森信雄の写真あれこれ

日々の生活や散歩、旅の写真を掲載しながら、あれこれ思いを語ります。

丹波のニワトリ

2006-01-31 21:08:54 | 日々の写真
二年前、鳥インフルエンザの事件が起きて、丹波近辺に一時期ニワトリがいなくなった。「もう10年は駄目だねえ」いつもの鶏舎の人が暗い表情で話していた。
 そんな時期、丹波篠山に向かう山間の農村で、放し飼いのニワトリに出会った。
「お前たち、よくぞ無事だったな」ニワトリのかすかな命が輝いて見えた。
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福井県小浜

2006-01-30 20:28:51 | 日々の写真
 一昨年の秋、福井県小浜に行ったときの写真だ。港の海岸べりの堤防づたいに歩いていると、昔ながらの風景に出会った。自然の中の風景のひとつひとつの存在が、平凡でさりげないが、心が温まるような思いがする。
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達磨大師

2006-01-30 00:28:20 | 日々の写真
 七転八起とはいい教訓だが、七転八倒という言葉もある。この写真は京都の等持院の玄関だ。入って直に達磨大師の絵とにらめっこである。
 「仏教における聖なる真理は何か?」「空っぽで何もない」
 「お前は何者だ?」「知らぬ」
 
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印象派?

2006-01-28 22:44:05 | 日々の写真
 日向の影法師や、水面に映る逆さの世界が好きだ。完璧に自分の世界だが、この写真も意味不明で、曖昧模糊の風景である。私の精神構造そのもので、客観性はなし、それでもうっとりしてしまうのだ。ひとり遊びの心象風景。
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カラス

2006-01-28 01:35:03 | 日々の写真
 数年前に怪我をしたカラスを引き取って餌をやっている、西宮市神呪寺そばの茶店のおばあさん。カラスは飛べないので籠の中の暮らしだが、見事になついている。「猫もいましたよねえ」と聞くと「ああ、家の中のそこいらへんにおるじやろうよ」
 
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奈良の鹿

2006-01-26 21:43:22 | 日々の写真
 奈良の鹿は「鹿せんべい」をねだるとき、頭を下げる。可愛い仕草だが、中には強引によこせと強気なのもいる。人に馴れていても、野生の習性が消えたわけではない。動物は目が澄んでいる。いつも鹿の写真を撮るとき、のんびりした中に、警戒心と本能がそのまま瞳に映っているように思える。
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夕景

2006-01-25 19:49:40 | 日々の写真
 伊丹、荒牧バラ園の坂の夕景だ。まるでハイウェイーのようだが、何でもない道で、瞬間の出会いでもある。
 風景に見とれてしまうのは、哀しみの積み重ねと、そのときの心のバランスの状態が大きいように思う。
 命は限りあるものと実感したときに、ひときわきれいに映るのだろうか。
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対局

2006-01-24 21:41:04 | 日々の写真
 今日は久しぶりの対局で、関西将棋会館に行く。王将戦の予選で、田中魁秀九段戦。いつもは電車で居眠り(熟睡)するのだが、目が冴えて困った。対局が始まっても寝ぼけ気味で、早々と仕掛けられて面食らう。
 最近は対局となると憂鬱で、これではいけないと反省するのだが、登校拒否児童の心境に似ているのだ。ただ盤の前に座ると、まだ闘争本能は残っているようだ。
 昼食前には決戦になり、少し指せると思った局面で、昼食休憩。ガード下のいつもの食堂に行くと、定休日だった。お造り定食が定番で(更科食堂では野菜炒め定食だが、昼間は混んでいる)楽しみだったのに。結局向かいの店でおでんと肉うどんを注文する。
 午後からの戦いは冴えなかった。読みが集中できなくて、尻切れトンボで敗戦。
 隣の対局が秒読みになっていたので、感想戦も早めに打ち上げる。
 「どこがおかしかったかなあ?」記録係のO君に聞く。「と金を作る順で優勢と思いましたけど」「やっぱりそうだったか」
 久しぶりに局面が脳裏に浮かび、離れない。
 負けるとぐったり疲れて、自分が駄目な人間に見えてくるのだが、普段の生活が棋士とは思えない姿勢だからしょうがないかと、帰りの電車に乗り込む。
 <下の局面で最善手がわからなかった>

