が城を抜け出し、徒党の逮捕に向かって抜群の誉れを得た
    という話もあるそうです。ほんまかいな、どこの史料に書いてるの?と、こん
    なとき、史料をこの目で見て納得したくなる時があるんです」

のどか「武七、兵助初人数五六百人ほどは廿二日夕刻には郡内領へ引き取り候由、そ
    れより甲府へ押し入り候人数過半は無宿、盗賊、乞食、などの者の由に
    相聞き申し候」


五郎「そうそう。これ。武七、兵助に代わって新た頭取になって一揆を指導したもの 
   は、だれなの?」

おふじ「「郡内騒動」には、この年の11月、石和(いわさ)の代官所から、江戸表に向
    けて目籠3人、ほだし籠39人が警戒厳重な中、送られた、とあります」

五郎「目籠、ほだし籠って、どんなの?」

おふじ「知らん。でも、目籠は、頭取級の重要人物が入ってるって感じじゃない?
    その3人とは、久保村百姓周吉
          久野村無宿吉五郎
          長浜無宿民五郎      の3人よ」

五郎「どんな人?」

おふじ「まず、周吉さんね。この人の仕置き書は「郡内騒動」にあるわ。
    周吉は大工職だったらしい。積極的にうちこわしに参加し、頭取(これは、武
    七か兵助か)から革羽織をもらいうけ、赤い打紐を襷にし、長脇差をさして八
    面六臂の活躍したそう。大工職ゆえ、たくみに家をうちこわし、自然、頭取に
    なり、徒党の者たちを指揮し、紙幟などを人足に持たせて押し歩き、宿では、
     村々困窮の者へ、米や金を配り、富家と掛け合い、不承知の場合は、うちこ
    わしをしたって。また、村から人足をさしだして駕籠に乗って、移動、
    番所を駕籠に乗ったまま押し通ったり、代官の手代手付と差し向かった時に
    は、脇差を抜いて立ち向かったとか。最後はこうです。公儀を恐れざるしか 
    た、重々不届き至極につき、存命に候えば、石和宿にて磔」

五郎「つぎ、無宿藤五郎は?あ、ちがった、吉五郎は?」

おふじ「無宿吉五郎は、飢饉のため、食べることが困難になっていたの。でも、ちょう
    ど武七たちが騒動をおこしたのをチャンス到来と考え、金銀を盗むべし、と参
    加し、頭取になっちゃうの」

五郎「無宿ものが頭取になるということは、配下に無宿者たちがたくさん参加してい 
   た、ということだね」

おふじ「徒党の者どもを指揮し、家をうちこわし、米穀焼き捨て、衣類引き裂き、
    諸帳面証文まで焼き捨て、酒食を差し出させ、ほしいままに飲み食いする。
    その上、大脇差を帯び、旗印を人足に持たせ、代官手代手附が出張してきたと
    きには、石礫を投げろ、と指揮し、御用と書いた提灯を奪い、持ち歩く。
    公儀を恐れざる仕方、重々不届きにつき、磔と書いてあるわ」

五郎「石を投げさせた、というのがおもしろいなあ。最近、石合戦なんかしたら、先生
  におこられるもんなあ。昔はみんなうまかったんだろうなあ」


おふじ「次の長浜村無宿民五郎なんだけど、この民五郎については、「郡内騒動」には
    仕置き書みたいなのはないの。
    ただ、日本民衆の歴史5世直し(三省堂)に青木美智男さんが、「齢50になる
    民五郎は、無宿渡世の経験から甲州一円の地理や世情に通じていたし、日ごろ
    から豪気で仲間からも一目おかれていた。武七に対して、今、重要なのは甲州
    の農民たちを苦しめている米穀商や酒屋、地主の財産を徹底的にうちこわすこ
    とであり、そのためには、地元とのつながりが薄く、多少乱暴なこともするけ
    れども無宿人らの力が必要であることを強調。また、近隣の農民たちに、ほん
    とうの目的は、金銭、衣類を奪い取るのではなく、豪商や地主たちの証文・諸
    帳面類を焼き払うことにあるのだからぜひとも一揆に加わってほしいと呼びか
    けた」とあります。

