散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

川崎市議会、自由闊達な討議は非公開!(1)~栗山町議会との鮮やかな違い

2014年02月11日 | 地方自治
川崎市議会基本条例は2009/6/17の定例会において、公明党、共産党の代表質問が終了後、議員提案議案第4号として提案され、提案理由が述べられた後、直ちに採決、賛成多数で成立した。先ずは制定できたのだが…。

だが、“少数”の反対もいた!市民との対話の必要性を主張し、それを最後まで堅持した無所属・猪股美恵議員である。何故か、議会の自民党、民主党、公明党、共産党がその条例の策定過程を“非公開審議”として貫徹したからだ。

全会一致ではないことが川崎市議会の名誉を救ったと筆者は評価している。おそらく、後世からも同じ評価を受けるだろう。何故、非公開で例策定の議論が出来たのか。議会が設定する特別委員会ではなく、会派団長会議の諮問機関「検討プロジェクト」でおこなわれたからだ。

これは通常の方法を踏み外している。それも非公開審議である。当然、記録は公開されない。日本で初の議会基本条例を制定した北海道栗山町の「前文」は地方自治史に残る『宣言』、「…自由かっ達な討議をとおして… 論点、争点を発見、公開することは討論の広場である議会の第一の使命」である。
 『北海道栗山町の議会基本条例~アーレントの公的幸福を表現140207』

一方、川崎市議会・鏑木議長は「自由闊達に話し合うために非公開にした」(神奈川新聞)。これは地方自治史に残る『汚点』になるのではないか?子どもが親の前でイタズラの相談をしないのと一緒だ。自由闊達には話し合えないであろう。

出来上がった『条例』は以下の規定を含む。
 「第1条:目的…市民に開かれた議会の実現を図る…」
 「第9条:議会等の運営…議会活動の公正性・透明性を確保…」
 「第14条:会議等の公開…議会は、会議等を原則として公開…」

この条文を策定する過程を市民に閉ざし、非公開、不透明にしているのであるから、“ブラックユーモア!”(福嶋浩彦・中央学院大学教授)と評されてもしかたがない。

筆者らは、請願『住民に開かれた方法で「議会基本条例案」を策定』を、議会からの中間発表の直ぐあと、2/23に提出した。請願にあたっての署名は先の猪股議員だけである。内容は以下だ。
  公開審議  市民への説明  市民からの提案への対応

ともかく、当然のことを要求したのであるが、その審査は条例採決日の翌日6/18に行われた。しかし、約4ヶ月間放置し、条例が採決された翌日、何を審査するのであろうか!議会の常識は世間の非常識、を地でいく集団行動である。審査での各会派の意見は、これが意見か?というもので、以下。

飯塚(民)『昨日議会基本条例が議決した。みなし不採択と考える。』
大島(自)『民主党と同様の意見。不採択。』
岩崎(公)『まさにスタート、大局的にまた長期的にこれから議論、継続審査。』
佐野(共)『プロジェクトの中でも願意については議論した。しかし、全会派が一致したなかで、会議の公開はできなかった。今後の課題として継続審査。』

以上は会派一巡の意見、まとまらないので、
粕谷(民) 『既に済んだ内容、取り下げて頂き、新たに出しなおして頂く。』
青山(民)長『請願は2月に出され、プロジェクトは既に条例素案を協議、一定の結論が出ている状況での提出、前議運の正副でも条例を議決する前後で審議してはどうかということは調整されてきた経過がある。…正副委員長で預かって話しをしても請願者が取り下げないというもあろうかと。ここで一定程度の結論を出すべきと考える。』
飯塚(民)『だめであれば正副から戻して、議運としての意思を決定する。』
ということで落ち着くまでに手順がいる。

意図的な条例審議終了後の審査で無意味であっても、田舎芝居を演じるような手続きを必要とするのが川崎市議会なのだ!結局、こちらも“通行人” 程度の出演に?なった。正副委員長との会談は初めての経験になった。

     