 実戦は▲7七金寄と自重したのだが、▲5四歩、▲6三歩、▲6四歩、▲3六角もあった。
 昔なら村山君に渋々教えてもらったのだが・・弟子に聞いてみようか。
 
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雪化粧

2006-01-23 21:26:49 | 日々の写真
昨晩からのみぞれが雪に変わり、朝起きるとところどころ雪化粧だった。粉雪が舞い、積もるかなと思ったが、午後から晴れ間が見えて雪も解けてしまった。
 私が起きてする真っ先にすることは、空を見上げることと、朝刊を取りに行くことだ。空を見て、天気によってはけっこう気分も左右される。そして新聞は目を通すのだが、暗いニュースが多すぎて最近はずっと読み流すことが多かった。
 はっとさせられる記事があった。
 数日前の経済評論家の内橋克人さんのコラムだった。ライブドア強制捜査に関するもので”強制捜査に手をつけたことは、いま社会を覆う「怪しげなる時代」の鍍金が剥げ落ちる幕開けの表象となろう”
その出だしからいろいろ評論した後で”マネーゲームのつかの間の勝者に国民の敬意を凝集させるような政治でなく、労働の正当な報酬とは何かを明示できる政治こそ、21世紀日本のものでなければならない”で締めくくってあった。
 目からウロコが取れたような、明快な分析と指針だなと思った。
 今日、ホリエモン逮捕のニュースが流れた。私は選挙に出る前までは、面白い人だなと思っていたが、あのときがっかりして以来興味が失せていた。
 世の中は表と裏、本音と建前があるのは現実だが、あまりにも堂々と裏が表に出すぎている世の中は危ない気がする。
 強さを強調する社会は、弱者には冷たいものだ。自分は弱者にならないと思っている人間が、世の中を駄目にしているような気がする。

 自分の関わることは、どこかで社会につながっている。曖昧な見方は無責任にもなるが、また新聞を見るのがおっくうになって来そうでもある。
 この写真は散歩しているときに撮った一枚だ。雪化粧ともライブドアとも関係ないが、花を愛でたい心境になった。
 
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旅の仙人

2006-01-22 22:13:36 | 日々の写真
 旅の仙人、水津英夫さんに会いに堺に行く。日曜のせいか車も少なく、湾岸線も走りやすかった。1時間ほどで病院に着く。すぐに「インターネットカフェ」に行き、初体験の水津さんにHPの中の「旅の仙人写真館」を見てもらう。
 実は私も漫画喫茶やネットカフェーは初めてである。食事をしながら「パソコンとインターネットの区別すらわからんですからなあ」感激してもらえてよかった。
 台湾、シリア、ヨルダン、イスラエルと一枚一枚見ながら、コメントを聞きながら入れていく。「場所や説明も大事ですが、水津さんの生のコメントが急所ですよ」と私の案を話す。
 合間にバテていたのは私のほうで、水津さんは画面の自分の写真を夢中で覗き込んでいた。カップル席に座り込んで4時間、同じ作業をする。「いやあ、面白いですなあ」写真を見ながら、旅をしていたときのことを思い出そうと懸命だ。
 「私などは几帳面な水津さんとちがって、メモもしていないので、いつなのか、どこなのかもわからない写真だらけですよ」
 「中東でメモしていたものを盗まれてしまって・・でも森さん、ここはお奨めですよ。是非行って下さい」
 水津さんにかかると、世界中どこも身近ですぐにも行けそうなムードがある。
 私が「旅の仙人写真館」を思いついたのは、高齢にして世界を回るエネルギーに感嘆したのと、水津さんの目線でみた世界の写真を見たかったからだ。
 掲載を始めた頃に「こんにちは!森さん、ダイハード水津さんは健在ですね」ネットの書き込みに、旅の写真家Oさんのコメントがあった。
 また次回にの約束をして、自宅に帰るのナビの設定をする。湾岸線は風が強くなり、きれいな夕景を尻目に恐々と慎重に運転する。
 この写真は朝日会病院に戻ったときに撮った一枚だ。水津さんの笑顔が絶えない一日だったのが嬉しかった。
 
