人類学のススメ

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日本の人類学者30.鳥居龍蔵(Ryuzo TORII)[1870-1953]

2012年09月02日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

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鳥居龍蔵(Ryuzo TORII)[1870-1953][鳥居博士顕彰会(1965)『図説・鳥居龍蔵伝』より改変して引用](以下、敬称略。)

 鳥居龍蔵は、1870年4月4日に、徳島県徳島市東船場町で生まれました。1876年に観善小学校(現・新町小学校)に入学しますが、中途退学し、高等小学校及び中学校課程を独学で勉強する道を選びます。1886年には、東京人類学会(現・日本人類学会)に入会しました。東京人類学会は、坪井正五郎を中心に1884年に発足しています。やがて、大きな出会いが訪れました。1888年2月に、人類学会を創立した中心人物の坪井正五郎[1863-1913]が徳島の鳥居家を訪問するのです。坪井は、鳥居の家に宿泊し、イギリス・オックスフォード大学の人類学者、エドワード・タイラー(Edward TYLOR)[1832-1917]が1881年に出版した『Anthropology(人類学)』を出し、この本を読むとよいとアドヴァイスしたと言われています。

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鳥居龍蔵(左)と坪井正五郎(右)[1897年に徳島にて撮影][鳥居龍蔵(1953)『ある老学徒の手記』より改変して引用]

 鳥居龍蔵は、1890年に一旦上京しますが、1892年12月には本格的に人類学を勉強するため一家で東京に上京します。坪井正五郎は、1889年から1892年までイギリスに留学していました。1893年、鳥居龍蔵は坪井正五郎と再会し、坪井正五郎は選科生になることを薦めましたが、東京帝国大学理科大学人類学教室標本係に就任します。その後、1898年6月には、東京帝国大学理科大学助手に就任しました。

 1901年、鳥居龍蔵は故郷徳島市出身の市原キミ(後の鳥居きみ子)[1881-1959]と結婚します。キミとの間には、二男二女をもうけました。

 1905年7月28日、鳥居龍蔵は、東京帝国大学理科大学講師に昇任します。しかし、1913年5月26日、国際学会に出張中の恩師・坪井正五郎はロシアのペテルスベルクで急死しました。坪井の急死により、鳥居龍蔵は、人類学教室をまとめていかなければならない立場になります。

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東京帝国大学講師時代の鳥居龍蔵(1905年当時か?)[鳥居博士顕彰会(1965)『図説鳥居龍蔵伝』より改変して引用]

 1921年5月10日、鳥居龍蔵は「蒙古の有史以前」により文学博士号を取得しました。しかし、文学部から博士号を取得した事は、医学博士号取得を促していた小金井良精[1859-1944]との間に微妙な関係が生じます。翌1922年、鳥居龍蔵は東京帝国大学理学部助教授に昇任しました。この年、国学院大学講師に就任し、1923年には国学院大学教授に昇任しています。

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R. TORII(1915)「Etudes Archeologiquws et Ethnologique, Populations Prehistoriques de la Mandchourie Meridionale」『Journal of the College of Science, Imperial University of Tokyo』,Vol.36,Art.8

 ところが、事件が起きました。松村 瞭[1880-1936]は、身長と頭部形態の研究で学位論文を取得しようとしていました。松村は、鳥居龍蔵に相談すると、データの取り方に問題があると指摘されてしまいます。松村は東京在住の学生を計測していましたが、鳥居は本来ならできるだけ家系を遡ってその地方を代表するかどうかまで検討すべきだと指摘したのです。鳥居は、自身でも生体計測の研究を行っていましたので、鳥居の指摘は最もでした。しかし、身体が弱かった松村にとっては、地方にまで出かけることは難しかったのでしょう。松村は、医学部の小金井良精に相談します。小金井が残した日記によると、相談した日は、1924年1月24日のことでした。小金井はその原稿を1週間で読み、価値があると認めます。同年2月7日に、松村は学位論文申請を行いました。この頃、鳥居龍蔵は、何度か辞表を提出し、とうとう受理されてしまいます。

 実は、鳥居は、以前、坪井正五郎の時代にも辞表を提出したことがありました。鳥居龍蔵は、1924年6月2日に、東京帝国大学を正式に辞職します。松村は、1924年11月7日に理学博士号を取得し、翌、1925年5月に鳥居の後任として助教授に就任しました。鳥居の弟子の山内清男[1902-1970]は1924年秋に東北帝国大学医学部解剖学教室の長谷部言人[1882-1969]の元の副手として移籍し、1925年3月に石田収蔵[1879-1940]も東京農業大学教授として移籍しています。鳥居は、「鳥居人類学研究所」という看板を掲げて一家で人類学研究を行いました。ただ、国学院大学教授としても教鞭をとっています。

 1928年、鳥居龍蔵は上智大学の創立に協力し、文学部長兼教授に就任しました。国学院大学は、1933年12月31日付けで辞職しています。1939年8月、北京燕京大学から招聘され客員教授に就任しました。しかし、1941年12月8日の太平洋戦争勃発により大学は閉鎖されてしまいますが、そのまま北京に滞在して研究を行います。1945年8月15日の終戦により、大学は再開され、再び客員教授に復帰しました。鳥居龍蔵は、1951年7月に北京燕京大学を退職し、同年12月に中国から帰国します。