国論の二分を意図する政治手法への疑問~小泉純一郎の即時脱原発

2014年02月09日 | 国内政治
都知事選挙の結果は開票41%の段階で桝添要一氏が細川、宇都宮両氏を大きく上回り、細川、宇都宮両氏が2位争いをしている。選挙戦は盛り上がらず、一体何で選挙を行うようになったのか、忘れている。

そうだ、何とかという知事が徳田病院の親分から金を貰ってやめたからだ。だから立候補者の名前も忘れがちになる。尤も、筆者は川崎市在住であるから、都知事選に対して投票の権利はない。しかし、小泉元首相が即時脱原発を掲げて、細川元首相を担ぎ上げて都知事選挙にコミットしたことに強く関心を持った。

小泉首相の“権力への復権”を狙う絶好の材料が即時脱原発であった。ここで誤解を解いておくが、小泉が総理への復活を意図していると言うわけでは無い。何らかのかたちで元首相という肩書を生かしながら、政治全体への影響力を高めようとする小泉の戦略を垣間見る思いを持ったからだ。

小泉は郵政改革選挙で改革派対守旧派との構造を作り上げ、国論を二分する総選挙に持ち込んだ。だから、「私の総理在任中の郵政民営化…全政党が反対だったんです。2005年8月8日、まあ追い込まれ解散ですね。…これは、国民に聞いてみるしかないと。」

圧倒的な勝利を得たが、その後、小泉は退任し、結局、小泉の言う守旧派が復権し、今では小泉改革の名も世間から忘れ去れている。

今回の手法も同じだ。
「代案を出さないで原発ゼロ発言するのは無責任、あまりにも楽観的過ぎるという批判ですね。しかしね、この原発問題は広くて深くて大きな問題ですよ。私一人が代案を出そうなんて、それは不可能です。」

「政治で一番大事なことは方針を示すことだ、と。原発ゼロの方針を政治が出せば、必ず知恵のある人がいい案を作ってくれる。内閣に原発ゼロに賛同する専門家、経済産業省、文部科学省、環境省の官僚を含めて識者を集めて、ゼロにする場合、何年かけてゼロにするのか、その間の再生エネルギーはどう促進して奨励していくのか検討してもらう。」

そして、極めつけは「原発ゼロでも日本は発展できるというグループと、原発なくして発展できないというグループの争いだ」と、脱原発を最大の争点に構える考えを示した。

しかし、本来、エネルギー問題として将来へ向かって、状況変化への対応も含めて慎重に判断すべき事を、国論を二分する形で問題敵することが妥当なのだろうか。原発の有無をそれ程までに対立の焦点にすることが必要なのか。

結局、細川もそれに踊らされた一人ではあるが、マスコミ、知識人も対立を激化させることで高揚感を感じているに過ぎない。かつての共産党、そして全学連の果たした役割を、今は前首相が引き継いでいるようだ。しかし、意図的に国論を二分させる後遺症は大きいと言わなければならない。
自重すべきでであろう。


北海道栗山町の議会基本条例~アーレントの「公的幸福」を表現

2014年02月07日 | 政治理論


「北海道栗山町議会が2006年5月、全国で初めて議会基本条例を制定してから7年半余り経つ。今では450を超える自治体議会が制定している。…しかし、その魂は本当に伝わっているだろうか。…栗山町の条例の核心は何か、もう一度検証しておく必要があるように思う。」(『日経グローカル No.235 2014. 1.8』)

これは、福嶋浩彦中央学院大学教授の言葉だ。一方、筆者は最近、映画「ハンナ・アーレント」を観て、幾つかのことが想い浮かんだ。その中で、アーレントの主著の一つ「革命について」(中央公論社)に関する永井陽之助のコメントを紹介した。
 『ハンナ・アーレント(3)~「革命論」に対する永井のコメント20131125』

アメリカ革命は市民の生命・自由・財産権などの消極的な保護を制度化しただけではなく、積極的に市民が政治に参加するという「積極的な自由」を保障した。公共の領域で、市民が討論と決定に参加するような共和国を創り出そうとする処に革命の使命を見たのだ。それは何よりも先ず、“政治革命”であった。