五郎「詳しいことわかってるんだね。でも、どんな史料にそんなことが書いてあるのだ
   ろう?」

おふじ「五郎ちゃんもそう思うでしょ。学者さんの書いたものを信じないわけではない
    のだけど、史料が出ていないと、かえってたしかめたくなるわね」

天保7年甲斐国大騒動(10)
( 8) 01/07/14 11:50 10564へのコメント コメント数:1

みなさま、こんにちは。無宿観光でございまーす。

おふじ「のどかさんから紹介された編年百姓一揆集成。わたしもさっそく甲州
    一揆を見ましたよ。この中には「甲斐国騒立て一件御裁許書」という
    判決書がありました」

五郎「そんな史料、漢字ばかりで、クラクラするやろ?老眼鏡持ってる?」

おふじ「なんの、わたしは、ただ無宿の2字を探すだけでいいのよ。いるわ、い
    るわ。ざっと数えただけでも、70名以上の無宿者の名前がありまし
    たよ」

五郎「捕まった者だけで、70名以上だとしたら、実際、参加した無宿はすご
   い数だね。どの村にもどこにも無宿っているのね。

おふじ「そうよ、黒駒の勝蔵さんも、もっと早く生まれていたら、頭取になっ
    ていたかも。甲州は、上州などと同様、やはり博徒、無宿の集まる国
    だったのかなあ」

五郎「で、頭取の民五郎さんは、いたかい?」

おふじ「いた、いた。郡内勢がひきかえしたあとは、頭取になり、長脇差を帯
    び、盗み取った女帯を襷にかけ、徒党の者を指揮した、とあります。
    甲府への入り口にあたる板垣村では、代官手代手附の制止も聞かず、
    真っ先に押し進み、徒党の者を励まして押し進んだそうな。配下の無
    宿者の裁許書を読むと、盗み取った脇差を頭取から与えられ、という
    記事が多いの。富家には何本も刀があったのね。元気のいい無宿者に
    は頭取が持たせたみたいね」

五郎「ところで、22日、奥右衛門宅をうちこわし、郡内勢がひきかえしてか
   らの経過をまだ話してくれていないよ」

おふじ「ごめん、地理に弱いし、ややこしくてね。それに、「疾(はや)きこ
    と風の如く、侵掠すること火の如く」の風林火山のお国柄。ぼんやり
     してたら、どどどど、とすごい勢いで一揆勢は進んでるの。なに 
    せ、頭取は駕籠にも乗るけど、馬にも乗って進んでるのよ。

    えーと、おおまかに話すと、22日、郡内勢が帰ったあと、一揆勢は笛
    吹川を腸って石和(甲府方面)に向かうのね。もちろん、石和周辺で
    もうちこわし。

    23日、甲府進入。甲府城下のあちこち打ちこわし。酒食の接待をした
    らうちこわしされないという情報が流れ、進んで歓待した家もあっ 
    たようよ。「甲府城の御金蔵を拝見したい」なんていう一揆勢の噂も
    流れ、城方はきっとびくびくしてたよ。

のどか「甲府入り口の「板垣口にて四五人も切り倒し候はば、府内へは一人も
    乱入はこれなきやにござ候。あまり御慈悲過ぎ候とみなみな風聞申し
    候」と町の人の意見もあるね。

おふじ「代官井上十左衛門は、この板垣口には、手代手附だけを差し出し、自
    分は御城内米蔵に詰めていたそうですね。代官にやる気がないので、
    手付手代もやる気はないですよね。手代たちも、鉄砲も用意しなが 
    ら、使用せず、逃げてしまっています。で、簡単に甲府進入をゆるし
    ています」

