フィルムの山の中で、これだと気に入った写真は少ない。以前将棋世界誌で「風景」という写真と紀行文を連載していたとき、36枚撮りのフィルムで5,6本、多いときは10本くらい撮るのだが、気に入ったカットといえば数枚しかない。
今はデジカメに変えて、それでも一日に百枚から二百枚は撮っているが、同じ様なものだ。ひとつのカットを五枚から十枚くらい撮るが、縦横斜めと無限遠で工夫してみるが、デジカメは案外ピントがあわせずらい。マニュアル機能を使いたいが私はメカ音痴なので、使用法がいまひとつわからない。
「そんなに枚数を撮れば、どれかいい写真があって当たり前でしょう」と言われると身もふたもないが、当たらずとも遠からじだろうか。
少し丁寧に撮ろうと思ってからも同じで、撮り始めるとあっという間に百枚になってしまう。デジカメは直に消せるので、最近は撮ってから直に見直して、最終的には枚数を減らそうと心がけている。
写真家の西川先生に、写真を撮る前にそれを凝視すれば、見えない部分も見えるものですよと言われたことがある。最近写真を見ていて、同じカットでも何か感じるものと、全く心が入っていないのとがあるのに気が付いた。
心をこめるとはある意味で恐ろしいものでもある。これが魂というのだろうか。
私の写真が魂がこもっているというのでなく、結果的に気持ちがこもっているかどうかが出てしまうことが、凄いなあと思うのだ。
気に入った写真は何度も見ながら、妻に「この写真まあまあと思うけど」と質問する。「こっちの方が好きだけど」と言われることもあるが、総じて一致する。
この椿はどうだろう?ちょっとだけ椿が微笑んでいるように思うのは、私のひとり合点だろうか。
今はデジカメに変えて、それでも一日に百枚から二百枚は撮っているが、同じ様なものだ。ひとつのカットを五枚から十枚くらい撮るが、縦横斜めと無限遠で工夫してみるが、デジカメは案外ピントがあわせずらい。マニュアル機能を使いたいが私はメカ音痴なので、使用法がいまひとつわからない。
「そんなに枚数を撮れば、どれかいい写真があって当たり前でしょう」と言われると身もふたもないが、当たらずとも遠からじだろうか。
少し丁寧に撮ろうと思ってからも同じで、撮り始めるとあっという間に百枚になってしまう。デジカメは直に消せるので、最近は撮ってから直に見直して、最終的には枚数を減らそうと心がけている。
写真家の西川先生に、写真を撮る前にそれを凝視すれば、見えない部分も見えるものですよと言われたことがある。最近写真を見ていて、同じカットでも何か感じるものと、全く心が入っていないのとがあるのに気が付いた。
心をこめるとはある意味で恐ろしいものでもある。これが魂というのだろうか。
私の写真が魂がこもっているというのでなく、結果的に気持ちがこもっているかどうかが出てしまうことが、凄いなあと思うのだ。
気に入った写真は何度も見ながら、妻に「この写真まあまあと思うけど」と質問する。「こっちの方が好きだけど」と言われることもあるが、総じて一致する。
この椿はどうだろう?ちょっとだけ椿が微笑んでいるように思うのは、私のひとり合点だろうか。