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砂の器

2006-01-21 23:06:40 | 日々の写真
名作と言われる映画は何度観ても感動する。
 今日はシネピピアに「砂の器」を観にいった。この映画はビデオも含めて、二十回くらいは観たと思う。「砂の器ですか?」喫茶バグダッドカフェーのマスターがうれしそうな表情でコーヒーを入れてくれた。「張り込みもいいですよ」今は追悼・野村芳太郎と松本清張特集の映画が上映されている。
 心が疲れたときや、何となく空しい気分のときに、この映画を観ると涙とともに生きる力を与えてくれるようなのだ。”美しくも哀しい人間の「宿命」”を描いた映画なのだけれど、根底にある偏見と差別の重さを受け止めなければいけないのだけれど、テーマに流れる宿命のメロディーと美しい日本の四季が、哀しみの色彩と生きる切なさを浮き彫りにするようだ。
 親子の絆は永遠の宿命である・・
 この映画には誰も悪人はいない。それがかえって人間が生きていく業を感じさせる。
いつもこの映画を観ながら思うのだが、人を感動させる純粋なものは、過酷な運命を背負った者だけに与えられる生の証なのだろうか。でもその代償は、普通の人間には耐えられない日々があってこそなのだろう。
 そして、いつの時代でも世の中の矛盾や残酷さはつきまとい、人と人の絆はもろく壊れやすい。しかし永遠に断ち切れない絆でもある。
 
 この写真は「砂の器」とは無関係だが、同じ様な日本の四季のひとつの風景だ。
 考えてみると、私はいつの間にか、砂の器の映画の風景のイメージが深く印象に残っていて、知らず知らず追い求めているような気がする。
 
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安用寺五段昇段祝賀会

2006-01-20 21:32:50 | 日々の写真
新年会を兼ねて「安用寺孝功五段の昇段を祝う会」を森一門で開いた。
 増田裕司五段、安用寺孝功五段、山隆之六段、川崎大地三段(片上大輔四段は東京在住なので欠席)私と妻の6名。
 昨年の11月に昇段していたが、あわただしい年末を避け、震災の日が過ぎた今日1月20日に宝塚のホテル「若水」で行う。昼食と温泉を兼ねたイベント。
 山六段が私の家に向かってしまい集合時間に遅れたが、私の連絡ミスかどうかは定かでない。ただ昨日の対局姿のままなのと、携帯電話を持ち忘れていたのと、ホテルの窓から見下ろして、遅刻でもゆっくり歩いていた姿は山君らしいペースだった。
 
 安用寺五段は京都の出身で、私の兄弟子の中尾修六段の弟子でもある。中学生のときアマ名人戦の決勝まで進み、森門下として奨励会に入会した。始めは期待された割にぱっとしなかったが、三段のとき親元を離れてひとり住まいの勝負手が実り晴れて棋士となった。
 危ない時期もあったが、負けん気の強さが道を切り開いたのだろう。
 人当たりがよく、面倒見もいいので弟子達の兄貴分の存在だが、子どもの頃は喧嘩早かったらしい。
 将棋は棋士になってからの方が強くなったと思うので、これからエンジン全開で活躍するだろう。伸びていってほしい。
 辛口コメントとしては「小さくまとまらないこと」「私生活でもあまり血の気を出さないこと」である。今期の順位戦は好調でいい結果を大いに期待している。
 
 一時は「みんな仲が悪いですね」と言われて、やれやれと思ったが、今は大人の感覚で、群れず離れずのいい関係であると思いたい?
 人と人の関係は難しい。弟子には群れるなと言っているが、結果的に割りとその雰囲気にはなっているようだ。
 勝負の世界にはランク付けという言葉がある。将棋の実力と結果が大きいが、人の評価に左右されることはないと思う。またそれ以上に、底の浅いうわっつらの人間にはなってほしくない。地味であっても真摯な姿勢を持ち続けてほしい。
 はじめはみんな少し固かったが、食事しながら雑談していくうちに打解けてきて、いい雰囲気になってほっとする。やはりご馳走と温泉、そしてお祝いの席はいいもので、今日はよかったなあと思う。師匠としての役目が、ほんの少し肩の荷が降りたようにも思う。
 昇段おめでとう安用寺五段!
 弟子の健闘を祈りたい。
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東尋坊