アーレントのアメリカ革命に対する認識に、比肩するような日本の政治事象は何かあるのだろうか、とその時、考えを巡らしたのだが、そうだ、栗山町議会基本条例だ、と思いついた。

その前文は不朽の作品と言って良い。「…自由闊達な討議をとおして、自治体事務の立案、決定、執行、評価における論点、争点を発見、公開することは討論の広場である議会の第一の使命である。…」

自由闊達な討議、論点・争点の発見、討論の広場、これが議会のキーワードだ。これはまさしく、公共の領域で、市民が討論と決定に参加する共和国を設立したアメリカ革命の精神に対応するものだ。

アーレントは「…公的幸福は公的領域に入る権利、公的権力に参加する市民の権利、にあった。公的権力への参加を主張するために「幸福」という言葉が選ばれたという事実は、公的幸福が既にこの国に存在していた…」と述べる(「革命について」P134)。
一方、福嶋氏は続けて、栗山町議会基本条例の特徴を指摘する。

栗山町議会基本条例は、議会は「議員による討論の広場」であり、「議長は、町長等に対する本会議等への出席要請を最小限にとどめ、議員相互間の討議を中心に運営しなければならない」と定めている(第9条)。まさにこれが、いま自治体議会に求められる最も基本的な運営であろう。

さらに栗山町議会基本条例は、議会を「議員、町長、町民等の交流と自由な討論の広場」と規定している(第2条3項)。
議会が意思決定機関ならば、その意思決定の場にこそ、住民は参加の権利を持たなければならない。議員間の討議の場へ住民が参加することが重要だ。また、議員は、自分の支持者でない住民と公式の場できちんと向き合って議論することがとても大事だと考える。それによって議員の質が高まる。

こうした機関としての議会への住民参加が必要であり、住民が議会の正式な会議に正式に出席して、議員と侃々諤々の議論をすることが重要なのだ。栗山町議会では、本会議と委員会以外に、町民と議員が議論するための「一般会議」を議会基本条例で設置している(第4条2項)。

また、全国で最初に、全議員による町民への議会報告会を開いた。決定者として町民への説明責任を果たすとともに、町民とさまざまな意見交換をしている。住民が、請願・陳情を議会に提出した際に、その審議の中で住民自身が請願・陳情の趣旨を説明し、議員からの質問があれば住民が答え、議員と議論する。

栗山町の議会基本条例では、「議会は、請願及び陳情を町民による政策提案として位置付けるとともに、その審議においては、これら提案者の意見を聞く機会を設けなければならない」(第4条4項)としている。このポイントは、住民の権利として参加を定め、議会に義務付けたことだ。

これからは住民、議会、首長、行政職員、あらゆる人々の対話により、新たな地域経営に向けた合意を生みだすことが大切になる。議員間の開かれた討議と住民の参加によって、その合づくりをリードできる議会こそ、次の時代の自治を拓くだろう。
議会が「公的幸福」を創造する場であること、それが今後、ますます求められることを示唆している。

      

“運命”を科学言語として使うとき~小保方晴子さんの生命科学(2)

2014年02月05日 | 科学技術
理研のSTAP細胞に関する発表のなかで、『…生後の体細胞は、細胞の分化が既に運命づけられており、…』と書かれているのに驚いたと昨日の記事に書いた。
 『運命を変えられたSTAP細胞たち140204』

但し、揶揄するつもりではなく、こういう言葉を使わなければ表現できないほどの、研究者としての驚きと喜びが含まれていることを想像させる言葉とも受け取った。それが感動をもたらしてくれたのだが、それでも驚きは大きかった。

一つは「神」を想像させ当然、絶対的な真理を響かせる言葉であるから、科学的な現象で用いられることは無いと無意識に思っていたのだろう。関連して、もう一つは科学の考え方からこれを翻訳すると「確率ゼロ」になると考えたからだ。