のどか「永見伊勢守などは、町方に大借金があったのだそうですね」

おふじ「甲府勤番支配ですね。すぐに出馬することもせず、甲府への乱入をゆ
    るしたとして、、御役御免、逼塞ですね。

    さて、夕方、一揆勢は2手にわかれ、1手は韮崎方面へ甲州街道をその
    まま北上、1手は市川方面へ南下し、市川陣屋を占拠したあと、再び北
    上し、韮崎宿で合流。
    24日、韮崎を過ぎた一揆勢は小淵沢あたりまできて、教来石(白州 
    町)の甲州と信州の国境の口留め番所を押し通ります。

五郎「小淵沢?聞いたことあるぞ。もう信州って感じだね。清里高原なんかも
   あって、夏の人気避暑地だね。小淵沢から小海線が走ってるよね。日本
   で一番高いところを走る高原列車だね」

おふじ「小僧、よく知ってるな。観光といえば、一揆勢をむかえた村はまる 
    で、まるで観光旅館みたいな丁重なあつかいだよ。まず村役人が出て
    来て、「いらっしゃいませ」とはいわないだろうけど、頭をペコペコ
    さげて、酒食の接待はもちろん、道案内までしてくれる。歓迎一揆勢
    様という幟は立てないだろうけど、一揆勢に賛成するという立て札を
    立てたところはあったようです」

のどか「荊沢辺にては十六七人も打ち殺し候由、台ケ原にては五六人も打ち
    殺し候ゆえ、みなみな百姓の手にて右様きびしく防ぎ候間、早速に
    相しずまり申し候由という史料があったわ」

おふじ「おお、25日の台ケ原(大八田の河原)の銃撃ですね。小淵沢の近く
    だわ。
    郡内騒動によると、「かくし持ちたる鉄砲50丁、1度に撃ちしか 
    ば、この鉄砲に当たり死するもの数多なり。一人、駕籠より出でて長
    脇差をぬき、うってかかる。天命なるかな、そばなる石につまずき打
    ちころぶ。倒るるところをすかさず、飛びかかって取り押さえ、半死
    半生になるまで打ちのめし、高手小手にいましめけり。そのほか、即
    死人数数百人、半死半生にて生け捕られるもの、およそ百八、九十 
    人。甲府表にひききたる」

五郎「とうとう、一揆壊滅の時だね。信州諏訪藩が出動したんだね」

おふじ「佐藤健一「真説甲州一揆」によると、この時の死者は500人といわれて
    おり、今でも土木工事の際などに人骨が出るそうな。供養塔が建って
    いるとか」

五郎「ほんまかなあ」

おふじ「図説山梨県の歴史によると、甲府城下7町のほか、111カ村319軒がうち
    こわされ、死罪13人、追放93人、受刑者は562人とありました。

    後半、大急ぎで走ってしまいましたが、甲州一揆観光はこれにて終了
   です。みなさま、ご乗車ありがとうございました。


甲州郡内騒動2

2007-03-25 | 一揆
天保7年甲斐国大騒動(5)
( 8) 01/07/05 21:22 10529へのコメント コメント数:1

みなさま、まいど。

おふじ「さて、甲斐騒動の原因は?なんてことは省略させていただきます。天候不順、
    米の不作を予想すると、すぐ買占めにかかる米穀商の存在は全国共通かもし 
   れません。米はあっても、隣村で売るより、より高く売れる町に持って行って 
   しまう。同じ甲斐でも、国中地方は餓死者は出てなかったそうだけど郡内地方 
   の被害はひどく、餓死者も多かったようです。しかし、為政者は救いの手を差 
   し出さない。まあ、どこも似たような状況です。」

五郎「天明のときには、江戸でも大坂でも大うちこわしがおきたよね。天保の飢饉は天
   明にまさるともおとらないのに、江戸や大坂では起きてないね。ちょっとなさけ
   ないって感じ。甲斐だけでなく、全国でも起きてしかるべきや!」

