森信雄の写真あれこれ

日々の生活や散歩、旅の写真を掲載しながら、あれこれ思いを語ります。

追悼の集い

2006-01-17 01:09:53 | 日々の写真
 伊丹の昆陽池の「追悼の集い」に行く。あいにくの小雨で、例年よりも出足は悪そうだが、深夜を待って出かけた。記帳して細長いローソクを1本貰い、会場に入る。始めにお祈りをして、船越隆文君にこの一年の思いを語りかける。
 
 今年の第11回のテーマは「誓い」天に向かって、指きりげんまん、とあった。
 小雨でローソクが心もとなくて、消えかけたローソクや消えてしまったローソクに灯をともしていく。「雨に負けたらあかん」男の人がつぶやきながら、同じように灯をともして回っていた。
 シンにつけるのでなく、ローソクごとに燃やすように点ける、そんなコツがわかった。そのうち雨があがり「もう大丈夫だ、消えたりしないぞ」さっきの男の人がほっとしたような声になった。
 会場のボランティアの人達は”ひとりになっても続けていきます”そんなゆるぎない決意が伝わってくる。
 指にポトリと蝋が落ちてすぐに固まった。また消えかけているローソクに灯を付けて回る。「君達、また来年、ここで会おうな」おじいさんが少年達と約束をしていた。
 とにかく続けていくこと、哀しい場面が多くとも、歩き続けていくこと。それが生きている者の、出来うることなのだろう。灯を消さないで・・・
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震災から11年

2006-01-16 02:01:15 | 日々の写真
震災から11年経ち、今年もその日がやって来た。昨年は十年目に、震災で亡くなった船越隆文君のお母さんとお兄さんが、初めて清荒神に足を運んでくれた。
 お母さんは「怖くて足がすくみ、一生いけないかもしれません」と言ってずっと躊躇されていたが、ようやく実現した。この写真の空き地に船越君のアパートがあった。何でもない一枚の写真を撮るのに、私も十年かかった。
 「もう弟子は取らない」そのときの正直な思いだったが、数年経ち、そのことを知ったお母さんから「隆文のためにも、弟子をいっぱい取って育て下さい」と言われた。
 震災の後の数年間、お母さんは立ち直れなくて、船越君の肖像画を描き続けたり、「棋士になりたい」という本の出版もされて、自分を支えてこられた。
 そして2年前に、宝塚で個展を開くことになり、ようやく私の心のしこりがひとつ取れたような気がした。
 この11年、自分はどんな生き方をしてきたのか、そしてこれからどんな生き方をするのか。
 いつもこの命題を突きつけられて、船越君に返事をしながら語りかけるのが、1月17日である。
 生きているものの傲慢さを、死せるものは語れない。歯がゆいくらいに、哀しい気持ちやいらだちを、心の中で消化していくよりないのだろう。
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落ち葉

2006-01-15 22:02:35 | 日々の写真
 一門研究会の日、午後から池田市の五月山公園に行く。動物園に入ろうと思ったら駐車場がいっぱいで、しかも並んでいたのでやめにして、ドライブコースを走ることにした。
 車を止めて、自然の散策と思い、望海亭跡まで下りる。私の好きな小さな道が続いていて、森林浴とハイキングに最適のコースだ。樹木がおい茂っていて海は望めないが、昔は詩人墨客が訪れて茶の湯や歌会などが開かれたようだ。
 江戸時代の末期には廃れてしまい、160年前に建てられた石碑も剥落が激しいが、歴史の跡の何かが伝わってくる。
 雑木林の道の写真をいっぱい撮ったが、ふと、落ち葉の写真を使うことにした。
 車でドライブウェーを走ると、霊園が目に付く。以前も見に来たことがあるが、今日は奥まで進み、○○霊園に入る。墓地販売の立て札が目に入ったが、風光明媚な場所に惹かれたのだ。勧誘の人が付き添ってきて、ついつい説明を聞いて案内してもらうことになった。
 お墓を作ることに目がいったりするのは、生命力の衰えだろうか。
「近くの便利さを選ぶか、遠くても自然の中をえらぶか、ポイントは場所ですね」
「はあ、そうですか」
 帰宅して、妻に「体調が悪いときなのに、のこのこ付いて行って・・」と叱られる。
 夜、BSで「渡り鳥」を観る。映画館で見たときよりは迫力に欠けたけど、生命の掟、鳥たちのけなげさ、一心不乱に羽を動かして数千キロを移動する姿に見入ってしまう。
 冬枯れの 木立の中の 落ち葉かな
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シェパードの「ラブ」