しかし、初期化可能ということであれば、分化状態のどこかの過程までは、<可逆反応>であって、引き返しができることになる。それは、昔話の「若返りの水」、おばあさんが赤ちゃんに戻る話、になるのだ。実験結果によれば、酸性溶液がその「水」にあたるのだ。

それはさておき、初期化不可能性は<非可逆反応>とでも言っておけば良かったのだ。しかし、生物であって、未だ神秘性を帯びている細胞の分化状態における画期的な知見を表現するのは、インパクトの強い表現を必要とする。

それは、別の意味でこの限られた分野が、その中にいる研究者の意識を高揚させている状態を示しているとも見えるのだ。「運命」という表現を用いるだけの士気の高さを有する研究集団が現にいるということだ。

その気持ちを自分で考えているうちに、私たちが日常的に使う「運命」という言葉と、生命科学の中で使う「運命」が、互いに重なる部分もありながら、異なる意味合いを含むことに思い当たった。それは日常的世界と科学的世界との違いと言って良い。画期的な科学的成果の公表を示す文章が、科学的世界から日常的世界への橋渡しを行う際に、その言葉を含んでいたのだ。

そこで想い起こしたのが「日常言語と理論言語(科学言語)との間には、何らかのかたちでの橋渡し、繋ぎ手が存在している」との村上陽一郎氏の指摘だ(『科学と日常性の文脈』海鳴社P153)。

高いレベルでの理論言語は「仲間内言語」(jargon)として流通する。従って、閉鎖性・専門性は高いのだが、それが日常レベルまで降りてきたときには対応語ができるはずだ。それが無ければ、流通性に欠けることにならからだ。生命科学の中の「運命」という言葉も、どちらにも通用する言葉だ。

では、今後はどうするのか?小保方さたちの発見により、細胞は必ずしも運命づけられていなかったと言って良いのだろうか。即ち、確率ゼロの世界ではなくなったのだ。しかし、世の中に存在する細胞が、stap細胞になる確率は、圧倒的にゼロに近いのだ。

日常言語的には「運命づけられている」と言っても良い。それは日常言語が曖昧さを含み、多義性を有するからだ。また、日常的環境では、可逆的に初期化を起こすわけではない。しかし、厳密な定義のもとで使用される科学言語は、曖昧さを許さない。

今後はどんな環境において何が起こるか?の問題になる。運命づけられていない部分の世界を明らかにする競争が発生してしまった以上は、科学的世界での「運命」は、今後は使うことが稀な世界へと変わっていかざるを得ない。しかし、高められた士気は継続されていくことは確かであろう。

      

運命を変えられたSTAP細胞たち~小保方晴子さんの生命科学(1)

2014年02月04日 | 科学技術
理研のホームページでは報道発表資料の中で、次の様に説明されている。
 『体細胞の分化状態の記憶を消去し初期化する原理を発見
 -細胞外刺激による細胞ストレスが高効率に万能細胞を誘導-
   2014年1月29日 独立行政法人理化学研究所

発表者 発生・再生科学総合研究センター センター長戦略プログラム
    細胞リプログラミング研究ユニット
    研究ユニットリーダー 小保方 晴子

また、『60秒でわかるプレスリリース』では、
『ヒトを含む哺乳類では、受精卵が分裂して血液や筋肉など多様な体細胞に変わり、その種類ごとに個性づけ(分化)されます。体細胞は分化を完了するとその細胞の種類の記憶は固定され、分化を逆転させて受精卵に近い状態に逆戻りする「初期化」は、起きないとされています。』

『初期化を引き起こすには、未受精卵への核移植である「クローン技術」や未分化性を促進する転写因子というタンパク質を作る遺伝子を細胞に導入する「iPS細胞技術」など細胞核の人為的操作が必要です。』