おふじ「まあまあ、騒動の好きな五郎ちゃんね(^^)
    甲斐騒動の史料で、容易に手にはいるものでは、「甲斐国騒動実録」(日本庶
    民生活史料集)と「郡内騒動」(「徳川時代百姓一揆叢談」)があるの。ここ
    では「郡内騒動」をもとにしてお話するね」

おふじ「さあて、郡内の人々の悲惨な状況を見て、なんとかしなくては、と思った
    男達が下和田村武七、犬目村兵助たちのまわりに集まり始めました。」

武七「このままでは、村村小前の者どもは、皆、飢えに及ぶべし。見捨てるは不仁な 
   り。よって、甲州の米穀屋ども買い置きいたすよしなれば、この者どもより、米
   穀、買い入れ方しかたあるべし」

五郎「あれー、ねえちゃん、声が変わった。いっこくどうのマネしてんの?」

おふじ「うるさいね。みんな賛成して、まず、このことを石和代官所の出張陣屋である
    谷村陣屋(郡内にあった)に願い出るのね。もち、却下よ。で、つぎに、甲府
    の近くの熊野堂村小川奥右衛門にかけあいに行くの。武七と兵助が総代として
    話しに行ったのね。小川奥右衛門は甲州最大の米穀屋さんなの」

兵助「われわれは郡内領の22カ村総代として願いの筋があって参りました。当年は古今
   まれなる飢饉、郡内領の者は餓死するより他ないありさま。しかるに、当家は米
   穀を多数貯え置かれるよし。ぜひ22カ村に米なり麦なり貸しつけていただきた
   い。必ず、返済いたします」

奥右衛門「ふん、郡内領に米がなくなることは覚悟していたことではないのか?畑ばか
     り作って田を作らず、だいたい村役人の指導が悪い。とかく桑畑ばかり作 
     り、女は絹糸をとり、機織ばかりに精を出し、常に絹物を着、紅おしろいを
     絶やさず、化粧ばかりにこって、男も同じく、絹商人、呉服屋みたいなやつ
     ばかり。農業のことはさらに考えず。しかし、国中のもんはちがうぞ。いつ
     も耕作を第一にし、朝は未明に起きて夕は暮れて帰る。手足にはひびあかぎ
     れをきらし、身にはつぎだらけの着物、男は野にばかりころび、夜は藁仕 
     事。だからこの飢饉の年にもびくともしないのだ」

武七「このたびは、米の無心にきた。おまえの講釈を聞きにきたのではない。その口を
   長くきかれよ。今に思い知らさん!」

おふじ「二人は仲間のところに帰り、さっそく、実行にとりかかります。
    まず廻文を廻して村々から男を集めるわけ。

「廻章をもって啓達つかまつり候。米穀買入れ方の儀につき、一昨日熊野堂奥右衛門方
へかけあいつかわし候ところ、同人、もってのほかの雑言いたし、郡内領のものども
馬鹿にいたし候しまつにて、捨て置き難く候間、この廻文御披見しだい急ぎ天神坂林ま
で御出会いこれあるべき候」

おふじ「この廻文は黒野田村の泰順さんという人が書いたらしいわ。名主・問屋を勤 
    め、蘭方を兼ねた医師でもあったそうな。影の知恵者だったのでしょうね。黒
    幕の一人なのに、特赦になって、その後も村に住んでいます。
    あれ、五郎ちゃん、ねたらだめよ、聞いてる?」

五郎「すやすや」

                         つづく

天保7年甲斐国大騒動(6)
( 8) 01/07/06 21:04 10531へのコメント コメント数:2

まいど、一揆観光ツアーでございます。

おふじ「さあて、いよいよ、ですよ。
    8月20日白野宿天神坂(大月市笹子町)の野原で集会。
   「郡内騒動」という記録によると、ここで、一味連判状を、読み上げた
    ようです。
   『このたび、米穀払底につき飢えに及びこのまま相果て候より甲州へ立
    ち越え、一命をそこに捨つべき事』

