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日本の人類学者10.鈴木 誠(Makoto SUZUKI)[1914-1973]

2012年06月24日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

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鈴木 誠(Makoto SUZUKI)[1914-1973](『人類学雑誌』第81巻第2号p.84より改変し引用)[以下、敬称略] 

 鈴木 誠は、1914年4月25日に、山梨県北高麗郡武川村(現・山梨県北杜市)で生まれました。やがて、医師であった父親の転勤に伴い、京城(現・ソウル)に転居します。その後、旧制松江高等学校理科2類を卒業後、実家のある、京城帝国大学医学部に入学し、1940年に卒業しました。

 卒業後の1940年に、母校・京城帝国大学医学部第3解剖学教室の副手に就任し、同年8月には助手に昇任しました。ちなみに、当時の第3解剖学教室は、今村 豊[1896-1971]教授・島 五郎[1906-1983]助教授という顔ぶれです。その後、1944年には講師に昇任し、同年、新設された咸興医学専門学校教授として赴任しました。しかし、終戦に伴い、1946年1月に内地に引き揚げました。この時のエピソードが、かつての恩師・今村 豊及びかつて信州大学医学部で鈴木 誠の下で助教授を務めた香原志勢により紹介されています。それによると、終戦後、鈴木 誠が自らニューギニアで収集した頭蓋骨数十点を、京城帝国大学医学部から持ち出そうとして、皆が青くなったという話です。結局、この頭蓋骨は、泣く泣く、置いてきたと書かれています。

 1948年に、広島県立医科大学解剖学教室の助教授に就任します。この時の教授は、京城帝国大学時代の恩師・今村 豊でした。広島県立医科大学時代は、中国地方出土人骨の記載や京城帝国大学医学部に置いてきたニューギニア出土頭蓋骨について論文を書いています。恐らく、データだけで書いたのでしょう。

 1951年には、信州大学医学部第2解剖学教室教授に就任しました。翌年の1952年10月11日から同10月13日にかけて開催された、第7回日本人類学会・日本民族学会連合大会では、会長を務めています。信州大学に着任してからも、約500体に及ぶ人骨を収集したそうです。

 また、1962年3月に行われた、地元長野の野尻湖第一次発掘調査団団長も務め、人類学・考古学・古生物学の発展に寄与しました。さらに、1965年に発見された栃原岩陰遺跡(長野県南佐久郡北相木村)では、縄文時代早期人骨の発掘調査を行っています。この遺跡では、1965年12月から1978年3月まで15回にわたって発掘調査が行われ、成人男性3体・成人女性4体・性別不明成人1体・幼児2体・新生児2体の合計12体の縄文時代早期人骨が出土しました。

 鈴木 誠は、1970年の発掘調査中に病に倒れ、その時は回復しましたが、1973年4月22日、食道静脈破裂で58年の生涯を閉じました。59歳の誕生日まで、後3日という時で、葬儀はその59歳の誕生日に行われたそうです。

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栃原岩陰遺跡遠景(2000年に、楢崎修一郎が撮影)

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栃原岩陰遺跡出土人骨出土状況復元レプリカ[北相木村考古博物館常設展示](2000年に、楢崎修一郎が撮影)

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栃原岩陰遺跡ジオラマ(ダイオラマ)[北相木村考古博物館常設展示](2000年に、楢崎修一郎が撮影)

*鈴木 誠に関する資料として、以下のものを参考にしました。

  • 香原志勢(1973)「鈴木誠先生を偲んで」、『人類学雑誌』、第81巻第2号、pp.84-86
  • 新潟大学医学部解剖学教室(1957)『人類学輯報』第18輯
  • 藤森英二(2011)『信州の縄文早期の世界:栃原岩陰遺跡』、新泉社

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