2006-01-19 22:25:11 | 日々の写真
 福井県の東尋坊には何度も行ったが、これは3年前の正月にいったときの写真だと思う。海岸の断崖絶壁は自殺の名所が多いが、確かに下を覗くとあの世に吸い込まれるようで怖い。「いま一度考え直せ」の立て札を置いてある場所もある。
 この日は珍しい白雲が湧き上がっていた。スペクタクルの映画を観ているような風景でもある。
 「喜びも悲しみも幾年月」という映画があった。その古い方の映画のテーマ曲の「俺ら岬の 灯台守の 妻とふたりで 沖ゆく船の 無事を祈って・・」という歌詞とメロディーが好きだった。その映画に出ていた灯台を訪ねたこともある。最近もビデオ店で借りて新しいのと一緒に観た。悲しい話だが、胸にジーンと来るストーリーだ。
 昔は、きつくともひとつの仕事に徹して一生を貫くのが、男らしいと言われて来たと思うが、今なら割に合わないので無理だろうなあ。
 岬や灯台は、どこか陸の果てにあって、海の向こうの別の世界に繋がっているロマンが漂う。でも荒れ狂う海は情け容赦なく、怒りをぶちまけるように、激しい自然の掟を見せつける。
 人の一生は長いようで短く、広いようで狭く、自由のようでいて縛られているものなのかもしれない。
 ある人に「あなたは無常観がもとにあるから、心が広いのですよ」誉められているのか呆れられているのか、そう言われてきょとんとしたが、まあいいかの精神が、動物にも人間にも甘くみられる体質なのだろうか。
藤原新也さんの写真をみて「この世とあの世の境目を覗きこんだ」風景が写っているように思う。何度か真似てみたのだが、私が撮るとどこかのんびりしたものが写ってしまうようだ。
 
 
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白い椿

2006-01-18 21:54:17 | 日々の写真
 フィルムの山の中で、これだと気に入った写真は少ない。以前将棋世界誌で「風景」という写真と紀行文を連載していたとき、36枚撮りのフィルムで5,6本、多いときは10本くらい撮るのだが、気に入ったカットといえば数枚しかない。
 今はデジカメに変えて、それでも一日に百枚から二百枚は撮っているが、同じ様なものだ。ひとつのカットを五枚から十枚くらい撮るが、縦横斜めと無限遠で工夫してみるが、デジカメは案外ピントがあわせずらい。マニュアル機能を使いたいが私はメカ音痴なので、使用法がいまひとつわからない。
 「そんなに枚数を撮れば、どれかいい写真があって当たり前でしょう」と言われると身もふたもないが、当たらずとも遠からじだろうか。
 少し丁寧に撮ろうと思ってからも同じで、撮り始めるとあっという間に百枚になってしまう。デジカメは直に消せるので、最近は撮ってから直に見直して、最終的には枚数を減らそうと心がけている。
 写真家の西川先生に、写真を撮る前にそれを凝視すれば、見えない部分も見えるものですよと言われたことがある。最近写真を見ていて、同じカットでも何か感じるものと、全く心が入っていないのとがあるのに気が付いた。
 心をこめるとはある意味で恐ろしいものでもある。これが魂というのだろうか。
 私の写真が魂がこもっているというのでなく、結果的に気持ちがこもっているかどうかが出てしまうことが、凄いなあと思うのだ。
 気に入った写真は何度も見ながら、妻に「この写真まあまあと思うけど」と質問する。「こっちの方が好きだけど」と言われることもあるが、総じて一致する。
 この椿はどうだろう?ちょっとだけ椿が微笑んでいるように思うのは、私のひとり合点だろうか。
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黒ラブ

2006-01-17 20:01:18 | 日々の写真
宝塚のゆずり葉緑地にある、「鎮魂の碑」に向かう途中、公園に入った途端に黒ラブ(ラブラドール)が二匹私に向かって走ってきた。何が起きたのかわからないが、一瞬のことで逃げる余裕もない。さっと近づいて足元やズボンの臭いを嗅いでいく。「こらっ、○○戻りなさい!」大きな声で飼い主らしき女性の声がして、少しほっとした。親を含めて三匹の黒ラブは迫力があって、のびのび公園内を走り回っていた。どうやら訓練のようでもある。
 この間から大きな犬と縁があるらしくて、卒倒することはなかったが、怖いものは怖い。訓練主が呼ぶとすぐに戻っていくが、また気まぐれに私のところに寄って来て、妙に親しくされるが、私は恐々なのである。
 受付で献花を受け取り、記帳して鎮魂の碑に向かう。他に誰もいなかったが、持ってきたチューリップとともに献花する。
 昨年は思いを書いた一文をカプセルに入れたと思うが、静かな時間だった。
 戻って行くと、黒ラブがまた愛想よく、元気に擦り寄って来て、まあしょうがないかの気分で、なすがままになる。ペロッと顔面をひとなめされた。「一歳半の子ども達です」なるほどやんちゃで、元気がいいはずだ。
 おもちゃを銜えて走り回っては、ときどき真っ直ぐに寄って来る。
 震災の日だが、黒ラブに遊ばれて、まあ穏やかな一日だった。
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