2006-01-14 23:05:00 | 日々の写真
私は大きな犬は苦手である。昨日散歩しているときに、ばったりこの写真のシェパードと出会った。もちろん私の腰は引けていたが、狭い道なので傍に寄ってくる。(犬は後ろを見せて逃げると、逆に追いかける習性がある)どうしょうかと思っていたら「おとなしいので大丈夫ですよ」手綱を持った飼い主の人が、落ち着いて声をかけてくれた。(それでも戦って勝ち目のない犬は恐いのだ)
 確かに見た目の迫力よりは、おとなしそうだった。しかし、何故か私のところに擦り寄って来て、ズボンのにおいを嗅いで来た。私はとにかく動物に甘く見られるのだ。「お宅、犬を飼っているのでしょう。警察犬学校にいた犬で、七歳の女の子でラブと言います」
 写真を撮らせてもらおうとすると「ラブと声をかけたら、振り向きますよ」
それがこの写真である。可愛いけどおっかない、勇気を出してなぜたら、澄ましながらも気持ちよさそうだった。
 撮り終えると興味が削がれたのか、力強く手綱を引っ張り向こうに走り出した。
 ラブは早朝の3時くらいから数時間、毎朝散歩さすそうだ。今日の昼間は肩慣らしの散歩だったらしい。澄んだ目をしたいい犬だったが、やっぱり腰がひけてしまうのだった。
 
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旧橋本関雪邸

2006-01-13 21:58:04 | 日々の写真
 久しぶりに清荒神の散策に出かける。駅裏の空き地には、震災で亡くなった弟子の船越隆文君の住んでいたアパ-トがあった。十年経ったが、今も当時のままである。そこから坂道を上り、八坂神社にお参りしてから、村野藤吾邸に向かう。いつも通っているのに、あらためて驚く。村野藤吾さんは戦前戦後を通して数多くの名建築を残した、日本を代表する建築家だ。没後20年あまり経つが、90歳を越えても創作意欲が落ちず、亡くなる前日まで仕事をしていたというから凄い人だ。
 まさか近くに実家があるとは夢にも思っていなかった。塀と門の外から中を覗かせてもらっていると、偶然、上品な女性が寄って来られて「どうぞ、ご見学なさいますか?でも春のほうがいいですよ」娘さんだったが、「怪しくしてすみません」と恐縮する。少しお話していただいて、3月にテレビ放映のときは、日時を連絡してもらえることになった。
 冷や汗をかいたが、うれしい出会いでもあった。
 そこからモダンな住宅街を通って、旧橋本関雪邸に向かう。以前は見学も出来たのだが、震災で美しい庭園や建物が破壊されてしまって、見るも無残な風景となってしまった。保存よりも売却の話も聞いているが、哀しい現実である。
 震災の爪痕は、未だに深くあちこちに残っている。中は入れないのでちらっと覗くと、あの風情の面影は跡形もない。この写真の門構えだけが、さみしくたたずんでいた。巡礼街道と言うロマンあふれる名称の小道に、旧橋本関雪邸も是非復活してほしいものである。
 帰って昼寝をしていると、電話が鳴って、震災の特集で17日朝日の夕刊に(阪神版予定)船越隆文君の記事掲載のインタビューを受けることになった。
 不思議なもので、ちょうど空き地を写真で撮った後だった。
 
