朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

「チベットの仏教世界」

2014-06-01 | 京都の文化(春)
龍谷ミュージアムで6月8日まで開催されているこの展覧会に行きました。



西本願寺の真ん前に博物館はありますが、入るのは初めてです。



この日は学芸員によるスライドを使った解説があったので、予習ができてとてもよく理解でしました。おまけに、有料の音声ガイドも借りたし。恥ずかしながら、「学芸員」という職業(国家資格)を知ったのは、数年前でした。(なにか、小学校の学芸会を連想させる軽い感じの名称ですが)

仏教が紀元前5世紀にインドで生まれて発展していったのですが、その千数百後にはインドでの仏教は衰退してしまったのです。それを受け継いで、原典に忠実に教学を継続したのがチベットでした。

百年以上前の日本にとって、インドの仏教遺跡やビルマとその伝来ルートであるシルクロード(中央アジア、中国雲南・四川)の状況はほとんど知られていませんでした。そこで西本願寺の22世大谷光端師は三度の大谷探検隊を派遣して調査を実施しました。

その一方で、ダライ・ラマ13世と懇意であった西本願寺は学僧の交換留学をおこなったのでした。その約束と日本人僧の留学命令は正式なものであったのですが、当時の国際情勢からこの相互の留学生派遣は極秘に実施されました。すなわち、チベットに対して、インドを植民地としていたイギリス、清国(中国、辛亥革命直後)、ロシアが圧力をかけていました。


(引用:特別展ポスターより抜粋)

この多田等観氏がその一人です。チベットから来日した高僧とその従者2名の世話係を担当した多田はそこでチベット語を習得します。チベット僧には秋田弁(多田氏の出身地)をしっかり教えたそうです。


(引用:特別展ポスターより抜粋)

この写真の青木文教氏も同時期に派遣されました。インドではイギリス政府の監視が厳しかったのですがネパールからモンゴル人に扮して、ヒルに悩まされながら徒歩で6000mの峠を越えて、チベットに越境しました。

多田氏はブータン経由で越境をはかったのですが、貧乏なチベット人を装ったためインドの列車の中では虐待をうけたようです。さらにブータンからはチベット人巡礼者に扮したが、チベット靴を入手できず、裸足でヒマラヤを越えたということです。1913年に両名はラサで再会を果たし、ダライ・ラマに拝謁することがかないました。



青木氏は市井の人としてチベットに3年間滞在し、当時は珍しいカメラを持参していたので地元でも重用され多くの貴重な写真を残しています。

青木氏は英語に堪能であったので、外国からの新聞記事などを法王に伝えることで一層信任を得ていきました。

多田氏はラサに近い寺院に入り僧侶として10年間の修行と勉学をおこない、博士相当の学位を得てダライ・ラマに惜しまれながら帰国しました。


(引用:特別展図録p.63)

門外不出のデルゲ版のチベット大蔵経全巻や、薬草、医学に関する秘蔵書や稀覯本など、13世が集めさせた24,000部余りの文献を持ち帰りました。これらの文献は日本で出版されました。

また、多田氏は帰国に際してダライ・ラマにチベット国宝級の「釈尊絵伝」を所望したのですが、その望みは保留されてしまいした。しかし、1933年に遷化したダライラマの遺言として日本に送られてきました。

現在は花巻市博物館の所蔵となっていますが、今回の特別展では25幅が全て展示されています。

本尊以外の絵伝には、釈尊の生涯が絵解きで示されています。上の写真には誕生の場面があり摩耶夫人の右脇腹から釈迦が誕生し、生まれてすぐに東西南北に七歩ずつ歩いて「天上天下唯我独尊」と語った絵があります。


(引用:特別展公式ウェブより抜粋)

これはチベットの典型的な十一面観音像です。日本のとちがって、頭上に三、三、一、一と顔が垂直に重ねられています。

なかなか見応えのある展覧会でした。
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