虎尾の会

幕末の草莽の志士清河八郎の会の名を盗用しています。主人は猫の尾も踏めません。

田中正造と宮崎滔天

2006-10-22 | 読書
田中正造全集17巻の月報に宮崎滔天研究家の近藤秀樹(中央公論日本の名著「宮崎滔天」の解説者)が、「田中正造と宮崎滔天」と題して、二人の関わりについて書いている。

宮崎滔天のこんな文も紹介していた。

「わが国は神聖なる歴史を有する特別の国なり。その国民は忠良無比の大和民族なり。諸外国はいざ知らず、わが国ばかりは、不祥なる革命の起こる気遣いなし、とは、忠君愛国を我物顔に振りまく一部階級人士の常套語なり」(今、平成の世でもこういう人士はいるなあ)。「されど、記者(滔天)は断言する。飢え死にに甘んずるほどに忠良の国民に非ざるを。その証拠には、佐倉宗吾、後閑の茂左衛門、田中正造、大塩平八郎は今なお神と崇められ、その墓前には四季折々の花と香の煙の絶え間なきに非ずや」(しかし、いまや一揆の指導者、大塩、田中正造は忘れられようとしているけど)

宮崎滔天が田中正造と交流を持ったのは、正造の晩年で、大正2年。
福田英子(景山英子)から小石川の滔天の家に田中正造を泊めてほしい、とたのまれてから。正造は各地に正造を泊めてくれる篤志家をもっていたようだけど、小石川にはなかったそうな。

滔天の家は、2階の6畳一室、1階の6畳と3畳の2室。3畳は女中部屋なので、2室だけが、家族の住まい。いつも家族5人と女中、居候をあわせて6、7人くらいが住んでいた。
滔天は、正造翁を2階の6畳に居候といっしょに寝かせることにした。正造翁は「夜中に小便に起きるから下のほうがよい」と滔天にいうも、滔天は「かまいません。2階の戸を開けてトタンの上にお流しください」といったので、2階で寝ることに。
1階の部屋で家族で団欒をしていると、突然、ジャージャーと音が聞こえる。子供は雨だ、雨だ!とびっくり。そのうち、滔天夫人の槌子さんが気づいて子供に小さい声でいう。「先生の小便だよ。騒いではいけないよ」。子供は、ワっと噴き出す。
夫人はまたそれを制する。「制するものも、制せられる子供も、皆口に手を当てて顔真っ赤にしている様」だったそうな。おもしろい。楽しい情景です。

そういえば、昔、2階の窓からトタン屋根の上にむかって小便をした記憶が男性諸氏にもあるのではないでしょうか。

なお、滔天夫人の宮崎槌子さんは、谷中村の土地所有の名義人の一人になります。








田中正造全集

2006-10-22 | 読書
田中正造全集(20巻)を手に入れた。6900円。1冊あたり350円。出版当時は1冊2900円だったのだから、安い。しかも、月報も全部揃っており、これも内容が充実している。全巻を読むことはなく、ときどき思い出したように取り出して眺めるだけで、ダンボールの中につっこんだままになるだろうけど、得した買い物をした気持ちだ。酒とタバコの量を少し減らさなくてはならないが。

この田中正造全集を企画し、実現に向けて動いたのが黒澤酉蔵氏だ。雪印乳業の創立者であり、北海道の酪農の発展に尽くした人。米寿の年に発起されたそうだ。

黒澤酉蔵は、17歳のときに、田中正造の直訴事件の報道を聞き、単身、正造に会いにいって、その忠実な一番弟子となり、20歳までの4年間、正造の手足となって鉱毒問題に尽力する。学業も中断し、投獄も経験する。貧乏な農家の家庭に生まれ、母の死を契機に家族を養うため、単身、北海道に渡り、そこで一牧夫から再出発する。

田中正造文集でも黒澤酉蔵あての手紙は多数おさめられており、正造が最も信頼した若き同志だ。

この黒澤酉蔵は、水戸の生まれ。酉蔵が思い切った行動をした理由として、月報にのせられている「恩師田中正造先生」の中では、水戸学の影響、水戸の特徴である、知行合一の精神と書いてあった。

米寿の年になって恩師田中正造の真の姿を後世に残そうと奔走する黒澤酉蔵。実に羨ましい師弟関係だ。17歳の少年を同志として遇した正造もそうだが、親ほど年のちがう正造の行動に感銘した少年の情熱もすばらしい。

田中正造に直接会うことのできない者としては、田中正造全集で正造翁のかすかな匂いを感ずるしかできない(荘子は、「本はカスだ。そこには、真実は何もない」といったけど、まあ、しゃあない)