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日本の人類学者9.山崎 清(Kiyoshi YAMAZAKI)[1901-1985]

2012年06月23日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Kiyoshiyamazaki

山崎 清(Kiyoshi YAMAZAKI)[1901-1985][山崎 清(1983)『私の歯科回顧』p.143より改変して引用](以下、敬称略)

 山崎 清は、1901年6月30日に埼玉県の越谷市で生まれました。実家は、本屋や新聞販売店だったそうです。実母は、身体が弱い山崎 清を心配し、将来は芸術か学問の道しかないと予言していたそうです。実際、山崎 清は、その2つの経歴を辿ることになります。1920年には、風景画を出品し、二科会に入選しています。春日部中学校を卒業後上京し、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)に入学し、1923年に卒業しました。

 ちなみに、この日本歯科大学は、1907年に中原市五郎が共立歯科医学校を創立し、1909年に日本歯科医学校・1919年に日本歯科医学専門学校・1947年に日本歯科大学と名称を変更しています。中原市五郎は、東京で歯科医の岡田三百三に歯学を学び歯科医術開業試験に合格後、開業しています。

 1924年には、フランスに留学して約6年間滞在し、パリ歯科学校とパリ人類学学校を卒業します。但し、当初、渡仏する目的は絵の勉強をするためだったそうです。絵から人類学に転向した理由は、美術館で作者不明の写実的な絵を見て、自信を失ったからとからだと言われています。このパリ人類学学校は、フランスの人類学者、ピエール・ポール・ブローカ(Pierre Paul BROCA)[1824-1880]が1876年に創設した学校です。

 フランス滞在中、山崎 清は、フランス人のスザンヌと結婚し、パリ歯科学校の卒業式の日に娘マルトが生まれました。1930年、約6年間の滞仏を経て、親子3人で帰国します。帰国した山崎 清は、母校で教職につき、歯科の歴史を教えたり、臨床では口腔外科を担当しました。やがて、山崎 清に転機が訪れます。

 帰国したばかりの山崎 清は、再び渡仏することになりました。1930年12月に、フランスのパリで国際歯科連盟の国際学会が開催されることになったのです。この会議に日本からは、日本歯科医学専門学校(現・日本歯科大学)の中原市五郎[1867-1941]・東京歯科医学専門学校(現・東京歯科大学)の花沢 鼎[1882-1950]・東京高等歯科医学校(現・東京医科歯科大学)の島峰 徹[1877-1945]の3人が出席することになりました。山崎 清は、母校の中原市五郎の通訳として同行しています。会議が終了して1931年に帰国すると、山崎 清はこの1年間の間に、講師・助教授・教授・外科部長と昇任しました。中原市五郎の計らいです。また、この頃は、東京大学医学部解剖学教室の西 成甫[1885-1978]の元で、研究生となり頭蓋骨の研究を行いました。

 やがて、骨の研究から生きている人の研究へと興味が移り、心理学・精神医学を学び、人相学や顔の研究へと変わりました。意外なことに、この人相学の興味は、実母からだそうです。この分野は、欧米ではフレノロジー(Phrenology)と呼ばれ、骨相学と翻訳されています。晩年は、人相学の権威としてマスコミに取り上げられ活躍しました。

 山崎 清は、日本歯科大学に33年間勤務し、その後、鶴見大学に移籍しました。しかし、私生活では、妻が「パリで死にたい。」と言い出し、妻・スザンヌと娘・マルトは、フランスに帰国してしまいます。1960年には、パリで開催された第6回国際人類学民族学会議に出席しました。また、1962年にはフランス歯科アカデミー会員に推薦されています。さらに、1964年には出身地の越谷市名誉市民に選ばれました。名誉市民としては、第1号だそうです。1966年には、日本美容整形学会設立発起人としても貢献しました。

 70歳を越えた頃からは、絵を描き始め、個展も開きました。ところが、悲劇が重なって訪れました。1981年9月30日に妻のスザンヌがフランスで死去し、1982年に養女・憲江が乳ガンでこの世を去ったのです。しかも、妻の死は、2年間知らされなかったそうです。

 山崎 清は、1985年、静かにこの世を去りました。実は、私は、山崎 清先生と生前、私の留学の件で手紙のやりとりをしていました。このやりとりの中で、山崎 清先生が1983年に出版された『私の歯科回顧』を寄贈していただいています。本には、1984年3月13日に、山崎清先生より寄贈と記してありました。私は、1984年に留学したため、山崎 清先生のご逝去は知りませんでした。1985年のある日、娘のマルトさんから転送された葉書で山崎 清先生のご逝去を知りました。

 山崎 清が書いた本として、以下のものがあります。

  • 山崎 清(1940)『歯科医史』、金原商店
  • 山崎 清(1943)『歯と民族文化』、天佑書房
  • 山崎 清(1943)『顔の人類学』、天佑書房[このブログで、紹介済み]
  • 山崎 清(1948)『人間の歯』、創元社[このブログで、紹介済み]
  • 山崎 清(1955)『人間の顔』、読売新聞社[このブログで、紹介済み]
  • 山崎 清(1957)『日本人の顔』、読売新聞社
  • 山崎 清(1965)『顔と性格』、NHKブックス
  • 山崎 清(1980)『人間の顔:人相学序説』、白水社[このブログで、紹介済み]
  • 山崎 清(1983)『私の歯科回顧』、書林[このブログで、紹介済み]

*山崎 清に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 山崎 清(1980)『人間の顔』、白水社
  • 山崎 清(1983)『私の歯科回顧』、書林 
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