『もし「特別な環境下では、動物細胞でも“自発的な初期化”が起きうる」といったら、ほとんどの生命科学の専門家が「それは常識に反する」と異議を唱えることでしょう。しかし、理研発生・再生科学総合研究センターの小保方研究ユニットリーダーを中心とする共同研究グループは、この「ありえない、起きない」という“通説”を覆す“仮説”を立て、それを実証すべく果敢に挑戦しました。』

それにしても、具体的な内容の説明において、『…生後の体の細胞(体細胞)は、細胞の個性付け(分化)が既に運命づけられており、…』と書かれている。“運命”という言葉を生命科学では使うのか!驚いたと言うか、感動の気持ちも少し含まれたショックであった。生命現象での“自発的な初期化”の発見は細胞の運命を変えたのだ。



 「理研報道発表資料 図1多能性細胞と体細胞

この図1から多能性細胞と体細胞の違いは理解できる。また、多能性細胞については、着床前の胚盤胞(着床前胞)がその例であると判るのだが、初期化できる体細胞とは、どの程度まで変化したものまでなのか、良く判らない。

絵にあるような神経細胞などが初期化できるのか?これが多能性細胞まで変化するとは考えにくいのだ。まあ、疑問は疑問として大凡のイメージは素人にも判るように説明されている。

常識外と思われる仮説を実験的に立証することは凄いとの一言以外に言いようが無い。今後、熾烈な競争に入るはずだが、たゆまぬ努力で先を切り開いていくことを期待しよう。

      

「文献解題」に国際政治学の古典が並ぶ~「平和の代償」に学ぶ(3)

2014年02月02日 | 永井陽之助
「この文献解題は国際関係論や戦略論の基礎的テキストブックを網羅的に紹介することを意図したものではない。」「その意味で、極めて主観的な選択であり、おそらく、私自身の個人的な好みが色濃く反映していることと思う。」

「本書(「平和の代償」)に収められた三論文を書くに当たって直接、参照した書物、及び執筆した後に出版された新しい文献などのなかで、何らかの意味で筆者にとって示唆的であり、また、おそらく読者にとって、参考になるだろう思われるものに限った。」

以上が18頁に渡って書かれた「参考文献」に対する著者の説明だ。確かに解題になっているのだ。おそらく、第1論文及び第2論文に対する批判に反論した最後の第3論文「国家目標としての安全と独立」を読むと、腰を据えて読んで見なければ、と本当の学者ならば考えるだろう。しかし、そのような学者は日本の学界のなかに何人いたのだろうか。お寒い現状なのではないか?

閑話休題。
先の記事で書いた内容の“意味”を更に詳しく知りたければ、ここから文献を辿れば良い。しかし、それも最初の2冊程度でバリヤが高く、引き返さざるを得なくなりそうだ。それはこの本が刊行されてから50年近く経ったいまでも変わりないかもしれない。
 『日本の安保問題の盲点は対米国防衛~「平和の代償」から学ぶ(2) 140110』

参考文献は次の様に、六分野に分かれている。
1 国際関係の基礎的な理解
2 米国の外交政策と自由主義イデオロギーとの関連
3 軍事戦略、ゲームの理論、特に核時代の限定戦争論
4 戦略問題―間接戦略、ゲリラ戦略、毛沢東の戦略、革命戦争等
5 日本の外交政策、国内政治の圧力、日本を巡る米中ソの関係
6 軍備コントロール、軍縮・平和の問題

ここで、1,3,4,6が国際関係、外交・軍備に関する文献だ。2,5はそれにも関係するが、日本の憲法第9条を巡る政治状況の分析に関わる。すると、現在の日米の内政を含めた外交・防衛問題に対する示唆を与える内容を十二分に含んでいると気が付く。

当然ながら、外国語文献であって、日本語に翻訳されていない本も含まれる。
日本語;17冊 翻訳;15冊 外国語(未翻訳);35冊
しかし、その後に翻訳されたものは何冊あるだろうか。些か心許なく感じる。
そこで、その後に翻訳された中から何冊か紹介する(出版側のPR文を含む)。

