朝顔

日々の見聞からトンガったことを探して、できるだけ丸く書いてみたいと思います。

余呉湖、賤ヶ岳の戦い

2010-08-20 | 国内各地の風物
 琵琶湖の北側に位置し山に囲まれた静かな湖水、余呉湖(よごのうみ)があります。



 JR北陸線の線路が近くを走っていますが、国道や高速道路はもっと東を通過しているので全く目立たない場所です。車で行ってみました。道路はこの湖で終点となっていて琵琶湖畔まで通り抜けができません。ですが、湖水を一周する車道はありました。



 一番奥に、古びた国民宿舎がありました。営業はしている模様。

 ここは賤ヶ岳(しづがたけ)の古戦場です。国民宿舎の横には登山道の案内板があります。この山の東側には観光リフトも作られていて、頂上の展望台からは、余呉のうみと琵琶湖が展望できるそうですが、今回は行きません。

 織田信長が本能寺で暗殺された後、明智光秀をすばやく打ち破った羽柴秀吉(後の豊臣)がさらに信長の重臣筆頭の柴田勝家と戦った場所です。その事前行動として秀吉は織田家発祥の清洲城にて開催された織田家の家督相続会議に参加しました。議長は勝家。信長の長男は光秀に二条城で殺害されているため、次男と三男が後継候補となり、勝家は三男を推します。父信長渾身の傑作、安土城を自ら焼いた次男をはずそうとしたのでした。

 一方、秀吉は長男の遺児三法師を擁立しました。この作戦が成功し三法師が家督を相続しましすが、幼少のため秀吉がその後見人になります。新政権は形式的に集団指導体制をとるのです。信長の妹、お市の方は大変な美女だったようで、浅井長政と最初の政略結婚のですが夫は滅ばされ、その後再度政略結婚で勝家の妻になります。ですが、想定どうり対立が起こって武力にて決着となります。知力と戦略に優れた秀吉の勝ち。

 この戦いには秀吉の小姓たち(通常は戦闘には参加しない事務・身の回り担当)が活躍して、「賤ヶ岳の七本槍」として後日有名な英雄談となりました。その中には福島正則や加藤清正が含まれています。地元の長浜出身石田三成も成果をあげました。

 小者出身の秀吉にとって、名家出身者とは異なり譜代の部下や幹部はいませんでした。こうした実戦での指揮能力と貢献度そして忠誠心をみながら、実力主義で幹部を登用していったのです。

 ..それにしては、晩年は自身の知力低下と過剰な身内主義に陥り、朝鮮出兵や後継体制の確立に失敗して滅びるのです。

コメント
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