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日本の人類学者47.江藤盛治(Moriharu ETO)[1926-1999]

2013年05月25日 | H5.日本の人類学者[Anthropologist of J

Moriharueto

江藤盛治(Moriharu ETO)[1926-1999][馬場悠男撮影(1986年インドネシアにて)](以下、敬称略。)

 江藤盛治は、1926年8月29日に、満州のハルピンで生まれました。その後、1944年に日本中学校(現・日本学園)・1947年に旧制松本高等学校理科(現・信州大学)を卒業し、1950年には東京大学理学部人類学科を卒業しました。卒業後、1955年から1960年までは母校に研究生として在籍しています。

 1960年10月、江藤盛治は日本医科大学解剖学教室の講師に就任します。当時の日本医科大学は、第1講座が横尾安夫[1899-1985]が教授で、第2講座が金子丑之助[1903-1983]が教授でした。江藤盛治は、当初、金子丑之助の第2講座講師に就任しましたが、1963年に第1講座助教授に就任しています。ちなみに、横尾安夫は、東京帝国大学医学部出身で、小金井良精[1859-1944]の弟子でした。日本医科大学在職中の1971年には、「骨年齢から見た東京都児童の骨発育:日英2方法の適用による比較研究」により、日本医科大学から医学博士号を取得しました。

 なお、1968年には、東京と京都で第8回国際人類学民族学会議が開催され、江藤盛治は事務局長として活躍しました。

 1973年に獨協医科大学が新設されることになり、江藤盛治は日本医科大学から移籍し、初代第1解剖学教室教授に就任します。この年、助手として茂原信生と馬場悠男が着任しました。1974年には、日本医科大学から芹澤雅夫が助教授として着任しています。

 江藤盛治の大学時代の指導教官は、鈴木 尚[1912-2004]でしたが、須田昭義[1900-1990]とはエリザベス・サンダース・ホームの日米混血児童の研究を、渡邊直経[1919-1999]とは理化学的検査法を研究しています。また、ここでは省略しますが、多くの遺跡出土人骨を、馬場悠男と茂原信生と共に報告しています。

 江藤盛治の人類学分野の主な論文は、以下の通りです。

  • 江藤盛治・寺田和夫・渡邊直経(1955)「伊豆青ヶ島住民の身体計測」『人類学雑誌』、第64巻第1号、pp.27-41
  • 江藤盛治(1957)「Gargoylism患者身体計測」『人類学雑誌』、第65巻第4号、pp.165-172
  • 江藤盛治(1963)「縄文土器の焼成温度の推定」『人類学雑誌』、第71巻第1号、pp.23-51
  • 須田昭義・山口 敏・保志 宏・遠藤万里・江藤盛治(1965)「日米混血児の身長と体重の長期観察」『人類学雑誌』、第73巻第2号、pp.54-63
  • 須田昭義・保志 宏・佐藤方彦・江藤盛治・芦沢玖美(1968)「日米混血児の胸囲と坐高の長期観察」『人類学雑誌』、第76巻第3号、pp.95-104
  • 江藤盛治(1971)「骨年齢から見た東京都児童の骨発育」『人類学雑誌』、第79巻第1号、pp.9-20
  • 須田昭義・保志 宏・江藤盛治・芦沢玖美・北条暉幸(1973)「日米混血児の胴長・腸骨棘高・肩峰幅・腸骨稜幅の長期観察」『人類学雑誌』、第81巻第3号、pp.185-194
  • 須田昭義・保志 宏・江藤盛治・芦沢玖美(1975)「日米混血児胸部成長の長期観察特に胸郭内外の成長型の相違について」『人類学雑誌』、第83巻第1号、pp.95-106
  • 須田昭義・保志 宏・江藤盛治・芦沢玖美(1976)「日米混血児四肢成長の長期観察特に個人成長の季節変動について」『人類学雑誌』、第84巻第1号、pp.15-30

 この他、解剖学の教科書も執筆しています。

  • 江藤盛治(1971)『看護婦のための解剖生理ワークブック』、医学芸術社
  • 江藤盛治(1998)『解剖生理』、医学芸術社
  • 江藤盛治・芹澤雅夫(2001)『人体のしくみとはたらき』、医学芸術社
  • 江藤盛治・芹澤雅夫(2005)『解剖生理』、医学芸術社

 江藤盛治の大きな仕事は、骨年齢成熟の研究です。世界的に見ると、イギリスのTW法(Tanner & Whitehouse)[タナー・ホワイトハウス]とアメリカのGP法(Greulich & Pyle)[グリューリッチ・パイル]法が有名で、以下のように、1959年と1982年に本が出版されています。

  • Greulich, W. & Pyle, S.(1959)"Radiographic Atlas of Skeletal Development of the Hand and Wrist", Stanford University Press
  • Tanner, J. M. & Whitehouse, R. H.(1982) "Atlas of Children's Growth", Academic Press

 江藤盛治は、大妻女子大学(当時)の芦沢玖美と、1992年に『東京の女子の身体成長と骨成熟の縦断的観察:手のX線図譜とTW2法による評価』という集大成をてらぺいあから出版しています。この本は、前出のTW法とGP法の本と併せて成長分野における世界三大専門書と言えるでしょう。

 江藤盛治は、1984年10月から1986年10月にかけて、日本人類学会会長に就任しました。1992年、江藤盛治は獨協医科大学を定年退職します。その後任には、芹澤雅夫が教授に昇任しました。かつての教室員の馬場悠男は国立科学博物館人類研究部長に、茂原信生は京都大学霊長類研究所教授に、転出しています。馬場悠男によると、自由に研究ができる環境だったそうです。

 江藤盛治は、1999年8月16日、急性骨髄性白血病で死去しました。死後、遺体は、日本医科大学に献体され解剖学研究に貢献しています。まさしく、成長研究と解剖学に捧げた一生と言えるでしょう。

 私は、江藤盛治先生とは人類学会の時によくお声をかけていただきました。学会では、若い会員に呼びかけて、誰からも意見を聞くという姿勢を貫いておられ、非常にリベラルな先生だという印象を持っています。同時に、非常に温厚な紳士だという印象を覚えています。1999年8月29日に宝仙寺で行われた葬儀に、私も参列させていただきました。その時、奥様のご挨拶で「若い時にX線を使った研究を多数行い被爆しているので、いつかそれが影響するだろう。」とおっしゃっておられたことを知りました。

 なお、江藤盛治先生の写真は、かつて獨協医科大学時代の部下で国立科学博物館名誉研究員の馬場悠男先生に提供していただきました。1968年に、当時、国際協力事業団からインドネシアに派遣されていた渡邊直経[1919-1999]先生を江藤盛治先生と一緒に訪問した際のものだそうです。記して感謝いたします。

*江藤盛治に関する資料として、以下の文献を参考にしました。

  • 香原志勢(2000)「江藤盛治さんの御逝去を悼む」『人類学雑誌』、第108巻第1号(頁番号記載無し。巻頭に4頁。)
  • 日本解剖学会(1995)『日本解剖学会100周年記念:教室史』 

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