トーマス・シェリング;2005年ノーベル経済学賞受賞
「紛争の理論」(Strategy of Conflict) 勁草書房 (2008年)
戦略的意思決定のメカニズムを解き明かした,いまも色あせない社会科学の古典。
本書は,ゲーム理論を用いて戦略的意思決定のさまざまな問題を解き明かした古典的名著である。核抑止,限定戦争,奇襲攻撃といったなまなましい国際政治上の問題をつきつめて分析すると同時に,交渉,コミットメント,脅し,約束など,人間社会に普遍的な問題についても,いくつもの重要な知見を提供する。

スタンレー・ホフマン
「国境を超える義務―節度ある国際政治を求めて」 三省堂(1985年)
(Duties beyond Borders: On the Limits and Possibilities of Ethical)

ケネス・ウォルツ
「人間・国家・戦争」 勁草書房 (2013)
ルソー、スミス、マルクス、ミルなどによる戦争原因論を、人間、国家、国際システムの三つに体系化し,深く,鋭く,描き出す。戦争を引き起こすのは政治家か? 国家の体制か? それとも国際システムか?

      

「徴奉公制度」で元気な高齢者の活用~細川・小泉から発想する

2014年02月01日 | 政治
徴兵制度を元気な高齢者に適用すると、どうだろうか?後方支援、サイバー空間、事務担当での仕事はできるかもしれない。しかし、特に「兵」に限らず、公的な奉仕活動に従事する「徴奉公制度」であれば良い。

東京都知事選挙で細川・小泉の元首相コンビが活動している。立候補した細川は政治の世界から引退したと思っていたが、取り巻き連中がいて、担ぎ出した面もあるようだ。それ位に元気であるなら、時間と金の浪費をせずに、本当に世の中にとって、役に立つことをしたらどうだろうか。

以前に「逆定年制」を思いついた時がある。例えば、役所の窓口業務などは一定の年齢例えば、65制以上でなければ就けないことにする。すると、ボランテイア活動として参加する人たちも出てくるだろう。例えば、民生委員・児童委員制度はそのようなもので、特に年齢に制限は無いが、国家公務員の特別職(無給)として辞令を受ける身分だ。

高齢者に対する「徴奉公制度」、「逆定年制」は、何となく、ぼんやりと頭の中で考えていたが、細川元首相が都知事選に立候補したことに違和感を覚え、記事にしてみる気になった。小泉は「即時脱原発」を掲げ、郵政選挙と同じで無理矢理に二分法で敵味方を峻別するアプローチのようだ。
 『不揃いの「脱原発」140120』

細川は陳腐な発想で、使い古した言葉のオンパレードで、正直言って驚かされた。また、顔に生気が感じられず、話し方は呂律が回らない感じもした。
 『細川元首相は老人だった140122』

また、筆者と同じ様に感じている石井孝明氏は、細川が次の様に発言していることを報告している。「いま北極海とかいろんなところでシロクマ、アザラシ、その他の生物の大量死が続出していると、…その福島の影響…」

何ともおかしな話を立候補者として話す神経が理解できない処だが、首相であったことが、その後の人生でプラスに作用するように、努力をしていない様にもかんじてしまう。

そこで、リーダーとして活動した方は、それこそ一兵卒となって、底辺から世の中を支える経験をすることが、普通の方は世の中と繋がり、その中で回りの方から認知され、仕事を含めた人生が意味づけられている事が必要の様に思う。人生の幅を広げることにも繋がるはずだと考える。

また、それでもこんな制度が直ぐにできるわけでもないが、現在の状況は、ボランティア活動に参加している方以外は、なかなか、奉仕活動に参加できていないように見える。

すると、高齢者への対応は、認知症対策、糖尿病対策などを行うことになるが、このような事後的な対応と共に事前に、間接的なアプローチも必要だ。却って、先ず行うべきは、間接的な、即ち、基本的な事項を徹底することだ。

この場合、高齢者になる前の中年時代から、長寿であることを考えて、積極的に次のステップへ進むことを考える様に方向づけるように導くことが必要になるだろう。