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人類学のススメ

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日本の人類学者4.今村 豊(Yutaka IMAMURA)[1896-1971]

2012年06月02日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Yutakaimamura

今村 豊(Yutaka IMAMURA)[1896-1971][新潟大学医学部解剖学教室(1957)『人類学輯報』第18輯より改変して引用](以下、敬称略)

 今村 豊は、1896年9月18日に、長崎県長崎市で生まれました。やがて、第五高等学校(熊本)を経て、京都帝国大学医学部に入学し、1921年に卒業します。

 卒業後、京都帝国大学医学部外科学教室副手を経て、1922年9月に足立文太郎[1865-1945]の元で解剖学教室助手に就任し、1924年2月には京城医学専門学校講師に就任すると、翌3月にはその身分のままドイツへ留学します。留学後は、新設予定の京城帝国大学医学部に赴任する約束で留学したと言われています。この大正末期は、日本全国の医学専門学校が大学に昇格した時期で、解剖学の教員が不足していたそうです。ドイツ留学中の1926年4月には京城帝国大学医学部助教授に昇任し、1926年5月に約2年のドイツ留学から帰国しました。

 1928年4月には、京城帝国大学医学部解剖学第3講座教授に就任します。この解剖学第3講座の助教授は、京城帝国大学医学部出身の島 五郎[1906-1983]が就任しました。ちなみに、京城帝国大学では、解剖学第1講座の上田常吉[1887-1966]も人類学研究を行っていました。

 今村 豊は、1938年10月に京城帝国大学医学部長に就任し、1940年10月まで2年間の任期を全うしました。1945年6月には、京城帝国大学に大陸資源科学研究所が創設され、その初代所長を兼務しています。しかし、その2ヶ月後には終戦となり、しばらく、混乱の日々が続きました。1945年12月に、ようやく内地に引き揚げると、博多引揚援護局検疫所長や佐世保引揚援護局検疫所長に就任しています。

 その後、1947年12月に、広島県立医科大学講師(現・広島大学医学部)に就任し、1948年9月には、広島県立医科大学解剖学教授に就任しました。ちなみに、この広島県立医科大学解剖学教室には、後に京都大学教授となる人類学者・池田次郎や明治大学教授となる文化人類学者・蒲生正男[1927-1981]も教室員として在籍しています。蒲生正男の就任は、京城帝国大学法文学部出身で後に東京大学東洋文化研究所の教授となる文化人類学者・泉 靖一[1915-1970]の推薦によると言われています。

 1952年4月には、新潟大学医学部解剖学第1講座教授に就任しました。その後、1959年4月に三重県立大学医学部(現・三重大学医学部)解剖学第1講座教授に移籍し、1961年4月には医学部長となっています。しかし、学部内事情により責任を負い1962年3月に退官しました。学内事情とは、学位論文金銭授受事件だと言われています。

 今村 豊の研究は、半島や大陸での出土人骨や生体計測を多く行っています。実際、半島では約300体・旧満州では約100体・モンゴルでは約200体・ニューギニアでは約70体の、合計約700体もの人骨を収集しました。しかし、これらの人骨は、すべて大学に置いて内地に引き揚げたそうです。

 今村 豊自身の「還暦を迎えて」(『人類学輯報』第18輯)によると、門下生として、小浜基次[1904-1970]・鈴木 誠[1914-1973]・池田次郎・三上美樹の名前が挙げられています。

 1971年1月13日、今村 豊は風邪をこじらせて肺炎となり、三重県津市で74年の波乱万丈の人生を閉じました。

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新潟大学医学部解剖学教室(1957)『人類学輯報』第18輯表紙

*今村 豊に関する資料として、以下のものを参考にしました。

  • 新潟大学医学部解剖学教室(1957)『人類学輯報』第18輯
  • 坂野 徹(2005)『帝国日本と人類学者:1884-1952』、勁草書房
  • 寺田和夫(1975)『日本の人類学』、思索社
  • 日本解剖学会(1995)『日本解剖学会100周年記念:教室史』

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