    そのあと、14か条の取り決めが書いてあります。いくつかを紹介す
    ると、
    こんな内容。

    1、銘々一刀づつ帯申すべき事
    1、人に怪我させまじく事
    1、火の用心大切に相守るべき事
    1、衣類の儀は身用心につき、何なりと着るべき事
    1、鉦太鼓1カ村にて2組ずつ持たせ申すべき事
    1、駆け引きの儀は、頭取の指揮に任すべき事

五郎「銘々一刀づつ帯刀すべきことって、お百姓さん、刀持ってたのだろう 
   か」

おふじ「さあ?関東の村の人はけっこう持ってたのかもしれないわ。村役人な
    んかだと、先祖は武士ってのも多そうだし。長脇差の博徒たちも闊歩
    してたんだし」

五郎「でも、人にけがをさせるな、とか、あまり無茶なことはするな、という
   取り決めが多いね」

おふじ「やっぱり、頭取のいる組織だから、暴徒にはなりたくなかったのかし
    ら。
    もう一つの史料、内閣文庫蔵「応思穀恩編附録」には、「起請文」が
     のっているそうです。

    『このたび、三郡乱入の儀、仁義をもって窮民を救い、米穀の融通専
     一となすところなり。よって、公儀御法度の趣き、きっと相慎み、
     私曲の沙汰、決してこれあるまじき事。』

五郎「仁義をもって窮民を救い、ってとこは、いかにも男伊達といわれた武七
   さんらしい言葉だね」


おふじ「この「応思穀恩編」(なんと読むのだろう?)という史料はときたま
    目にすることがあるの。でも、いったいどこで、読むことができるの
    でしょう?けっこう、面白い内容がつまってるような感じがするの。
    この史料、どこかで簡単に手にする方法、読む方法をごぞんじの方い
    ましたら、一揆観光まで教えてくださいね。
    さあて、明日はいよいよ出発よ。早く起きるのよ。笹子峠を越えるのだ
    から」

五郎「え、また明日?なかなか始まらないんだね、この一揆。わるいけど、 
   ちょっとあきてきたぜ」

                                藤五郎

まいど、一揆観光です。

のどか「ぜひ、藤五郎さんがお出かけになって「編年百姓一揆史料集成」をご
    覧になってください」

おふじ「はい、もちろん。甲州騒動だけでなく、他にも見てみたい記事がある
    のです。
    でも、だれが、なんの目的で書いた文なのでしょうね。まるで見てき
    たようなこと書いてあるみたいですね」

のどか「『万一虜之輩有之節ハ一同救之可為生死供事』
    というのは、だれかが捕まったら命がけで助けてやろう、ということ
    でしょうか?」

おふじ「そうでしょうね。これも、任侠道やろか(^^)」

のどか「猿橋の宿は、甲州道の駅宿で大小名や旅人の往還が引きもきらず、近
    郷近在の溢れ者、ばくち打ち、遊興の若者で昼夜をとわずにぎわって
    いたというところ」

おふじ「甲州街道筋にはこんな人達であふれていたとしたら、頭取による交渉
    とか駆け引きとかは無理で、しぜん、うちこわしに向かってしまうの
    でしょうね。
   『甲斐騒動実録』には、「在々所々の困窮のやからは申すにおよばず、
    バクチ打ちのあぶれもの、似せ浪人、そのほか乞食にいたるまで
    手足達者の者あい加わり」とあります。

のどか「賛成する者は左の肩をぬいてくれ、と武七さんが言うと、みんなはど
    うして反対することがあろうかと、つぎつぎに左の肩をぬぎます。
    こんなところも、おもしろかったです」

五郎「なんで左の肩なんだろう(^^)。これも、それなりの作法だったのやろ 
   か」

おふじ「さて、いくわよ。一同21日の早暁に出発。「民窮み」の大幟を先頭に
    立て、それぞれの村の旗20(郡内の街道筋の村)をおしたて、頭取た
    ちは皆、革羽織を着、頭には革の頭巾、長脇差をぶちこんで、出発。

    7ツ時には(ご前4時)、早くも笹子峠を越えて駒飼野に。笹子峠は
    甲州街道隋一の難所。今は笹子トンネンルが通っています。
    わめきながら、走りながら、鉦太鼓、ほら貝など鳴らしながら進んだ
    のでしょう。元気がいいわ!