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椿三十郎

2006-01-12 21:32:58 | 日々の写真
今日はポカポカ陽気で、春を思わせる暖かさだった。送迎を待つ間、西宮K病院の敷地内で、猫柳や椿の写真を撮る。猫柳は春近しの蕾がふくらみ、椿も真紅の色彩が空に向かって映えていた。
 黒澤明監督の「椿三十郎」は何十回と観た映画だ。最後の方で、隣につながるせせらぎに、真っ赤な椿が流れ出したら踏み込めという合図のシーンが印象に残っている。また椿三十郎が決闘で一撃の元に相手を倒したとき、若者が「お見事」と言うとすかさず「馬鹿者!」と怒鳴ったシーンも痛快だった。
 頭でっかちの若者の軽い言葉の中の、生ぬるい精神に喝をいれたのだ。この映画は時代劇だが、今も似たようなドラマが演じられているような気がしてならない。
 「お名前は?」と聞かれて、「椿三十郎」(とでも言っておこうかのニュアンスだ)と名乗るのがカッコよかった。
 
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阪神大震災

2006-01-12 00:04:56 | 日々の写真
阪神大震災から2,3週間後に、仮住まいしていた大阪から宝塚に戻ってみた。 当時住んでいた清荒神のマンションから必要なものを持ち運び、その後で家の近くから隣町あたりを歩く。このとき写真を撮るかどうか迷った末に、目をつむって記録に残しておこうと決めた。意味があるかどうか、それはわからない。
 あちこちで建物が崩壊している姿は、本当に何が起きたのだろうと、唖然としながら声もない。ただ、今まで存在しているものが、こんなにももろいものなのかと思った記憶がある。
 亡くなった弟子の船越隆文君の崩壊したアパートは、どうしても撮れなかった。
一見何でもないマンションが、よく見ると一階が消えていたり、瓦礫が氾濫して近づけない家もある。こういった現実を目の当たりにすると、どんな言葉も意味をなさない。
 震災から十年以上過ぎて、このフィルムを見るのは初めてだった。おそらくもっと悲惨な現場もあるだろう。私にはこれが限界だった。
 写真は記録だなと思う。記録は現実を物語り、現実は記録や記憶が薄らいでいくのかもしれない。
 正月が過ぎて、どこか精神的なバランスに偏重をきたしそうになるのは、震災の日が近づくせいかもしれない。無意識にからだが何らかのいらだたしい反応をする。
 そうすると、普段の悩ましいいことが、どうでもいいじゃないかと思えて来たりするのだ。
 何事もなかったかのように、日常が日々平凡に過ぎていく。
 
 
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雪のお地蔵様は見ていた

2006-01-10 22:17:54 | 日々の写真
成人式は1月15日と慣れ親しんでいたのに、いつの間にかいつだかわからない日にちになってしまった。ちょうど正月気分も抜ける頃だが、今日はシネピピアに「ALWAYS=三丁目の夕日」を観にいく。
 東京タワーが出来る頃の下町の話だが、漫画「三丁目の夕日」は昔からのファンだった。評判のいい映画でもあり、是非観ておきたかった。
 ストーリーは何となく予告篇で想像が出来ていたが、わかっていても、子どもの頃の郷愁とつつましい下町の暮らしが描かれていて、ヒットするのも納得だった。
 これは勿論、私の持っている感性での思いだが、今はまともな人ほど、どこか違和感を持って生きているような気がする。単なる懐古趣味だけでなく、これから先どこへ向かっていくのか、漠然とした不安と諦観さが同居しつつ、何とか元気に暮らしていこうと・・。
 何かがなし崩しに崩れていくように見えるが、それが価値観のズレだとしたら、埋められない溝は深いかもしれない。深刻さはないが、歯がゆい思いがする。
 人と人との間の溝は、考えは違えど一緒には歩いている、そんな大人の感覚があってもいいと思うのだが・・。
 三丁目の夕日がヒットしているのを知り、よかったと思う。まだ何か、今の時代に充たされない郷愁を持っている人が多いのだ。ほっとするものがある。
 欲得や勝ち組負け組みの時代など、早く過ぎ去ってほしいと願うが、昔の勧善懲悪の映画と違って、今は映画でも悪人が強い時代だからなあ。
 非力、無力、なすがまま、それでも世の中の片隅で生き抜いていこう。
 木枯し紋次郎ではないが、「雪のお地蔵様は見ていた」そんなストーリーが浮かんできた。
 注=木枯し紋次郎風の題名である。
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第9回ピピアめふ子ども将棋大会

