前回は、仁王門前の、目黒区教委作成の目黒不動・瀧泉寺の沿革説明板を紹介、家光との関わりを「鷹居の松」に見た。
目黒不動尊・瀧泉寺の石造物紹介が目的なのに、今回も本題とは外れた「五色不動」について触れることにします。
瀧泉寺(目黒不動尊)…『天台宗泰叡山龍泉寺は、大同3年(808)に慈覚大師が開創したといわれ、不動明王を本尊とし、通称「目黒不動尊」と呼び親しまれています。江戸時代には3代将軍徳川家光の帰依により堂塔伽藍の造営が行われ、それ以後幕府の厚い保護を受けました。また、五色不動(目黒・目白・目赤・目黄・目青)の一つとして広く人々の信仰を集め、江戸近郊における有名な行楽地になり、門前町とともに大いに賑わいました。(目黒区教育委員会)
この文章を読む限り、五色不動は、江戸時代からあったように思われます。
しかし、江戸時代には、目黒・目白・目赤の三不動だけで、目黄・目青を含めて、五色不動となったのは、明治末期のことでした。
目青不動(経学院/世田谷区太子堂)
目黄不動(永久寺/台東区三ノ輪)
「五色には二タ色足らぬ不動の目」(『誹風柳多留』文化5年/1808)という江戸川柳があることでも、それは分かる。
しかも、目黒・目白・目赤の江戸三不動には、他の不動には見られない共通点がありました。
目白不動(金乗院/豊島区高田)
それは、不動堂を管理する別当寺を有していたこと。
目黒不動の場合、別当寺は瀧泉寺だったことは言うまでもありません。
明治維新時の神仏分離令で別当寺制度は廃され、不動堂は瀧泉寺の堂塔の一つとなったというわけ。
もう一つ付け加えるならば、三不動はいずれも家光と深い関係を持ち、目白・目赤不動は、その名を家光から賜ったと伝えられています。
目赤不動(南谷寺/文京区本駒込)
更に「目からうろこ」の話をすれば、五色不動は目の色が違う5体のお不動さんではないということ。
普通は、五行思想の五色にまつわる不動尊と思われているが、目黒不動は、「目の黒い」お不動さんではありません。
目黒という地名が、不動尊が請来される前からあったので、「目黒村のお不動さん」の意。
本尊前のお前立お不動さん(瀧泉寺/目黒区下目黒)
他の、「目白」は、「目の白い」、「目赤」は、「目の赤い」お不動さんで、五色不動の中で「目黒」だけが仲間外れ
ということになります。
予定では、「富くじ」についても言及するつもりでしたが、前説が長すぎるのでカット。
次回から、本題の「目黒不動の石造物」に入ります。
≪続く≫
参考資料
◇田丸太郎「五色不動はいつできたか」(『郷土目黒』no54/平成22年)