    石和代官所から元締手代松岡啓次が駒飼野にきていました。
    一揆勢がやってくる、ここにとどまっていてくれ、と宿の者から言わ
    れていました。松岡は武七、兵助を宿へよびよせ、説得にかかる。
    しかし、話している最中、米屋3軒ほどすでにうちこわされたという急
    進がはいります。「ゲ、もう、乱暴が始まったか。始まってしまって
    は、なまじいに逮捕したら、どんなことが起きるかしれない。ここは
    逃げるしかない、と石和代官所までこそこそ逃げてしまいます。松 
    岡、これで懲戒免職。


    駒飼野を過ぎると、鶴瀬番所があります。小さな関所みたいなとこ 
    ろ。番人が厳重に門を閉ざしていました。
    頭取がいいます。「われわれは郡内領の者である。騒動にきた。駒飼
    野の騒ぎはもう知っているだろう。命が惜しくば、早く門を開けよ。
    さもなくば、即座にふみつぶす!」
    すみやかに中から門が開き、一揆勢は通過。ここではうちこわしはあ
    りませんでした。でも、あとで、番人やここの本陣役人は罰せられま
    す。一揆勢のいううことを聞かないと、うちこわしをされるし、一揆
    勢のいうことを聞くと、あとからお上から罰せられるしで、どうした
    らええんや!

    夕7ツ時(午後4時)、勝沼宿めざす。途中、近藤勇(甲陽鎮撫隊)
    が陣をひいた柏尾の村を通りすぎます。

    勝沼の鍵屋という大きな旅篭屋で夜食の用意をさせます。亭主が留守
    なので、番頭が采配をふるって、用意。突然の大人数の食事の用意っ
    てたいへんだよね。ちゃんと準備したので、鍵屋はうちこわしにあい
    ませんでした。そのかわり、やっぱりあとからお上から罰金を払わせ
    られています。

    この勝沼に一揆勢が滞留している間に人数はどんどんふくらみ
    ます。勝沼をはじめ、国中領のあちこちから困窮者、あぶれ者などが
    集まり、1万人ほどにもなったとか。ここまでくると、郡内で申し合わ
    せた約束など知らない者も多く、統制もとれなくなります。夜、3カ 
    村、数十軒がうちこわされます。

五郎「行動した1日目で、すでに頭取の予想を越えた現実に直面したわけだね」

                              つづく







甲州郡内騒動

2007-03-25 | 一揆
天保7年甲斐国大騒動(1)
( 8) 01/07/01 16:49 コメント数:2

みなさん、こんにちは。

無宿大活躍(~~)の一揆の話です。無宿者が頭取になります。
無宿ツリーに続けてもよかったのですが、長くなったので、新規にします。
なにせ、この天保7年8月に起こった甲斐の大騒動は、大塩平八郎にも水戸斉昭
にも衝撃を与えた大騒動で、天保7年の最大の事件でしょう。
久しぶりに一揆観光でやります(^^)。