2006-01-09 20:13:24 | 日々の写真
 第9回ピピアめふ子ども将棋大会(1月9日祝、月)
 昨晩、ドロナワ式に準備して朝を迎える。第9回ピピアめふ子ども将棋大会の運営準備の集合は8時40分。今回は初めて手伝う弟子もいてちょっと不安だったが、参加人数が少し減ったので、パニックにはならないだろうの読みだった。
 大会は当日参加と欠席があるのが常だが、今回は例年よりも欠席が多かった。
 この大会の特徴は、予選が1勝通過でトーナメント枠が広いことと、負けても敗者戦でいっぱい指せることだ。(99パーセント必ず1勝はできる?)
 午前中は一部(小学4年まで)午後から二部(小学5年~中学)と、宝将戦(有段者)の三ブロックに分かれて戦う。
 宝塚市在住以外でも参加可なので、けっこう遠方からも来てくれる。早いもので次回で第10回となるが、よく続いたなあとも思う。
 私の教室の子ども達もいっぱい参加しているが、入賞はしてもなかなか優勝まではいかない。心の中で応援しているのだが、ちょっと先生に似て甘いのかなあ。
 けっこうレベルが高い面もある大会だが、覚えたての初心者も入り交ざっているのがいいのだろう。
 どんな将棋を指しているのか見回っていると、初心者や初級者の弱点が見えてきて、なるほどこういう面を指導したほうがいいのか参考になることも多い。
 勝ち負けもあるが、将棋を楽しんでほしい気持ちが強い。それにプラス将棋の厳しさや、フェアーさを少しでも身につけてくれたらなあと思う。
 今年の特徴はお父さんの付き添いが多かったことだろうか。数年前まではお母さんばかりだったように記憶している。
 将棋大会は、常にどういう内容にしたらいいのかという課題を抱えながら継続していくものだ。将棋という接点で、自分に出来うるものを考えながら試行錯誤して、今回の大会も何とか終える。
 
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花山院

2006-01-08 20:27:03 | 日々の写真
久しぶりのドライブで三田方面に行く。花山院(かざんいん)に寄ることにした。みぞれがちらつき始めて、坂道が不安だったが、何とかたどり着く。
 花山院は西国33ヶ所観音霊場の番外札所。昔、花山天皇が即位後2年、19歳で法皇となって京を離れて、33ヶ所の霊場を回り、この地で隠棲生活を送った。
「有馬富士 ふもとの霧は海に似て 波かと聞けば小野の松風」と詠んだ。
 花山法皇を慕って、多くの女性が都からこの地に移り住み、尼になり住み着いたというから、女性にもてた、悲劇の、魅力的な人物だったようだ。その歴史を紐解くと、ずい分面白そうだが、破天荒な人でもあったのかもしれない。
花山法皇は、平安時代、権謀術数渦巻く藤原氏に利用されて悲哀を味わっている。歴史の勝者によって、敗者はどんな処遇や評判も仕方が無い面がある。
 この地を初めて訪れたとき、気品があって庶民的な雰囲気が不思議だったが、その謎が少しわかった気がする。
 花山院からは、三田の有馬富士、その背後には六甲山系、千丈湖のかなたには小豆島や家島群島も見える。恐らく千年前も似たような風景だったろう。
 お守りを買って帰る頃には、みぞれも止んでいた。正月の三ヶ日ではないが、参拝客は少なかった。
 歴史上で興味をそそられる人物の中で、花山法皇の存在も大きい。きな臭い時代にあって、どう生き抜くかは、永遠のテーマでもある。
 花山法皇は何かを残して、何かをが伝わってくる人物に思える。
 