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晩年の鳥居龍蔵[鳥居博士顕彰会(1965)『図説鳥居龍蔵伝』より改変して引用]

 鳥居龍蔵が調査した地域は、以下のように、東アジアが多いのが特徴です。まさしく、野外調査に明け暮れた人生だと言えるでしょう。また、鳥居が秀でている所は、これら調査の結果を必ず、報告書・論文・著書として記録を残していることです。調査では、当時珍しかったカメラを使用して多くの写真を残しました。現在、東京大学総合研究博物館には、鳥居龍蔵によって撮影されたガラス乾板が1,889枚収蔵されており、当時の貴重な記録をとどめています。

  • 1895年:遼東半島・満州
  • 1886年~1898年:台湾
  • 1899年:千島列島北部
  • 1900年:台湾
  • 1902年~1903年:西南中国
  • 1905年:満州
  • 1906年~1908年:蒙古
  • 1909年:満州
  • 1910年~1916年:朝鮮半島
  • 1919年:東部シベリア
  • 1921年:東部シベリア
  • 1926年:山東省
  • 1927年:満州
  • 1928年:東部シベリア・満州
  • 1930年~1932年:満州
  • 1933年:蒙古・満州
  • 1935年:満州
  • 1937年:ブラジル・ペルー・ボリビア
  • 1940年~1941年:中国各地

  鳥居龍蔵が書いた論文や本は膨大ですが、代表的な著書は以下の通りです。この他、1975年~1977年にかけて、『鳥居龍蔵全集』全12巻+別巻1巻が、朝日新聞社より出版されています。

  • 鳥居龍蔵(1902)『人種誌』、蒿山房
  • 鳥居龍蔵(1902)『千島アイヌ』、吉川弘文館
  • 鳥居龍蔵(1904)『人種学』、大日本図書[このブログで紹介済み]
  • 鳥居龍蔵(1911)『蒙古旅行』、博文館
  • 鳥居龍蔵(1918)『有史以前の日本』、磯部甲陽堂
  • 鳥居龍蔵(1924)『人類学及人種学上より見たる北東亜細亜』、岡書院
  • 鳥居龍蔵(1924)『日本周囲民族の原始宗教』、岡書院
  • 鳥居龍蔵(1925)『有史以前の跡を尋ねて』、雄山閣
  • 鳥居龍蔵(1925)『人類学上より見たる我が上代の文化』、叢文閣
  • 鳥居龍蔵(1926)『極東民族 第1巻』、文化生活研究会
  • 鳥居龍蔵(1926)『人類学上より見たる西南支那』、冨山房
  • 鳥居龍蔵(1927)『満蒙の探査』、萬里閣書房
  • 鳥居龍蔵(1936)『満蒙其他の思ひ出』、岡倉書房
  • 鳥居龍蔵(1937)『遼の文化を探る』、章華社
  • 鳥居龍蔵(1953)『ある老学徒の手記』、朝日新聞社[このブログで紹介済み]
  • 鳥居龍蔵(1980)『中国の少数民族地帯をゆく』、朝日新聞社[このブログで紹介済み]

 1951年12月に中国から帰国した鳥居龍蔵は、自叙伝を執筆します。その自叙伝『ある老学徒の手記:考古学とともに六十年』は、1953年1月10日に朝日新聞社から出版されました。その4日後の1953年1月14日、鳥居龍蔵は、家族に見守られながら東京で死去しました。自叙伝を出版して4日後に亡くなるとは、人生の幕引きは鮮やかでした。まさしく、野外調査に明け暮れ、人類学に一生を捧げた波乱万丈の人生だと言えるでしょう。

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鳥居龍蔵(1953)『ある老学徒の手記』表紙(*画像をクリックすると、拡大します。)

 なお、夫の鳥居龍蔵を支え続けた鳥居きみ子は、1959年8月19日に東京で死去しました。1965年1月12日には、鳥居夫妻の遺骨は故郷徳島に帰り、徳島県立鳥居記念博物館構内に設けられたドルメンに埋葬されています。この徳島県立鳥居記念博物館は、1964年3月に鳴門市に開館していましたが、2010年11月3日に徳島県立鳥居龍蔵記念博物館と名称変更がされ徳島市にリニューアルオープンしました。数ある人類学者の中で、名前を関する博物館は現在の所、鳥居龍蔵だけです。

*鳥居龍蔵に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 鳥居博士顕彰会(1965)『図説・鳥居龍蔵伝』
  • 寺田和夫(1975)『日本の人類学』、思索社[角川文庫に所収]
  • 白鳥芳郎・八幡一郎(1978)『日本民俗文化大系9.白鳥庫吉・鳥居龍蔵』、講談社
  • 林 謙作(1984)「鳥居龍蔵論」『縄文文化の研究10.縄文時代研究史』、雄山閣、pp.162-170
  • 末成道男(1988)「3.鳥居龍蔵:東アジア人類学の先駆者」『文化人類学群像3.日本編』、アカデミア出版会、pp.47-64
  • 中薗英助(1995)『鳥居龍蔵伝』、岩波書店[2005年に岩波文庫に所収]
  • 田畑久夫(1997)『民族学者・鳥居龍蔵』、古今書院

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