おふじ「みなさま、本日は一揆観光バスにようこそ。今回は、甲斐の国の大騒
   動にご案内いたしまーす」

五郎「おばさん、甲斐の国って、どこだい?」

おふじ「甲斐といえば、山梨県。山はあっても山梨県よ。山に囲まれた土地 
   ね。でも、お客はあんた子ども一人?小僧を相手に一揆のガイドもさび
   しいわね」

五郎「元気出してよ。ちゃんと聞いてあげるからさ。甲州ワインでもいっぱい
   やりながら、話してよ。甲斐といえば、武田信玄だろ?」

おふじ「そうそう、信玄は甲斐のまんなか辺甲府盆地を根拠地にしていたの 
    ね。ところで、甲斐の国はこの甲府盆地を中心にした国中(くにな 
    か)地方と、今でいえば、大月市、都留市あたりの東部にあたる郡内
   (ぐんない)地方の二つに分けられるの。この二つは、風土も気質もち
    がっていたみたい。」

五郎「信玄の根拠地であった国中の方がプライドが高かったのかな」

おふじ「さあ、わからないけど、郡内地方は、田が少なく、ほとんど、絹の生
    産をしていて、お米は国中からもっぱら買っていたそうよ。郡内の郡
    内絹は全国的にも有名だったそうよ」

五郎「なるほど。郡内の人は、お米を作ってなかった。ということは、飢饉に
   なると、郡内の人は困る。わかった!一揆は郡内の人がはじめたんだ 
   ね」

おふじ「するどい!おまえ、なん年生だい?大きくなったら、この一揆観光会
    社で働かないかい。わたしももう歳だからね」

五郎「おばさん、たぶん、こんな筋書きだろう。まず、郡内の人が、国中(甲
   府盆地)の富裕な米商人に米を貸してくれと要求するために一揆をおこ
   すのでしょう?」

おふじ「その時の頭取が、下和田村の武七、犬目村の兵助なわけ。もちろん、
   この二人は無宿ではないわよ。でも、郡内勢が、笹子峠を越えて、国中
   に入ってから、国中の貧農、無宿たちが大勢参加し、一揆の当初の目的
   が変わり、無宿者が頭取になって、甲斐国中、大暴れするのよ」

五郎「ねえさん、待った。話は急ぐ必要はねえよ。つづきは、ワインでもいっ
   ぱいやってから、ゆっくりしなせえ」



                              つづく

おふじ「はーい。まず、下和田村の武七さんね。当時、70歳だったとか。
    記録にはこうあります。『下和田村のいずこに和田武七とて近郷に知
    られし、男伊達ありしが・・・・」(珍説見聞集)『下和田村の武七
    という者、平生公事訴訟を好み、あるいは、無宿風来の長脇差などを
    手訓付、仲間の中にては親方と称し、何の家職もつとめず、その日暮
    らしの曲者なり』(応思穀恩編附録)」

五郎「男伊達だって?」

おふじ「そう、庶民のまあ、理想の男像よ。強きを挫き、弱きを守る男よ。
    よくいえば、侠客、博徒。悪く言えば、遊び人、やくざもん。
    武士道がすたれて、任侠道が盛んになったのかしら」

五郎「樋口一葉さんのじっちゃんも、こんなのじゃなかった?」

おふじ「博打をしたかどうかしらないけど、農業を嫌って、学問を好んで、公
    事訴訟が得意だってことで、一風変わったところは似ているね。
    ふつう、町や村の揉め事なんは、武士、町役人や村役人、庄屋さん、
    寺の坊さんなどがあたるけど、だんだんと、そういう立場でない人 
    で、上や地域に対して口をきいてくれる頼りになる口利き屋さんが出
    てきたんですね。国定の忠治親分だって、地元の人の頼りにはなった
    かもしれないよ。あ、思い出した。こんなタイプの人は、明治までは
    各地の村にいたようで、北村透谷も若い頃、多摩でこんな老侠客と 
    会って、影響を受けた、なんて言っています。」

五郎「ぼくらは、こんな人、映画かマンガでしか会えないよなあ。ところで、
   ガイドさん、もう一人の頭取、兵助さんはどんな人なの?」

おふじ「ちょうど時間となりました。また、明日ね」

つづく
天保7年甲斐国大騒動(2)
( 8) 01/07/02 21:18 10520へのコメント

みなさん、こんにちは。

今回は、最初の頭取について

下和田村の武七、治左衛門
「下和田村のいずこに和田武七とて近郷に知られし男伊達ありしが」(「珍説
見聞集」)