 
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ペンギン

2006-01-07 23:56:32 | 日々の写真
以前は動物の中ではライオンとラクダとペンギンが好きだった。三つのイメージからすると、王者の風格、厳しい環境でも生き抜く強さと、ちょっぴりユーモラスな雰囲気が好きだということだろうか。
 「ラクダとペンギンはわかるけど、ライオン?ライオンのオスはたて髪は偉そうだけど、見掛け倒しじゃない?」と妻が言う。確かにそうかもしれない。
 今はライオンの代わりにコンドルか鷹になった。とにかく自分に無いもの「強さの象徴」に憧れを抱いているのだろうか。格闘技に憧れるオスの本能と間抜けさ?に似ている。(自分が強くなったつもりになりたがる本能だ)
 この写真は城崎マリンワールドのフンボルトペンギン達である。ペンギンの散歩のお披露目の仕事を終えて、一休みの光景だ。少し前になるが「皇帝ペンギン」の映画を観たとき、過酷な環境の中で生き抜くペンギン達のけなげさに感動の嵐だった。
 「ペンギンの前に出たり、からだに触らないで下さい。おしっこをかけられますよ」よそ見しながら行進するのもいる。
 見かけよりもはるかにたくましいのが野生の動物たちである。でもやっぱり愛嬌たっぷりで、可愛いなあ。
 
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城崎温泉

2006-01-06 22:37:32 | 日々の写真
1月5日から6日に恒例の新年一泊旅行に出掛ける。今年は城崎温泉で、家族三人と川崎大地三段のメンバーだ。正月をはずすのは我が家の正月旅行の手筋である。宝塚から福知山線に乗ってまもなく雪景色で、車窓に見入る。
 城崎へは2時間30分あまりで着いた。足元のぬかるみ、みぞれのちらつき、ますます温泉の湯が恋しい。
 始めに昼食を取り、マリンワールドに行き、3時前に宿泊の「ゆとうや」に入る。すぐに外湯めぐりで、一の湯と鴻の湯に向かう。温泉の湯につかると、足の痛みと腰の重さがしみわたる。一年間、このために精出したようなものだとは大袈裟だが、体の火照りとともに、心まで癒されるようだ。
 食事の後でも柳湯に入り、温泉めぐりはほぼ満足で、射的とスマートボールとパチンコをする。3年前に来たときよりも、心なしか客も多かった。昔なつかしの雰囲気がいい。
 旅館に帰ってから、夜はウノとトランプをする。本来、私は遊び好きで、ゲームならお任せの得意パターンだ。
 贅沢な一日だったが、気持ちよく眠れた。
 翌朝は早起きして、内湯に入り、朝食まで二度寝する。朝食の後も入り、計6回温泉に入ったことになるが、まだ外湯に入る意欲満々だった。
 温泉に入り、おいしいものを食べる、何にもましてこれが一番幸せなことだ。
 但し、あまり楽しいと必ずしっぺ返しで、その後でいやなことに直面するのが過去のデータで、警戒も必要だ。(6日は奨励会の例会日だ)
 旅館を出て、買い物を済ませて、うろうろして、あちこち写真を撮る。こんなときは路地や街の裏通りを歩くことが多い。
 その後で、ロープウェイに乗って山頂に上る。雪が50センチくらい積もっていて、道が消えていた。公園のベンチや遊具の上を歩いている仕組みである。

 旅日記を私が書くと、子どもの日記みたいになってしまう。段々面倒臭くなって来て、省略してしまうからだ。
 本来なら「城崎に来る。カニを食べて湯につかる」で終わりである。
 昨年は正月の旅行以来、一泊旅行も出来なかった。仕事に精出していたわけではないが、何となく落ち着かなかった。日々何があるかわからないが、バチが当たらない程度に、旅をしたいなあと思った。
 宝塚に着くと、この二日間がまるで夢のように、素早く過ぎてしまって、ちょっと寂しい気分になった。

 
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奈良に住んでいた頃

2006-01-04 21:56:57 | 日々の写真
今から30年くらい前、24歳で棋士になった頃、奈良に移り住んだ。対局も少なく、あまり仕事もやってなかったので、暇が多かった。自転車で奈良界隈を回るか、競輪場通い、たまに大阪に稽古、他は師匠の奈良教室の手伝いの日々だった。
 順位戦が一年間無かった年で、新聞棋戦も待たされて、棋士になっても実感が涌いてこなかったのと、初めてのひとり暮らしだから自由気ままもいいとこだった。
 アパートの人に怪しまれて?何だか昼間は家にいずらくて、朝になると仕事に出掛ける振りをして、あちこちウロウロしていた。管理人さんに「お仕事は?」と聞かれて「将棋です」と答えると「ああ将棋クラブにお勤めですか」「はい」と返事をする。棋士という職業に、今ひとつ胸をはれない後ろめたさがあった。仕事と言うのは、朝出かけて夕方帰るのが普通だと思っていたからだ。
 この気持ちは今もどこかに残っているので、棋士がそんなに偉い職業とは思えないのだ。細々と飯が食えればいいんじゃないかくらいの相場なのだ。
 奈良はくまなく回ったが、いつも帰りには二月堂の上に上って、奈良を見渡す風景に見とれていた。いにしえの名残があって、きっと千年前もさほど変わらない風景だったのだろうと思うと、時空を越えて見えないものが存在するような、ロマンを感じるのだ。
 こんなのんびりした気分で勝負に挑んでいたら、勝てそうにないけど・・
 案の定、それからの棋士生活はどちらかいうと苦戦続きで、いつ廃業かの心配と何とか踏ん張らないとまずい、そんな繰り返しだったような気がする。その割りになんとか持ちこたえてきたのが、今までの私の履歴書かもしれない。
 なのに、目線が違うところに向いてしまうクセは治らない。
 この写真は、表通りでなく、人があまり来ない裏通りにいる鹿たちである。冬のせいか、まだ昼間なのに日差しが傾き、大きな長い影が伸びている。戦いを避けてグループからはずれているのか、それとも戦いに敗れて隅っこにいるのか、静かなメンバーが揃った。

 
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ブルドッグと奈良の鹿

2006-01-03 21:27:26 | 日々の写真
奈良に行く。あれこれ歩き回って、東大寺の大仏を見て二月堂にいく途中に、茶店があった。そこの向かいに貫禄十分のブルドッグが繋がれていた。そこに鹿が現れて、「こいつは何者だ」と偵察しているシーンである。ブルドッグのほうは顔とは不似合いな、しゃれたムードがあって、ひたすら目線でご主人の行方を追っている。「奈良の鹿は人馴れしていても、ペットではありません。あくまで野生です」という立札がある。
 鹿達は、お辞儀をして鹿せんべいをもらう律儀な姿勢だが、今日は正月のせいか心持、満腹の鹿が多かったように思う。
 結局、ブルドッグと鹿の対面は何事もなく過ぎて、ブルドッグはカメラを向けても、一切無関心。平和な日常が戻った。人間同士も動物達のように、お互いのテリトリーを犯さなければ、争いごとも無いのになあと思う。

 久しぶりに歩き回ったせいか、たいした距離と時間でないのに、足が棒のようになる。人混みにもまれて、鹿たちにせんべいをあげて、正月三ヶ日も無事に終わった。身勝手な騒がし者がいなければ、人が集まる場所が好きだ。こんな風に毎日が正月なら、もっと景気もよくなるのになあと、ノー天気なことを考える。
 もっともそんな呑気でばかりもいられないのが、人間社会のつまらなさ?いや普段の日常であり、世の中なのだろうが・・・
 私の好きな二月堂からの遠景を最後にして、早めに帰ることにする。
 
 
 
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柴の子犬

2006-01-02 21:50:22 | 日々の写真
数年前に愛媛県伊予三島(今は四国中央市)の実家に帰って、高校の頃によく行った山の公園で出会った、柴の子犬。
 子犬の可愛らしさでは、柴犬にまさるものは無いと思う。無邪気でいたずらっぽい目、金時さんや小熊のような仕草、まさに日本の犬である。
 この子犬ももう4,5歳になっているだろう。この公園からは製紙会社の工場群と共に、瀬戸内海の燧灘が見渡せる。高校のとき学校をずる休みして、よく昼寝にも来た懐かしい公園だ。空と山と海に囲まれた、静かな憩いの場でもある。
 あれから35,6年経つ。何が変わって、何が変わっていないのだろう。毎年正月を迎えると、何か物悲しさから逃げられない気分と、今年もがんばって走り抜けようという思いが交錯する。
 元気印に針を合わせて、悲しみの蓋をしっかり閉じる。
 
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