「ここに、下和田村の百姓武七という者、平生、公事訴訟を好み、あるいは無
宿風来の長脇差などを手なれつけ、仲間の中では親方と称し、何の家職も務め
ず、その日暮らしの曲者なり」(「応思穀思編付録」)

天保7年甲斐国大騒動(3)
( 8) 01/07/03 21:58 10524へのコメント コメント数:1

おふじ「みなさまー、たたいまバスは甲州街道を走っておりまーす。甲州街道
    といえば、いろんな人が歩いていますね」

五郎「えーと、椿三十郎、机龍之助、近藤勇、黒駒勝蔵!」

おふじ「そうですね。江戸から甲府勤番になる人も歩いたわ。なんでも、甲府
    勤番になるのは、山流しといわれて、武士にとっては、左遷だったみ
    たいですね。ろくな武士がこなかったとか(例外はもちろんあるで 
    しょう)。甲斐は天領で、代官所は甲府、石和、市川の3カ所にあっ
    たそうだけど、ろくな侍はいなかったみたいよ。甲斐騒動のあと、代
    官所の人はほとんどお役御免、逼塞などの処分を受けています。博徒
    にとっては、稼ぎやすいところだったかも。
    はーい、ここが、犬目村。頭取の兵助さんの村よ」

五郎「静かな所だなあ。あ、犬目村兵助の碑が建っている!」

おふじ「今は、静かだけど、昔は甲州街道の宿駅だったから、もっとにぎやか
    だったでしょうね。兵助さんは、ここで、水田屋という宿屋も営業 
    し、犬目村の百姓代をしていたそうよ。」

五郎「村では、お金持ちのほうだね。」


おふじ「そうね。それに、天保7年は結婚して4年、はじめての赤ちゃんが生
    まれたばかしなのよ」

五郎「家庭を捨ててまでして、なぜ頭取になったの?」

おふじ「ほほほ、そこが男の生きる道さ。兵助さんは、近くに住む下和田の武
    七さんに私淑していたのかもしれない。一揆を起こす前に、家の後始
    末の閣書き置きを残し、離縁状もわたしているの。生活力のある実務
    的な感じの人だわ。読み書きはもちろん、そろばん、算術、顔相など
    も得意で、逃亡中、それで生活しているのよ。」

五郎「え、逃げちゃうの?」

おふじ「こらっ。知ってるくせに(^^)。とぼけないで。兵助さんが逃亡中、日
    記をつけていて、それが現存してることは有名よね。
   下和田の武七さんに、わしは年だから自首する、おまえは、逃    
    げのびろ、と勧められたようよ。1年間逃亡し、天保8年には下総に
    定着し、天保10年には妻子を呼び、幕末(嘉永ごろ)には、再び、
    故郷に帰ったらしいわ。」

五郎「妻子と再会できたんだね。でも、よく逃亡生活ができたね。」

おふじ「兵助さんの愛読書はなんだと思う?西行四季物語だって。どんな話か
    知らないけど、旅を苦には思わない人だったかもしれないわね」

五郎「ところで、のどかさんから教えてもらって、ぼくも中央公論の日本の歴
   史「幕藩制の苦悶」で、郡内騒動のところを読んだのだけど、なんと、
   磔562人と書いてあるね。これ、ちょっと多すぎると思う。562人も磔す
   るだろうか」

おふじ「佐藤健一「真説甲州一揆」時事通信社も磔526人と書いてあったわ。で
   も、図説百姓一揆では磔4人となっているの。よくわからないわ。で 
   も、いくらなんでも562人の磔はないでしょうね。みなさま、どう思われ
   ます?」

                           つづく